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人を幸せにする人になろう

被葬者論よりかかりと批判されるが

◆岩屋山式石室の年代をどう決めるか。被葬者論に寄りかかっていると批判を受ける。そうでないと思っているけれども、半分はあたっているかもしれない。
◆以下、難波宮本に1年半前に書いたことです(出てませんが)。石室をならべる、石室から出た須恵器を点検する。それを参照する須恵器編年が確立していて、かつ岩屋山式石室から十分な須恵器が出ているなら、須恵器によって年代の裏を取ることは必要。しかしそうではない。7世紀前半の須恵器編年は確立していないし、岩屋山式石室から須恵器は出ていない。
◆石室の年代を須恵器を介在させて決める必要はない(極論でしょうか。前にも書いたのかもしれませんが、覚えてませんし、ダブルかも)。須恵器だって飛鳥寺下層とか山田寺下層資料について、遺跡が飛鳥寺であることや山田寺であることの認定の上に、588より前とか、641より前とかを決めている(考古学だけで年代決定はできない)。そのことと、確実な被葬者論にもとづき、石室の年代を考えることに、方法論的に何ら差はない。寺と墓とかいう遺跡の種別でなく、比定の確実度の問題。あの明日香村にある1塔3金堂の寺院が飛鳥寺であることと同じくらいに、牧野古墳は彦人墓と考えてよい。なので、牧野は600年前後まで生きていたと思われる彦人墓であるから、あの石室は680年代後半であり、あれらの土器は600年前後で考えることができる。創建年代のわかっている寺院の下層土器の場合、〇年より前としかいえない。あるいは一括性が問題になる。しかし石室の場合、こっちの方がよりダイレクトに年代の参考値になる、ともいえる。
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御所を歩く

◆大平塚に行き、竹内峠を越えてまた奈良に戻り、昼食。平林を経て、中将餅。そのあと新庄経 由、御所に行く。風の森を作っているのは油長酒造。そこでは販売していなくて、東川酒店というところに行く。お酒1本と、前掛けを買いました。来年度は黒牛ではなく、風の森の前掛けをしたいと思います。そこで親切にも案内図をもらい、葛城川をはさんで西町と寺内町の東町を見て歩く。なんとなく湯浅を思い出す。奈良は、大和棟の農家の集落もいいのだが、けっこう陣屋町があって、ウダツのある町屋の残る町場も少なくない。そのなかでも御所はいいと思うんですけど。伝建にはなっておらず、町歩き観光客もまだ少ないよう。
◆モリソン万年筆の本店だったところはカフェ&バーになっていて、16時まで喫茶は開いているということだったか、夜の部まで閉まっていては入れませんでした。残念。環濠も細くなりつつ残り、背割り下水も残っていて、実にいいところでした。

2018年11月18日、岩屋山

◆前日は学内業務に1日従事。
◆翌18日の日曜日、1月末〆切の原稿のために岩屋山古墳に行く。玄室のフォトスキャンはほぼ完璧に できあがる(右)。羨道は、天気よく、コントラストが強すぎるんでしょうか、失敗・・・。再び高麗尺か唐尺かで悩み始める。まあしかし幅2.7mは唐尺9尺とみるべきでしょうね。とはいえ、最近は、難波宮の29.2㎝でやっており、30㎝からすると8㎜違い(29.7からすると5㎜違い)、9尺だと7.2㎝の齟齬をきたすが・・・。

同じく打上

◆これも初めて。山を上がって行き、かなり上がったところで右へ折れる。ここ案内ほしい。右に  折れて進むと、大きすぎる看板があり、まあその地点で北を向き、斜面を上がればあるんですけど、少し迷いました。
◆より岩屋山式。まあ、同じ段階でもよいのだろう。

秋殿南

◆こないだ10月21日の見学会時に初めていきました。やや荒れた観あり。だいぶ埋まっているんでしょうか。 

米子もええとこ

◆カミサンが米子に行き、買ってきてくれました。町歩きにはええとこですね。城跡も。ここでも何もない よ、という答えが返ってきたそうです。復元した建物がなく、「石垣だけの城跡は何もない」というのが世間の考え方なのでしょうか。
◆考古資料の並んでいる展示室はないのか、な。昔、研究室旅行で、なにか土器を見たような微かな記憶はあるのですが。遺跡名が出てきません。

なんとか廃寺

◆京都府大がかかわった兵庫県神河町の古代寺院の調査の資料をいただきました。場所は画像の通  り。その北に、本年1月2日にお世話になった神崎総合病院があります。
◆昔、瓦をやっていた時に、福知山・和久寺、朝来町の立脇廃寺の山田寺式を調べていたことがあるのを思い出す。忘却の彼方ですが。

2018年11月11日、四校交流卒論発表会

◆京都府立大に行く。地下鉄北山駅に降り立つ。比叡山、こっちが東、地下鉄の駅は下鴨本通りの 下ではないのですね。ちょっと西。そこから東に行って下鴨本通りを南下する。立派なコンサートホールがあり、その南に歴彩館があり、その裏(西側)が会場の稲盛記念館でした。
◆終了後、京都駅に移動して懇親会。終了後、またまたM大Oさんと飲みに行き、22:00近鉄特急で帰ってきました。

この土日

◆その前の金曜日は、日本史研究室の卒論中間発表会でした。4回生は2人おり、古墳時代の食器をやっているMさんにやってもらいました。
◆そのあと大歴の編集委員会。に行こうとすると、鳳かどっかで電車ストップ、上下線とも運転再開見込みは18:30とか。大雨のなか、御堂筋線に向かう。
◆土曜日、豊中のシンポ。ほぼ準備0。1年前と同じ発表です。朝、うだうだやっていて、8:30に起 き、何時集合かいなと確かめると9:30ではないか。漠然と午後だろうと思っていたのでびっくり。あわてて出発し、10時スタートには間に合う。わたしは午後の1番目で40分やらしてもらいました。なかなか豪華なシンポでしたが、会場の入りはいまひとつでした。懇親会で下條先生に九州の話をいろいろ質問し教えていただきました(写真)。最近の硯の出土について学びました。纒向の桃核の年代も、IntCalでJcalでないんですね。たしかに3世紀中頃、第2四半期くらいのところでしょうか。ヤマトの河内と大和の関係をどうみるかは、やらないといけません。大和川流域の交易拠点の盛衰は、布留1までの遺跡が布留2でなくなっていく、という研究は有名ですが、画文帯と三角縁の間の差、に対応して河内の遺跡のありようが変化するのかどうか、です。
◆たぶん、大きな変化はないか。しかしこれはヤマト国形成期から、河内と大和の関係がどのように推移したか、という、当然、考えなければならない問題でもある。しかし畿内南部こそが本拠地であって、三角縁神獣鏡配布期の北部というのは、本拠地外であって、取り込んでいくべきところ、という理解も成り立つようにも思われる。

ドクターXにはなれないが

◆わたし、失敗だらけです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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