人を幸せにする人になろう

銅亀山古墳

◆旧大阪女子大学キャンパス内にある方墳。大仙陪塚になっているが、どうも2段築成のテラス面がおおよそ土地境界で、下段分、大きくなるらしい。こっちは、次年度が0bec4f3f.JPG1393ac94.JPG本格調査になるが、今年度、数本のトレンチを入れる。
◆地肌が露出し、小礫がけっこう目立つほど散っているが、埴輪がないという。そもそも百舌鳥では方墳はまれ。残存する墳丘斜面も急であり、十河さんの言うように、5世紀でなく下る可能性があろう。終末期?
◆すぐ隣に平成になって立てた女子大の記念館があり、しゃれた建物であるが、建物ごと堺市が購入したものという。ガイダンス施設に利用することも可能だ。
◆立ち退いた大学のキャンパス、まわりの住民はやっぱり寂しいと。学生が集まる活気のある一画から、へたしたらオバケ屋敷である。跡地利用も課題だ。なおこのキャンパスに大内?、室町期の城を比定する説が強くなっているという話題も出た。
 

2011年10月25日堺市の百舌鳥古墳群調査の会議

◆昨年度の寺山南山古墳の調査成果についてと、今年度、調査を計画している孫太夫古墳と銅亀山古墳の0744294c.JPG調査区についての検討など。できあがった百舌鳥古墳群の調査報告書、4と5をいただく。ずいぶん分厚い立派な報告書である。5は宮内庁調査成果を含めた百舌鳥御廟山の報告書だ。図版はフルカラー。
◆寺山南山の調査については、なんで転落石を除去しないんだろうか、とも思うが・・・、昨年、方墳のこれまでわかっていなかった2辺で埴輪列をつかまえ、また葺石が下段含めてとらえられ、ほぼ復元可能なデータがこれで整うことになる。
◆今年は大仙正面の帆立貝、孫太夫古墳の本格的な調査ということで、これは大いに楽しみだ。昭和40年代の大仙公園整備時に簡単な調査をし、今見るような帆立貝の復元ができあがっているそうである。試掘結果によると、周囲のところで現地表から1.5mで旧地盤だそうで、公園整備時にそれだけの土盛りがなされているらしい。すぐ南の旧地形は、谷が入り下り地形になっていたらしい。宮川先生が、公園造成時に旧地形を反映することなく土盛りして平らにしてしまった、と。それならその下りを取り込んで人口河川を造り出し、水場を作ってはどうかと提案。小さい子どもが、夏、水場でばしゃばしゃ楽しく遊び、やさしく母親が見守っているイメージ。
◆文化財課としても、古墳の本来の姿を確認し整備計画を立てる際には、文化財としては遺跡に即した変更をするという立場をしっかりもっている。世界遺産にからみ、史跡指定に必要な最低限の範囲確認を入れつつ、世界遺産登録後、大仙陪塚に限らないが文化財としての史跡整備がついてくるであろうから、さらにひとつひとつ確認調査を入れていくことになるか。ある程度の長期戦ではあろうし、そのへんのタイムスケジュールはどうなるかわからない。古墳の数も多いし、長いスパンで継続的に史跡整備を続けていく必要があるが、一方で、盛り上がっている期間に、あるところまでケリをつけなければならんという面もあろう。
 

2011年10月24日長岡京市の恵解山古墳の整備委員会

◆朝、9:30開始ということで、ネムネムで赴く。途中、阪急に乗っていると、ボックス席両側に、70才前後f947cb6e.JPGの男女グループが固まっており、同じ長岡天神で下りていったので、乙訓を歩くらしい。あちこちに歩6f2b371e.JPGきに行っていることを、オレの座っているボックス席の3人の男の人が話をしている。熊野古道、琵琶湖一週などで、いろいろとパンフレットを集めていて、それを見ながら盛り上がっている。
◆この世代、年金もあり、健康で、いろんなところをグループで歩き、実に楽しそうである。純粋な歩きもあるが、やっぱり歴史的な街道や史跡巡りが折り込んである。そうこうするうちに摩湯山古墳の名前が挙がり、あそこは中に入られへんから一周したとか。岸和田市も、まず入り口の門を開放しないといかんだろう。そうこうするうちに笠井さんの名前が出て、大和政権がどうのこうのと。
◆年金については後の世代のために我慢してもらわなあかんのとちゃうと思いつつ、こうした層の需要に、文化財に携わる側は応えていく必要があり、自分らの存立基盤のひとつとしてなにがしか役に立たなければなるまいと思う。
◆長岡京市の委員会の議論は、実施設計にむけての細かい詰め、とはいえ、かなり検討課題は多い。これについてはメモを作成しよう。今年も補足の調査をやっており、現場も見た(写真は都出先生)。
◆最近、古墳の西側で大規模な溝が調査され、恵解山古墳が山崎合戦における明智光秀の本陣だった可能性が浮上しているのだという。橘の増淵さんは、復元的整備に賛成したけども、現時点だったら反対するんだけど・・・と。古墳の上部が郭ではとの分析はあるようだが、いま削り込まれ長方形になってしまっている改変が16世紀とは限らないだろう。もうすこし早くからの改変の結果かもしれない。いずれにしても火縄銃の弾も以前に見つかっているようで、出土遺構や遺物を再点検する必要がある。
 

2011年10月22日茨木高校

◆吉村健さんからの依頼による茨木高校での《学問発見講座》。朝、9:35から80分。9:00に高校へということでScan1.jpg、土曜日の朝つらいが赴く。いつも準備は直前ながら、高校生向けとなると、あれこれ詰め込むことになり、やっぱり最後の話題は駆け足になり、反省。
◆あちこちのカルチャーセンターの受講生は、セミプロはじめ関心が強いのでやりやすいが、高校生となると、また対応を考えなくてはならない。これまでにも文学部の高校生向け授業を2回、自分の子の行っているところで1回やったが、必ずしも歴史や考古学をやりたいわけではなく、いてもひとにぎりの文系の高校生であることを考え、内容やしゃべりも考えなくてはならない。
◆今度は、大阪市立さくやこのはな高校の有志を対象とするイベントが、柏原市立歴史資料館を会場に使わせてもらい実施される予定だが、さてどうするか。
 

キャンパスメンバーズ

0413e5c9.JPG◆大阪市博物館協会と大阪市立大学の包括連携協定により、キャンパスメンバーズ制度ができ、市大の職員や学生は身分証の提示で、4月から大阪市の6館(常設展)に無料で入れることになった。

福山に行ったことがないのです

◆福山に行ったことがありません。県立博物館も、鞆の浦も、まして新市や府中も。恥ずかしながら。ずっと行きc9747d15.JPGたいとは思っているのですが。今年の研究室旅行、実は熊野メインで計画が立案されていたが、台風の災害で、急遽、広島になる。広島も、出張に行ったことはあるが、原爆ドームも宮島も行ったことがない。
◆鞆の浦が組み込まれていたのだが、どうも金曜日、ある行事にぶつかりそう。研究室旅行には呉で合流か。福山はまたまたお預け。
◆新聞の記事。前になんかのとき、岸和田古城の時かな、仁木さんが福山の町づくりグループの話をしていたことを思い出す。いまの山陽本線を敷設する時に内堀に駅ができ、もうずいぶんになるのだろう。それも記事にあるように福山ならではのウリになっているようだ。新幹線も上に乗っかり、もはや路線を変更することはありえないのだろう。現在は、それを前提に、だけども駅前開発にじゃまだというので城の遺構をないがしろにすることなく、それを活かしていこうという住民の意識が高い、ということのようである。
 

弥生博のこと

◆大阪府文化財センターの方とやりとりすることがあり、弥生博が「当面存続」の「当面」が取れ、4年間の指定管理の公募が行われたとのことである。
◆この間の、弥生博の方々、文化財センターのみなさんの尽力に敬意を払いたい。近畿弥生の会も協力を続けている。弥生博の集客向上に、こちらもできることを考える必要がある。

古市晃「5・6世紀に於ける王宮の存在形態」を読む

◆古市晃さんの『日本史研究』の王宮論を再度読む。5世紀の王族は、奈良盆地南部の奥まったところに王宮を営み、経済的基盤をもつ。政治の場であったろうが、政治センターとして十分に機能した段階ではないと。むしろ王陵の造営とそこでの儀礼が、支配者集団結集の機会として重要な意味をもっていたのでは、とする。欽明朝以降は、権益を継承し王宮・王号の名前を冠してはいても、それは得分であって、経済基盤としての荘園のようなもので、実際の居地としてのミヤは別になるという。その背景には、5世紀の政治的不安定が6世紀には解消され、王権が安定するからだという。王宮のもつ軍事拠点(防衛拠点)的な機能は必要なくなり、王宮も奈良盆地平野部に進出するという。
◆例えば、国会議員はそれぞれ出身地が地盤だが、政治活動の中心は永田町にある、といった感じであろうか?。河内を根拠地として王宮や王陵をもち、むしろ大和に進出していくといった河内政権イメージに対しては、王宮は河内と目される2、3をのぞけば大和に伝承されているとする河内政権論への反論がなされてきたが、古市さんの研究は、やはり河内じゃなく、引き続き奈良盆地南部に王宮・王族宮が集中し、必要な軍事的拠点としての王宮を周辺部に配置するが、しかしコト5世紀で言えば、政治活動として重要な場は河内だったと理解できるのではというものだ。
◆例えば仁徳はサザキは磐余なのだそうだが、一方で高津宮も否定できないだろうし、実際の日常拠点が磐余なのか高津宮なのか。ニュアンス的には、たとえば反正の丹比柴ガキ宮などは臨時宮的な書き方だし、王宮はやっぱり大和であって、両方にあったが、正式には大和の宮しか名前が伝わっていないといった理解ではないようである。
◆河内の王陵築造地が、王権にとって、また列島の豪族たちと協議をするなど、倭国のことを王としてさばくにあたり重要だったとして、そういう場はどんなもんなんだろうか。もちろん倭国王墓の築造は一定の重要性をもっていたではあろうが、年1回、進捗を確認するなどのことをするとしても、あとは大和に引きこもっているのか?。むしろ王陵を規範に、列島の豪族を格付け、一定の墳丘規模を与えるとみているオレにとっては、そうした各地の豪族の代替わりにともなう倭国王との関係更新、そういう場面が古墳時代社会にとって重要であったと思う。この時代の王のいちばんの役割かな~。徳川将軍でも変わりないだろうが、要するに本領安堵、引き続き倭王権に与することを表明させ、一定の役割を果たす約束を取り付け、王は地域支配を承認し、前方後円墳の規模を決定する、そういう儀式が繰り返される、それが王の役割か?。そうした場合、むろん江戸時代のワイロ以上に個別的な関係が横行していたかもしれないが、しかし一方で列島に目配りをする必要もあろうし、一定の基準にもとづく格付けにも心がけなければなるまい。王が独断というよりも、とりまきのブレーンや葛城氏や吉備氏などの内諾も必要だったであろう。
◆たとえばそうした、6世紀的合議制でないとしても、5世紀の協議調整といったものはどこでどう行われていたのかということと、実際のセレモニーの場ですね、建設の続く河内の王陵の脇にしつらえられた舞台みたいなものがあるのか、それは臨時的か一定の恒常的な施設があったのか、そういう点。そしてまた、王はそういう場面に必要なときに出て行くくらいで、奈良南部に引きこもっているのか、それとも河内の居所があるのか。奈良時代の天皇は毎日出勤して報告を受け決済をしていたのかどうか知らないが、ある程度そういうイメージだが、それは国家統治の制度的整備の進んだ姿であって、5世紀は必要な時に出て行けばいいのかもしれない。一方、やはり王の権威を威儀づけることは重要で、各種の儀礼が整えられるのだろうが、具体的なイメージはできない。かなりな比重で河内にいる必要があるのかどうなのか判断しがたい。
◆得分論の根拠は、上宮王家の泊瀬王は「泊瀬」王宮を伝領しているんだろうが実際には斑鳩にいたと考えられる、押坂彦人大兄も「押坂」王宮を伝領しているんだろうが実際には水派宮にいるというのが根拠。5世紀にそれに近いようなイメージをあてはめることはできないのか。違うということのようだが。
◆纒向遺跡とオオヤマト古墳群、佐紀遺跡と佐紀古墳群のイメージからいくと、王権本拠のような遺跡群が河内にあると思っているのだが・・・。奈良南部の王宮および河内の王陵近傍の調査が進みデータが蓄積されることで、一定の判断ができるようになることを期待。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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