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人を幸せにする人になろう

ウワナリ塚

◆石上大塚とウワナリ塚は、確実にその北の東西西名阪)を意識して築造したものだろう。
◆ウワナリ塚は石上大塚の隣。前方部は果樹園で、その先に後円部があり、石室が開口する。墳丘は110m、  玄室はでかい。
◆確かに、けっこうな規模です。石舞台と同じですね。が、石は十分大きいのだが、石舞台や塚穴山に比べると小さく4段
積み。奥壁も3段。天王山式とするのがよいのかな。
 ◆なんとなく、年代観からすると、尾輿〔活躍期534~662〕(石上大塚)と守屋〔活躍期572~587〕(ウワナリ)でもよいかもと思ったが、白石先生が既に言及していました。
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石上大塚

◆給水塔のところから入ればすぐ。石上大塚とワナリ塚がならんでい る。
◆石上大塚。墳丘は107m、玄室は長さ6.3mの片袖、だそうです。丘陵を掘り込んで周濠がめぐる。測量図は昔のものの再トレースか。西側面くびれ部あたりはもっと美しく、テラス面が屈曲しており、図面のようにえぐれているわけではない。
◆石室は、高い墳頂部から大きく掘り込まれ、下半部の壁体が残る。これ盗掘なんでしょうか。横穴の開口部がわからなかったんでしょうか。ほんとに後円部のトップから掘り込まれ玄室が深い位置で露出する。
◆片袖だが、石は大きいように思われる。6世紀第2四半期くらいだろうか。

2018年11月24日見学会

◆まず峯塚。次いで別所大塚。後円部のやられ、久津川車塚古墳も真っ青。125mだそうだが、本  来の設計はより大きく、丘陵との切り離しになる前方部前面は省略されており、さらに規模は大きくなるか。造り出しもあるようにも思われるが、東側はいまひとつわからず、西側は、側縁のくびれが明瞭でないため、ありそうに見えるが、中には入っていかなかった。

阿武山の写真集

◆を送っていただきました。

次いで太平塚

◆これも10月の見学会時のもの。ほぼ地べたを含めてできたが、ややヌケがありますね。西壁は2段 だが、東壁は3段、ただし天井は低い。こういうの、岩屋山亜式というんだろうか。
◆参考までに艸墓をならべてみます。

石舞台

◆こないだの見学会時に玄室の写真を撮って、床面をのぞき、おおむねマッチン グできた。 

コピーカードが出てきた!

◆スペインの放散虫学会に参加した時に配布されたチョッキを出してきて切ると、右ポケットにカードがあり、わたしのコピーカードだった。うれしい、出てきた!。
◆まあ、疲弊の原因は、いろんな仕事が片付かないまま累積している状態に対する精神的なものです。ぼちぼち片づけましょか。

2018年11月22日、雲雀山

◆滋賀県、現長浜市の雲雀山古墳群の3基をうちの大学が掘ったのは、1951年と1952年のこと。大 学には収蔵室のようなものがあり、そこにいろんなものがあったようだ。いまの文学部棟ができた時も、1室がそれにあてられていたのかな。2000年にどうであったかも、もはや記憶にない。考古学実習室なる1室があって、その後、引っ越しも何度かやったような。
◆藤原さんが去り、角田さんも辞め、関係者は直木先生のみとなり、1981年だかに栄原先生に引き継がれる。1993年の頃に、8割がたの資料を安土城考古博物館に預けたようだ。
◆2000年以降、考古学実習などで、倉庫にある遺物をひっかきまわしたりして、一応、東栗山などの縄文土器類、糞置の資料など、仕訳はして4階の機械室に入れてある(本来は301室をもらった段階で移動すべきでした)。雲雀山の資料がちらほら残っている、という程度の認識でした。
◆本日、安土城博の方が来られ、関係資料を集めることになった。栄原研究室からわたされた短甲は、そのまま自分の研究室に入れていた。ガラス小玉は301に展示。鉄器をやっている院生が鉄鏃の図面を書く練習をして、整理してくれていたもの。4階機械室から、須恵器、土師器壺、鉄器の残欠。これらが、ようやっとひとまとまりとなった。こういう機会でもないと、収まっているものを何とかすることもありません。いい機会をもらった。5箱に収納し、暗室にまとめておきました。既に大部分が安土にあり、うちで持つつもりはない(ミュージアムができたとしても)。移管にむけて相談していくこととなる。
◆今日は大仙古墳の見学会だそうですね。

疲弊しております

◆2018年11月21日、「大学史資料館(仮称)」WGに対し、学長から進捗を報告してほしいとのことで、この日、理事長(学長)と副理事長と面談。経過や今後について意見交換。わたしは資料調査の途中経過を報告した。近世古文書が1.8万点、人骨が1000体、鉱物・化石(とくに放散虫)(まだ数が出せません)、植物園のさく葉標本1.5万点、ほかを紹介。研究資料として断層資料の整理されたもの、なども報告。
◆2020年に140周年記念展示をやり、その先で博物館を作るという、基本的方向性はトップもそう考えてくれている。博物館はできそうだ、と思っています。
◆午後もその仕事を学情でやって、研究室に戻って22時まで続きを。年内に基本構想の叩き台を作ることになっているのですが、わたしが書くことになっています。
◆帰る途中、もう何だかへろへろで。これは半分は精神的なものかな。体力的にというより、この仕事の比重が高まる中で、いろんなことができないことについての疲弊です。しかるべきポストに就けてもらい、専任でやれといわれれば、よほど楽。それをこちらから言わんといかんかなと、帰りながら考えていた。臨時調査員を増強し、2019年度は大学史とも組織を統合しても、教員側の体制がボランティアでは、なかなか進まないのでは、と思う。金が潤沢で展示業者が入って、だいたいのことをしてくれるというなら、なんとかなっていくかもしれないが、たぶんそうもいかないだろうし。やりたい仕事であっても、物理的に時間を割けない状態のまま荷物をしょわされるのも大変である。
◆しかしまあ、ぐっすり眠り、朝の寝覚めはよかった。頭もすっきりした。さてと。

667年の記事は3人の埋葬でもおかしくないのでは

◆皇極は643年9月に母の吉備姫王を、梅山の東に埋葬する。自分の墓を造り始めていた可能性はあるが、それは不明。場所の選定や整地にとりかかっていた可能性はある。が、乙巳の変が生じ、孝徳期10年となる。その間、譲位した先の王の墳墓造営が進められていたかどうかは不明。一旦ストップなのか。重祚して655に再び王となる。一方、大化薄葬令で没後造墓となったとすれば、予定地は決まっていても、造墓はなされていないのかもしれない。
◆658年5月に孫の建王が死ぬ。今来に葬り、自分もそこに埋葬せよと。それが鬼の俎板とみることには慎重さが必要ではあろう。が、吉備姫王墓であ るカナヅカの東隣で、その場所に墓を営むにふさわしいのが皇極(斉明)であることは確かだろう。死んだ建王の墓の造営は必要であり、日本書紀から、自分も入る墓を営むことはありうるようにも思う。鬼の俎板は、花崗岩刳り抜き組み合わせタイプ。その底石の幅は5尺あり、薄葬令の規定を越えている。王と考えることは可能。とはいえ、斉明墓を造るとなると八角墳とみるのが自然であるが、八角墳に石槨2基をどう埋め込むんでしょうね。鬼の俎板東槨もほぼ同規模の底石で、8歳で死んだ孫には大きいようにも思うが・・・。
◆661年7月にその斉明が没する。鬼の俎板に葬る。
◆665年2月に斉明の娘の間人が没する。天智は、斉明と間人の合葬墓として牽牛子塚の造営を始める。あれがどれくらいかかってできるのか。そこそこかかるんと違いますか。で、667年2月の前に、嫁の太田皇女(天智の妻)が没し、あわせて隣に太田の別墓を造ることとする。斉明にとって血縁の孫である建王も改葬して斉明墓に入れたか。斉明と太田とは血縁はないので別墓とし、しかし建王の母であることから、その隣に塚御門を造る。で2月に埋葬する。この日に3人を埋葬(うち2人は改葬)するというのでいいように思います。間人の死没からあまり時間的経過はなく、牽牛子塚の造営に一定の年限かかっているだろうから、太田の死没にともなってもう1基隣に造営して、その完了をまって一斉に埋葬したとみることも不自然ではない。むろん、文武期の修築も考慮する必要があるが。
◆白石先生は、文武期まで岩屋山が斉明墓であって、8世紀頭に牽牛子塚を新築し移したと理解しているようだ。が、それだと陵の前に太田を葬ったという667年2月の記事と矛盾しますよね。これは、牽牛子塚古墳が、横口式石槨でも羨道なしのⅢ類とするから、年代は大きく下降する、ということになる。しかし、あの大きな閉塞石の両側には、幅広ながら一定の羨道部がのびていた、とみることができると思うわけです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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