人を幸せにする人になろう

考古学研究の原稿はできそうである

◆少し頭出ししてやっていたが、諸々あるものを順番づけて片づけないと7月が乗り切れず、そう考えると、いちばん手の付けやすいのが春の大会発表のこの原稿。本日、7月4日で、ほぼ形ができてきた。文章は最終章を残すのみ。家に帰ってやっつければ、注や参考文献をのぞけばできあがりそうである。さっさと・・・

たぶん古市百舌鳥かな~と

◆5月の新聞を取っておいたのがでてきました。同じ日に兵庫城の記事も出ました。

原口を纒向型とはいわない

◆たぶん行燈山でいいんでしょう。前方部のテラスもあってますね。小熊山とともに、ということだ。

すこしこの3日で

◆土日は平穏なにもなし。金曜日を含め、ここで稼がんとあかん。だが、今日は徹底的に雑用を片づけよう。「雑用、時々、前方後円墳」である。
◆水曜日に、うちのオープンキャンパスの時に配布する文学部案内、これ支援機構が編集するのだが、2回生の子がインタビューに来た。3つ質問があり、1問目。なにを研究してるんですか、というので古墳時代の倭国王墓の巨大前方後円墳をやっていると答えると、じゃあダイセン古墳なんかですね、という反応が返ってきて、思わずうれしくなる。が仁徳天皇陵古墳となれば、教科書検定もそうなり、そのうち「仁徳天皇陵でっか」という受け答えになってしまうのである。
◆教科書は大事ですね。ある大御所の先生は、誉田御廟山といってもわからんという言い方をする。応神陵やろ、と。応神が入っていると考えていないにせよ。年寄りは新しい名前が覚えられないのである。だが、10代の若者は、あの堺にあるでっかいヤツは最初っから大仙古墳と覚え、覚えられるし、それで定着する。実は宮内庁が仁徳天皇陵として治定しているということさえ知らないということにもなる。それが森浩一のめざしたところだろう。逆に、教科書が仁徳天皇陵古墳となり、それを覚えさせてしまうことの問題が表裏の問題として横たわる。仁徳天皇陵古墳と覚えたことは一生刷り込まれるわけだ。
◆やっと考古研同窓会の仕事を終えた。次は久津川車塚、だな。

塚崎3940

◆確かにぶっとくて五社神的です。後円部墳頂の位置が異なるが、五社神の場合山寄せで、墳頂が背面側に必然的に寄るのは仕方ない。ぜんぶ削り 出されていない後円部径、前方部の相対長や開き具合も近似する。前方部が低いのは地域性として、前方部の高さの差で、前方部墳頂前端位置が大きく異なるのも、一定の説明はできるか。全体として、倭国王墓にモデルを求めるなら五社神、というのは理解できる。→見直しました。図はいずれ。

西都原72号

◆ぱっと見い、行燈山なんですけど。 柄鏡形典型より開いている。

松本塚

◆まあこれはこれでいいんでしょうね。後円部上段はあわないが。でもこれ、普通に考えると2段築 成だわな。が集成8期というのは埴輪なんでしょうか。

生目1

◆ぴったりとは来ませんが、行燈山ではどうでしょう。180歩と90歩比で、後円部をあわせると、格 段の案配がわりとよくあいます。が、生目は後円部下段は十分取れず、ひとまわり小さくなっているとして、そこで後円部後端をあわせてやると(図をずらしてやると)、前方部前面側もあうように思います。箸墓というのもありうるが。また・・・。→これも見直しました。図はいずれ。

よさみ池とは何か

◆記紀では崇神のところに出てくる依羅池。たぶん推古朝だろうという議論はあれ、なぜあそこに 造られているのか、機能に関する研究はあまりみたことがない。こないだ『大阪市の歴史と文化財』を見ていると、榎津についての1文があり、そこに掲載されている地図に目が行く。昭和ヒト桁の1万分の1。まだ区画整理もあまり進行していない。これ何の地図。執筆者に問い合わせ、教えてもらう。うちにも入っている本でした。なんやそれ。
◆さっそくに、前に仮製図でやっていた作業と同じ事をすこしやってみる。見通しは前と同じだが、まだよくわからない。しかし格段に水路が描かれている。杉本町のあたりは古代では開発されていないのだろうが、標高10mくらいより下なら灌漑可能である。西除川旧流路もやらねばならぬ。これ大依羅氏や田辺氏や、古代氏族の上町台地基部への入植とリンクする話なのだろうが、まだ明快には語れません。それでも、その後のあまたの溜池など。このあたりの村々の江戸時代の水田耕作を復元する上でもベストな地図。それぞれの村を訪ね、水利図がえられれば描きわけていくこともできるだろうが、水田を放棄したのもおそらく早く、もはや残っていないか。そう、昭和のはじめの頃の農村のあり方さえ、われわれは復元できないのである。

沖縄物語での壮行会

◆うちの卒業生で2年間喜界島でお世話になった者が、青年海外協力隊でペルーに行く。駒ヶ根で の 3ヶ月の研修を終えて7月7日に出発するのだが、大阪に3日立ち寄るというので、壮行会が開かれた。沖縄物語(店の名前です)のおかあさん、どうもありがとうございました。
◆プレインカのクントゥルワシ遺跡といい、東大が何十年か調査をし、現地に博物館を作っているのだが、そこで普及啓発を担当する。聞いてみると、ボランティア団体はいるが、むこうのちゃんとした職員もいないようなところで、なんでも1人でやらなあかんみたい。なかなかたいへんである。是非、むこうの人たちと、持ち前の人間味で仲良くなり、なんでも話をして、やれることを、ゆっくり、ひとつずつやってほしい。既に、土器をさわらせたり、作ったりという体験型のものを導入したいと話す。よし。と、その前に、遺跡のことを勉強してくださいね。
◆ペルーでも、首都リマは南部で、マチュピチュとかナスカがあり、見学者はむろん多い。が、ここは北部で、ガイドブックに案内はあるらしいが、世界遺産をめざして来る観光客が多く足をのばしてくれるというわけではないらしい。地域の学校教育のなかでの博物館の活用がまずは基本のよう。
◆グーグルで見ると、むこうにカハマルカという都市名があるが、丘陵からど~んと低くなった向こう側で、ここは空港のある大都市。そこからバスで、サンパブロという町に行く。日常的な買い物とかはここだろう。そこからそう遠くないところにクントゥルワシ村があり、高台上に宮殿?遺跡がある。右手はまた急激に落ち込んでおり、そのヘリのよく目立つ高台だ。紀元前1千年紀の遺跡で、方形の石積みの外郭施設があり、内部には神殿とされているものもあるらしい。ちらっとアンデスの本を見たが、この手の遺跡として初期の重要な遺跡であるようだ。
◆リマで1ヶ月の研修後に現地入りし、前任者も残ってくれており、そのあと1ヶ月引き継ぎをするのだそうである。呑み会に参加した同学年の若者たち、コンビニないよな~、スマホ使えるの?、いやはや見知らぬ土地に1人で乗り込む彼女と、人種が違うと言うべきか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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