人を幸せにする人になろう

そして和泉

◆3月3日土曜日の研究会が、無事、終わりました。無事、ではなく、郷は領域であるという第2部は準備不足25f24410.jpgが露呈し、あまりうまくいったとはいえないが、まあ、終わった。大学に戻ろうかとも思ったが、もうへこたれていたので、そのまま阪和道で帰宅し、家でカミさんと呑みました。
◆和泉の「近世」の郷復元の図を、前にも出したかもしれませんが再掲しておきます。『和泉市史3池田編』に公表したもの。
◆そもそも、古代郷が領域かどうかという前に、中近世の郷の復元が不十分なのである。それは近世(前半)文書を分析しないと導けないのである。今日、福井県史をみていたが、古代郷は古代史の人間がやっていて、だいたいこのへん、くらいしか書かれていない。それが実情。むろん、その後の変化はあるにしろ、まず近世の郷を復元し、中世は中世文書での復元はまったくできないが、まあ、近世の郷をさかのぼらせればよい。というわけで、近世史の人間が全国各地でどこまで郷の復元をやっているかは知らないが、たとえやっているとしても、古代史は、ハナカラ領域じゃないからと考えていることや、近世は近世、古代なんてわからんということで、連携することがないように思う。
◆が、中近世の郷をしっかり復元し、そこから古代の郷を考えるべきなのである。ぜんぜん別物になることはない、古代があって、中世を経て近世に至る。古代の郷復元のベースは、後代の郷から考えていくべきなのである。きっと河内でもできると思うんですけどね。大和はわからんけど。
 

畿内の集落再編について

◆律令期集落については、文化庁にいるときに、坂井さんからいろいろ教えていただいたことが大きい。段丘の発達した関東では、7末・8世紀には集落を段丘に上げ、水利系統も革新し条里を施す。9世紀後半頃だったが、不便な段丘面を降りて平野部に居を移す。とたんに集落が把握できなくなるのだと。沖積地の発掘が進んでいないこととともに、散居村になっているためだろう。
◆それにくらべると、畿内は、集落再編は7世紀前半と早く、平野の中央部はよくわからないが、やはり集落は高台に移され、狭山池や古市大溝などのような水利施設の大規模な工事も実施され、官道が敷かれる。いまの中国のイメージである。「立ち退け」の一言で集落は廃絶、新たな村々ができる。そして7世紀後半、そこに方格地割がかぶるわけだ。
◆東日本は集落の再編と条里は一体であるので、実にわかりやすい。それにくらべて畿内は段階差があるわけだ。ふと、畿内の場合、集落の全面的再編を実施するのはどこまでの意味があったのか、と思う。官道や古市大溝といった捉えやすいもののみならず、中小水路網や開墾といった、やはり立ち退かせて実施するほどの面的な改変が実は進められていたと理解するのがよいように思う。
◆いずれにしても、こうしたことに関心をもち、条里の発表なんかをやっている背景に、坂井さんにうかがった研究成果がベースにあると思う。多謝!

明日の資料の前半部ができた

◆表題の通り。前半とは、「条里制研究の現在」というもの。
◆河内の条里に興味あるが、いろいろ参考文献を見ていると、とて0ac94015.jpgも一筋縄ではいかないようだ。手をつけると大変。和泉のことをやっているんだから、まずは和泉。
◆大和も条里が8世紀に再編された、という記述を見るのだが、原典にあたっていない。「大和統一条里」という意味はわかっていなかったが、例えば越前や讃岐といった、郡ごとに施工されたのが明白なものと違って、施工は統一的にやられているという意味なんでしょうね。あと、そうか、名前もか。むしろこっちか。郡別に○条○里とせずに、通しナンバーを振るからか。もっとも、実際には、他国と同じく、それぞれの溝を掘ったりする作業そのものは郡別なんでしょうが。
 

続いて、こないだの結論部

◆以前に王陵の最新の系統図をアップしたが、こないだの羽曳野での結論部分を拡大しておく。ちなみに、『古65783981.jpg事記』崩年干支をあまり疑う根拠はないと考えており、基本的に信憑性があると思っているので、ワカタケルについても、479ではなく実は489と考えるのが、とくだんの理由がない限り、自分の首尾一貫性として、そっちではないかと考えるに至りました。
◆しかしまあ、重要な人物のこの10年の差はいろんなことに微妙に影響を与える。いまのところ、倭王武の問題についても(こないだは、倭王興説にもふれたが保留した)、しっくりいく成案に達していない。あくまで首尾一貫性からということで、いまの材料で考古学的に確定できるわけではない。
 

デスクトップ

◆オレのデスクトップです。そう箸墓。これ、研究室の見学会で伊賀に行ったときの帰りに撮ったもの。ずいぶん0cbc101c.jpg前のことです。ホームページでも、これをトップ画面に使おうとしているが、いまだ基礎工事さえ未着工。
◆条里の資料を作るのに飽きたので、遊びでアップしときます。

3月2日、大阪城レーダー探査

◆あいにくの雨模様。まずは公園事務所に行き、許可証と車の通行証を受けとり、一般駐車場へ。同志社の1eb44024.JPG岸田さんが既に到着済み。天理大学ご一行様は、阪神高速の渋滞に巻き込まれ、9時過ぎといっていたが、9時40分くらいになる。3台で本丸に乗り込む。
◆探査予定の南側広場で、範囲について相談。今回は試行的なものなので、座標は任意でよい。50m×30mの設定をする。このあと、オレは、ずっと立ち会っておくべきだが、そうもいかないので、あとは桑原さんと小田木君にお任せする。市大からは赤色コーンと虎縞のガードを搬入する。
◆雨は小降りながら降り続いている。が、なんとなく小雨模様になってきた。今日、そして明日の2日間の予定だが、うまくいけば今日中に終わるかもしれないとのこと。近世のそう大きくない礎石を検出するために25㎝ピッチで探査をしていただけるようだ。どうか、うまくいきますように。観光客が心配だが、中国人の一行は、朝イチで観光バスで押しかけていたものの、10時過ぎになるといなくなり、天気もあって、観光客はまばらになった。観光客をシャットアウトするわけにはいかないので、注意しながら探査をすることになるが、観光客の心配もあまりせずにすみそう。
◆もうひとつ、石垣のレーザースキャンを予定しており、みなさんから離れた後、候補である南内堀・東内堀の写真を撮る。東外堀や南外堀は迫力はあるのだが、堀の対岸まで100m弱はなれていて、測量業者さんからも細かく取れるか心配の声があり、より対象に近い内堀で試みるつもり。石垣に生えている草などの状況を確認することも目的のひとつだった。
【追記】終了しました、早い!。明日、データ整理にさっそくかかっていただけるようです。眼鏡落とした!。拾われておりました。
 

条里地割は代制で施行

◆3日の研究会では、前半は中学生にもわかるように、条里制研究の現在をまとめる。後半は郷(里)は領域であるという話にする予定。後半は、だいぶ原稿を書いてきていたが、なくなったので、かなり古い時期の打ち出しを、昨晩、娘に再入力してもらった。でも、この調子だと、まったく準備不十分で突入だろう。
◆前半部だが、要するに高麗尺50歩四方(のちの1町)+畦や水路の減歩分約3mを取って109mで割った。あるいは結果的に109mとなった。なので、町段歩制の前に代はあっても、それに相当する106m四方の区画はないとされているが、条里そのものなのですよ、これが。単に大宝令で町段歩制に変えたにすぎない。
◆これは条里7世紀説だが、説ではなく事実。井上さんの平城京以前の論証はまったく妥当。それだけじゃない、ちゃんと長原と池島・福万寺の事例をふまえるべし。静清条里も。埼玉の条里だって7末。畿内は7世紀中頃だろう。要するに大化の改新。中央大豪族で、畿内にも私有地をたくさんもつ蘇我を排除しなければ公地化なんて無理。+奈良盆地内部などでは、7世紀初頭あるいは6世紀後半くらいまでは視野に入れておくべき。

用明推古立入りの準備と事後に考えたこと

◆※蘇我稲目(532-570)→前方後円墳と考えるのは普通だろう
五条野丸山+どれか(梅山が檜隈陵とよばれている以上、稲目墓ではない)

(0)平石谷でシシヨ塚の築造開始→埋葬はTK43期
(1)585敏達没・用明即位(大兄なので順当か)
(2)用明大王+彦人大兄
(3)敏達の平田梅山埋葬 蘇我の反対 前方後円墳の停廃も 物部との対立
(4)彦人、牧野築造開始? 新規の前方後円墳築造規制は決定事項か?
(5)587用明没→物部戦争へ 彦人即位をめぐる争い 彦人失脚
(6)崇峻即位
(7)前方後円墳の停廃決定 敏達没・彦人失脚・物部排除により可能に
(8)用明陵・崇峻陵の方墳築造へ(同時進行)+植山竹田墓も
(9)591、敏達の石姫墓への追葬
(10)592、崇峻暗殺、推古即位
(11)593、厩戸摂政、用明改葬
(12)推古陵・厩戸墓の造営
◆即位後、倭国王墓の造営に進むのが原則ということからすると、590年代に推古の石室が造営されておかしくない。
◆普通に考えれば、南向き斜面に地割りをし、石室の位置を定め、下半部の墓壙を掘り込み、周囲を区画するとともに、それで盛土をしながら石室の構築を完成させる。竹田は没後造墓であろうから、方墳としての体裁を整えて埋葬儀礼が行われたはずである。没年ははっきりしないが、590年前後のことと推測する。
◆592年に推古が即位する。大王にふさわしい墓を造るのが原則だが、推古は竹田との合葬をのぞむ。そこで、植山古墳の推古陵としての増築となる。ふつうに考えれば、西側への拡張にともない、溝を掘り直すとともに、石室の墓壙を掘削し、石室構築に着手したはずだ。あるいは、竹田墓としての造営段階から、将来の合葬を希望し長方形としていたか。
◆西石室の年代的位置を改めて確認する必要があるが、たぶん590年代には完成していておかしくないのではないだろうか。日本書紀では晩年のところに記されているが、628年の前はすっかり切石の時代に入っていることは確実である。竹田との合葬の意志は、植山古墳の発掘状況からすると、竹田没時点からとも考えられる

ついに条里

◆3月3日、和泉市史テーマ叙述編の準備研究会で条里の話をせにゃならん。実は、大学院入試の最終日、2月17日に電車の中で筆箱を置き忘れ、USBを失いました。またしても・・・。だいぶ、条里の原稿は書いてきたのだが、一からやり直し。もはや原稿を書いている場合でないので、レジュメで。火曜日まではめいいっぱい仕事があり、今日29日から3日間が勝負である。さあ、やろ。

狐井城山は顕宗陵か

◆白石先生は狐井城山古墳は顕宗陵と考えておられることを知る。そういえば、オレも前に、狐井城山は考えなアカンという記事を書いた覚えはある。そこで奈良県の前方後円墳集成を見たけれど、堤は後世のもので、周辺に長持形石棺材なんかがあって、時期が5末と特定できるのかどうか、やや問題はありそうだが、調べてみる必要がありそうだ。城として利用されて変形が大きいようだが、再度、現地に行くべし!。
【追記】白石先生に『近つ館報』14を送っていただいた。これに狐井城山のことに言及してある。ありがとうございます!

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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