人を幸せにする人になろう

2024年2月17日 N科研の研究会

◆久津川車塚古墳は誉田御廟山型。これを今日レベルで示し、かつ複製の あり方を合理的に説明で きるものとすることが課題。そのために、誉田御廟山の設計を確かなものにすることがまず必要。で、これをやったわけです。
◆誉田御廟山については、N先生の2015年論文がある。設計寸法の復元では少なからず見解が異なる(実物の復元からはそうはならない)。N先生の設計理念は妥当なんだろうが、その先の実際の実施設計がどのように行われたのかは、まだ十分な説明ができていないと思う。
◆この研究会の準備を水曜日にやっていたが、N先生の研究の問題点は把握できた。復元の細部で異なる点があり、どこがどう違うかまでは整理した。でも、基本コンセプトがダメなのかというと、美しく、ありうるなと。どう折衷できるか、理屈が整えば論文になるな~、と思いつつ。
◆誉田300歩VS久津川125歩で重ねた図。車塚の段築斜面は黄色なのだが、墳丘についてはほぼ重なって、誉田の青しか見えないくらい美しく重複している(と少なくともわたしは思う)。
◆誉田の納得いく実施設計案をまとめること、その先、久津川の設計の整理、次に誉田があって久津川へどう複製しているか、来年までの課題ですね。まだ道は遠い。
【追記】カミサンが左手首を骨折。

天川橋

◆出張所の裏に、文政に作られた総竜山石製の太鼓橋が移築されていた。昭和47年の天川水害で壊れるまで架かっていたのだそうです。そう、この水害は記憶にある。下流側の高砂市域で、川水があふれ、けっこうな家屋の浸水被害をもたらした。

御着城跡地

◆公園になっており、東側の二ノ丸もグラウンドになっているが残っているよう。黒田官兵衛の顕彰碑がある。 お城のようなものがあり何かと思ったら、市役所の東出張所であった。こんな瓦葺の立派な建物はなかったんでしょうね。これも池田城と同じく遺構に即したものではなく、御着城跡地であることをシンボライズするために建てたものなのだろう。裏手に堀跡があるので、それなりに地表上に起伏が残っており、縄張りなども江戸期には図示したものがありそうなもの。そして、発掘調査も行われたと記憶する。
◆もともと前から市役所の出張所があったとして、いつこの建物に建て替えたのかはわからないが、大河ドラマ「官兵衛」で注目される前なんだろう。
◆ウィキによると、「廃城後、江戸時代には御着本陣が置かれていた。現在、国道2号北側の本丸跡付近は姫路市役所東出張所・御国野公民館・御着城跡公園、南側は民家や小公園などになっている。」、とのこと。縄張りの復元図もありました。

2024年2月12日 壇場山古墳

◆カミサンがアクリエひめじで仕事があるので、車で送る。終了後に会議のため三田の職場に行かないといけないので、アッシー君を頼まれたわけである。なので、アクリエひめじまで送ったあと、終了する12時までどうしようかなと。御着の壇場山古墳に行くことにした。
◆なかなか墳丘上部が急崖となっており、3段築成の様相がはっきりしない。明確なのは下段のみ。下段裾部は、葺石礫等を含む上部と開墾で削り込まれた下部が明瞭で、斜面を復元的に考えれば、ある程度、裾部がどうのびるか推定できる。本来の周濠がそのまま田になっており、あまり深くもぐることはないだろう。既に基底部が開墾で飛んでいるか、いくぶ んか下位か・・・。
◆で、後円部渡り土手。仲津山・女狭穂と、ほぼ同じ位置にある。壇場山では、現状では、さらに反対側にも渡り土手が取り付く。

最後は民俗

◆牛鬼と五ツ鹿というのが有名だが、この大草履とか、初盆の行事とか、面白そうな習俗がある。が、どことも人材不足、子供不足、今年はなんとかやったが来年はどうなるかわからない、いつ途絶えてもおかしくない、と。
◆宇和島の踊りの動画もあった(これは城の横の郷土館だったか)。これを見て「昭和だな~」と思った。1970年代くらいまで、戦後のベビーブームもあり、若い人々が多くいて、昔ながらの産業がまだあって、祭りがあり、担い手もいた。1975年くらいが転換点かな。首都圏とか阪神圏はより早いとして、全国でいうと、1970年代後半あたりから、高度経済成長を経て農業などでは苦しくなっていき、若い者がマチに向かい、江戸時代以来の地域が存立しにくくなり、生活が変容していく。
◆グッズもいくつか購入し、ミュージアムで16時となり、帰途につく。400数十キロメートル。明石海峡大橋で事故渋滞となったのもあり、帰り着いたのは22時前くらいだったかな。

銅の生産

◆別子銅山と同じ三波川帯で、小規模な銅鉱山が50何箇所もあったらしい。そして精錬所が作られていた。三崎精錬所の写真がパネルにあった。1965年の高浦鉱山の閉山が最後となったそうである。
◆そして出稼ぎ。杜氏として宇和島などに出ていたとか、船大工として九州に行っていた、という話である。

◆なかなかいい写真が残っている。カメラマンが記録していたらしい。この写真は1953年。説明によれば、馬喰から買った黒牛を、家々で飼っており、夕方?になると海の浜に連れてくるという話だったような。その時の写真だそうです。立派に育ててやれば、何万円かになった、と。

次は産業

◆海産物。漁業は食っていける。海女さんだけでなく海士さんがけっこういるようだ。牛はいまは1箇所だけになってしまった、ということだった。
◆農業。昔の段々畑の写真が美しい。縦写真の画像は展示パネルだが、こんな急傾斜地に畑が開かれている。ここで主に芋、そして麦を作っていた。それが右のグラフのように、戦後ミカン畑になる。なお、漁業のところに海藻取りの画像があり、ガイドさんがこれは肥料にしたんです、と。乾燥させて砕き、それを畑の肥料として鋤き込んでいたらしい。アイスランドでは、岩盤に海藻を敷いてやはり芋を植えていたのだったか?。
◆そのミカンも80年代から下り坂。だいたい自分の感覚とあっている。むかし小・中学校の頃、冬になると箱でミカンを買っており、「食べ過ぎ」といわれるくらい食っていた。お菓子なんぞ、あまりなかったし。みかんの特産地は和歌山や静岡などほかにいくつもある。そのなかでも、愛媛の出荷額がいちばん落ちていると聞いたことがある。まだ和歌山は頑張っているのだとか。和泉も盛んだったが、放棄地が多くなっていますね。

伊方町立の佐田岬半島ミュージアム

◆佐田岬半島の中間くらいの、北側の瀬戸内海を見下ろせる景勝地に道の駅ができ、ミュージアムが併設されている。ミュージアムに入る前に遅い昼を取った上で、博物館に入る。ガイドのおじさんがおられ、熱心に解説していただき、長い時間滞在した。
◆まずは地質。三波川帯の緑がずうっと通っているでしょ。
◆ガイドの方の話は、昔は1.2万人が住んでいたのが半分になってしまった、というところから始まった。そこで、2022年5月に三崎港で「しらす」を食べた「はなはな館」をオープンさせ、2023年5月にこのミュージアムを開館させた。また以前からあった温泉施設を、廃止させずにリニューアルオープンさせたところだ、という説明であったか。観光客を引き込み、移り住む若い人を呼び込もうと力を入れている。そういうことを熱く語っていただきました。

名取の石積み景観

◆岬から引き返し、佐田岬半島ミュージアムにむかう。途中、「名取 石垣の集落」という案内があったので、いま高いところを通っている国道から分岐して、村の方へ進む。佐田岬半島は、とにかく隆起した急傾斜のとんがりが海から突き出していて、そういうところにもかかわらず、瀬戸内側・太平洋側、それぞれ斜面地に家があり村ができている。
◆名取村の小学校跡地が駐車場となっていて、そこから細い道を降りていく。お宮さんがあり、客神社という名前で、村人が集まって神事が行われていた。
◆この名取、宮城県の名取から、馬を飼育する職人を連れてきて、住まわせた集落だそうな。たらららら~、たらららら~。けっこう上下に村が展開している。
◆2年前に長崎の外海に行った時、世界遺産にするのに、同じように石垣の集落として文化的景観になっていた。斜面地に石を積んだ集落景観としては同じである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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