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用明推古立入りの準備と事後に考えたこと

◆※蘇我稲目(532-570)→前方後円墳と考えるのは普通だろう
五条野丸山+どれか(梅山が檜隈陵とよばれている以上、稲目墓ではない)

(0)平石谷でシシヨ塚の築造開始→埋葬はTK43期
(1)585敏達没・用明即位(大兄なので順当か)
(2)用明大王+彦人大兄
(3)敏達の平田梅山埋葬 蘇我の反対 前方後円墳の停廃も 物部との対立
(4)彦人、牧野築造開始? 新規の前方後円墳築造規制は決定事項か?
(5)587用明没→物部戦争へ 彦人即位をめぐる争い 彦人失脚
(6)崇峻即位
(7)前方後円墳の停廃決定 敏達没・彦人失脚・物部排除により可能に
(8)用明陵・崇峻陵の方墳築造へ(同時進行)+植山竹田墓も
(9)591、敏達の石姫墓への追葬
(10)592、崇峻暗殺、推古即位
(11)593、厩戸摂政、用明改葬
(12)推古陵・厩戸墓の造営
◆即位後、倭国王墓の造営に進むのが原則ということからすると、590年代に推古の石室が造営されておかしくない。
◆普通に考えれば、南向き斜面に地割りをし、石室の位置を定め、下半部の墓壙を掘り込み、周囲を区画するとともに、それで盛土をしながら石室の構築を完成させる。竹田は没後造墓であろうから、方墳としての体裁を整えて埋葬儀礼が行われたはずである。没年ははっきりしないが、590年前後のことと推測する。
◆592年に推古が即位する。大王にふさわしい墓を造るのが原則だが、推古は竹田との合葬をのぞむ。そこで、植山古墳の推古陵としての増築となる。ふつうに考えれば、西側への拡張にともない、溝を掘り直すとともに、石室の墓壙を掘削し、石室構築に着手したはずだ。あるいは、竹田墓としての造営段階から、将来の合葬を希望し長方形としていたか。
◆西石室の年代的位置を改めて確認する必要があるが、たぶん590年代には完成していておかしくないのではないだろうか。日本書紀では晩年のところに記されているが、628年の前はすっかり切石の時代に入っていることは確実である。竹田との合葬の意志は、植山古墳の発掘状況からすると、竹田没時点からとも考えられる

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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