人を幸せにする人になろう

2018年9月19日(水)~21日(金)、府中合同調査

◆今度は日本史の合宿。いよいよ府中の調査。府中は5つの町会があり、聞き取り調査が中心。初 日の午後は、2年前の肥子の時におよそめぐった、この地域の水路の未確認部分をめぐっていた。
◆最終日の報告会の時に配布した図を示します。明治の地籍図段階の府中の地籍は、院生が事前にトレースしてくれていて、黒線の範囲。これを見ると、条里大区画の4単位であることがわかる。伯太は1単位だったし、とくに芦部の時に芦部町域が1単位であることに驚いたのと同じ。府中でいえば、和名抄では上泉郷と下泉郷だが、江戸時代では上泉郷は限られた範囲となり、上條郷と下條郷という名前に変わっている。府中は上條郷の東端部の4区画分が村域となっているわけである。
◆江戸時代の村々が基本的に中世にさかのぼるとして、その村域というのは古代の行政区画と無関 係に自立した村としてそれぞれの領域をもつように思いこんでいたが、そうではないわけです。古代に郷域ができあがり、それが維持されていく中で、生活単位もそれにしたがうものとして形成されるわけです。7世紀の法隆寺郷が軽部郷の一画を割いて与えられるように、庄園なども郷のなかで、しかも36町大区画を基準に所領の区分などがなされていくのであろう。
◆芦部村1区画、府中村4区画という区画がいつどのように設定されるかという問題である。10世紀に名田ができてくるあたりに遡及するのではないか。現代につながる集村の成立は中世とされるが(そうでなくさかのぼるとの意見も)、それは古代のこうした条里地割の大区画を基礎とする単位の中で形成されてくる、と考えられるのではないだろうか。そのへんは、ぜんぜん研究史的なチェックはできていないが、感覚的にはそう感じる。近世村の領域は条里に規制されているのではないか、それが中世やら近世にできあがってくるのでなく、その前のより古い時期にこそ、こうした地割にもとづく領域の原型があったと考える方がいいだろうというのが、いまの見込み。
◆府中でいうと、4区画の原型が、近世初頭までに出入りが生じ、泉大津の豊中のものとなるエリア、上泉の伯太の領域となるエリア、逆に、上泉郷や軽部郷にも府中域が拡大して、検地帳が3冊に分かれることになるのであろう。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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