人を幸せにする人になろう

網野ではないが

◆いま21:11。チューハイのロング缶が1本あいちまった。帰ってきて、今日のできごとを書きなぐっている。もう1本買いに行こうかな。
◆書こうかどうか迷うが。古事記崩年干支は、仁徳427・履中432・反正437。履中は書紀で6年、反正5年。また、日本書紀紀年は、允恭と仁徳と応神の在位年を引き延ばし水増しするが、履中と反正は逆に割をくって在位年が短くなってしまっている。なんでそうしたのかな、と考えていた。わたしは、操作するにしても、適当でなく、全部が全部でないにせよ、理屈があるはずだと考えている。そこが解ければ、と。でも、頭が悪いのでわかりません。
◆書こうかどうか迷うというのは、こっちの理屈で苦しいことを考えている点です。仁徳と履中の古事記の没年は入れ替えられている、と(どこかに結論だけは書いた)。それを読んだ人は、屁理屈というか、苦し紛れというか、つじつまをあわせるための、ご都合主義と思うだろう。そのことを書こうかなと思う。酔った勢いですね。
◆允恭元年が433だとする。これは古事記の履中没年432と接続する。反正は、允恭元年から5年まで存在していたが、日本書紀ではこの5年はなかったことになっている。その前に書紀では5年の在位があり、あわせると10年、反正元年は428年となる。これは古事記の仁徳没年427と接続する。このへんは基本的に倉西さんが指摘していたこと。そうなると、履中→允恭、仁徳→反正という継承になってしまう。履中は執政王とみているのに、継承するのは神聖王の允恭。仁徳は神聖王とみているのに、継承するのは執政王の反正。これはわたしの論理からは矛盾し、破綻することになる。

網野とちがうが

◆で、ほんとの応神元年が385年として、なぜ書紀は390年(270年)としたのだろうか。これは五社神古墳の被葬者の死没を表すのかな~、と車の中で考えていた。
◆応神は執政王位を簒奪したと考えているわけです。前任の執政王が倒された。が、神聖王はまだいるわけです。応神が385年に執政王になったとして、5年間は佐紀の神聖王と並立状態にあったのではないか。そして五社神古墳被葬者の没後、オオササギを神聖王に立てた。これによって完全に河内政権が樹立される。そんなことを考えていました。
◆いま中四研の論文を書いていて(4月あたまが締め切り)、五社神型前方後円墳の部分はだいたい書き終わりましたが、これらは中期前葉。これらは佐紀後半期に築造に着手、没したのは河内政権に移行した中期のはじめになったものと考えているが、まあ、ことごとく中期に入る。なので、五社神そのものも、埋葬年は390年で、応神の段階ということはありうることだろう、と。

続き

◆で、N先生のいうとおり、応神元年が385として、しかし在位41年をそのまま認めるのは承服しがたい。論文としても、途中までは、在位41年が正しいとすると「385から425年になる」という書き方だった。が、最後は、在位が385から425であることが明らかになったとして、議論が続く。誉田御廟山はちょうど425頃だから(誰かの研究が引用されていた)、御廟山は応神陵でいいんだ、と。それはないだろう。
◆雄略が467から489になるんでしたっけか。とにかくも、応神君が425年までやってたら、その間は全然つじつまがあわないだろう。仁徳っていつからいつ?、履中はいつからいつ?、反正はいつからいつ?、允恭はいつからいつ?、そういう整合性がとれないだろう。そこは、応神紀に関する卓抜な研究であるが、最後はあれれとなる。390じゃなく385なんですね、5年ちゃうんですね、というくらい。応神が41年間在位したことは証明されていないのである。先に古事記崩年干支の信憑性を反正まで示したように、古事記崩年干支の応神没394のほうが、実際ではないのか。
◆SGさんが、笠井倭人さんの、書紀紀年で記事のある条を数え、それでほんとの在位年を考える研究を使う。それを見ると、古事記崩年干支とほぼ近似する。その時どっちを使いますか。日本書紀で、紀年はあっても記事のない空白年は架空で、記事のある年の足し算が実際の在位年を示すというひとつの見方、考え方は間違っていないかもしれない。だけど、SGさんは、考古学の古墳の年代と対比する倭国王の在位年として、この笠井年を使って議論する。なんでやねん。
◆古事記崩年干支を絶対視することはできない。が、これは史料にある年代の手がかり。それに対し笠井説は、一定の見識で近似的なものが導かれているが、これは日本書紀編纂のフィルターがあり、20世紀の研究者がひとつの仮説的見方で足し算をしたもの。そっちがなぜに古事記より信頼できるのか、原著論文ではどう書いてあるのだろうか。

網野つづき

◆車だと論文を読むことはできず、5世紀の年代について考え、車中でぶつぶつ論じていました。N先生の論文で、雄略没は489年という。N先生は言わないが、これは古事記崩年干支に一致するということで、允恭は古事記454、書紀453。書紀は越年称元法なので、安康元年454年がほんとの允恭没年で、それを安康元年にするから、允恭末年は453年になる。すなわち一致している。それと、倉西さんの美しい方程式。允恭20何年かのキナシ立太子は、後継者と決まるもスキャンダルで自殺することが古事記では允恭没後のことになっており、代替わりを意味する可能性が高い。それが454年とすると、允恭元年は433年。で允恭5年に反正のモガリ記事がある。5年前に死んだ反正のモガリが5年後というのはありえず、実際にはこの時に反正は死んだんだろう。そうすると、允恭元年が433とすると允恭5年は437年となり、古事記崩年干支の反正没年に合致する。これ美しいですね。またこれは、2王並立が図らずも現れている事例になる。
◆とにかく、古事記崩年干支は、雄略の489、允恭の454、反正の437、と一定の信憑性があることが裏付けられる、ということ。考えたかったことは応神なのだが、とにかくこんなことを、声を出しながら思考し、頭の体操をしながら丹後へ向かいました。
【写真】会議の行われた会場から望む銚子山。伐採が進んで、側面がよく見える。

2024年3月15日 網野

◆昨日、文学研究科紀要『人文研究』の3校を返した。今年から電子ジャーナル化することになったので、PDF納品で、ホームページにアップすると終わり。なのだが、それが簡単ではなさそう。とにかく昨日は、来週の教授会資料の締め切りだったので、それに一日あてる。12月以来の全学・研究科内の委員会の議事録をさぼっていたので、さ~大変。
◆で、まあ、溜まっていたものを片付けてすっきりした上で、本日、丹後にでかける。カミさんは筑波大学日帰り。互いに出張です。
◆車で行こうと思っていたが、昨日は鉄道にしようと思い、車中で読む論文を4つプリントした。が、朝調べると(前日に調べとけよ)、うまいぐあいのものが短時間でわからず、結局、車になる。朝、ガソリンを入れて、走行距離メーターをリセット、帰ってきたら、362キロでした。片道180キロあるんですね。2時間半から3時間というところ。
【写真】西都原の菜の花。

高輪築堤と旧門司駅の遺構

◆日歴協のHPで、いろいろ知らないことを知る。旧門司駅の問題は、新聞報道もあったのに、まるで無関心でした。市長は保存はせず、一部移築とし、新年度予算案に盛り込んで、4月にかかる予定であったが、議員が反対し、この移築予算が通らなかった、とのこと。文化複合施設を予定通り建てる、遺跡は壊す、という北九州市の議員が大勢を占めたよう。
◆門司港レトロを売り出しつつ、それは門司港で十分、門司駅の遺構はいらん、というわけです。写真の範囲なのか、貨物の方なのか、調査区の位置がわからないが、有用な観光資源になりうるのに・・・。日本考古学協会から要望書が出ている。
◆また高輪築堤の続きのところでも、いろいろ新たなことがわかってきているようです。

『歴史科学』最新号

◆大阪歴史科学協議会の例会で陵墓問題を取り上げたものが活字になった。例会の日は、先約があって出ることができなかった。Tさんの文章の文末を掲げておきます。重いですね。プラス面があることは事実で、考古の側はそういう立場が多いように思う。とくに古墳をやっている者は、世界に認められた!、といった気持も否定できないでしょう。が、純然たるハカリに掛ければ、その通りだと思う。名称の問題はきわめて重大。
◆いま16学協会では、ワーキングを作り、人によって異なる古墳名を、学会側として統一案を出そうとしているとのこと。やれることをやる、これを主導するTさん、頑張っています。
◆この論考で驚いたのは、イコモスの評価書には、祭祀が続けられていることも日本の文化として重要だ、といった書き方をしていたこと、これに対し日本側は、それは本質ではないと反論していた、ということ。知らずに恥ずかしい限りである。

2024年3月10日、富田林

◆翌日、カミサンを整形外科に連れて行く。ギブスが取れ、もういいのだそうである。昼には戻り、息子夫婦は帰っていき、娘は大分県佐伯の友人のところに行く予定を組んでおり、OCAT2130頃発の深夜バスとのこと。なので、3人ででかけることにする。
◆尼崎に行こうかと思ったが、富田林にする(なかなか尼崎の博物館に行けませんね)。で、びっくり。大勢の観光客でごったがえしている。なにかフェアをやっていて、いろいろ回って回答して何か当たる、といったことのようだが(延長しますとの書き込みもあった)、各家の雛飾りとも重なり、人が集まっていることに驚いたわけです。何度か来ているが、最初は7年くらい前だったか。5年位前には交流館ができた頃だったような気がする。その頃に比べると、お店もでき、飲食できるところも明らかに増えている。寺内町のデンケンで、これくらい観光客を集めているところは他にあるのだろうか、というくらいの賑わいでした。
◆きわめつけは酒蔵を改造した地ビールが飲める店。こんなん、なかったぞ。入口からは想像がつかなかったが、中に入ると酒蔵は広い。客も次から次へと覗いては入って行き、みなさん10種類くらいのなかからビールを頼み、適当なツマミを取って、ほんとに楽しくしゃべっている(わたしはノンアル)。こういうの必要ですよね。
◆驚きの富田林寺内町でした。

2024年3月9日 母の一周忌

◆前日に子らもみな帰ってきてくれ、土曜日の朝、加古川のお寺に行きました。画像は3月11日の夕刊。毎年、母は、イカナゴの釘煮を作って送ってくれていました。が、かなり少なくなっているようです。その後の情報に寄れば、解禁はされたが、この日だけで終わった、とのこと。
◆9日はお寺での一周忌の後、東加古川駅近くの店で食事、そのあと場所を喫茶店に移動し、話をする。国分に戻ると1830。子供らは2泊してくれて日曜日に帰るので、正月よりもゆっくり話ができました。なぜか数学やら化学・物理の話題も出る。

西都原博物館20周年

◆2004年にできたのですね。20周年だそうです。 最上階のレストランで食事をしました。その時に撮ったもの。いまではそう年齢も違わないくらいの、やや上くらいの夫婦が、何組かおりました。西都市への観光客はピークは127万人で、いまは60万人、どのようにもっと来てもらえるか、館長さんが熱心に語ってくれました。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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