人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大阪府下市町村の規模
◆大阪市253万人/堺市83万人/東大阪市48万人/枚方市40万人/豊中市39万人/高槻市35万人/吹田市34万人/茨木市27万人/八尾市26万人/寝屋川市23万人/岸和田市20万人/和泉市18万人、だそうである。
◆これ、むろん人口のみナラズ、予算規模も調べた、うちの教育費も調べた。そうすると、市民ひとりあたりナンボかけているか、というのも出てくるわけである。大阪府がそうした統計データを公表してくれているので、そういう計算もした。が、結果は発表しないでおく。あまりにも、ある市が問題があるので。要するに、人口は多いのに、市民税が他の市町村にくらべて圧倒的に少ないんだろう。格差は歴然とある。
◆これ、むろん人口のみナラズ、予算規模も調べた、うちの教育費も調べた。そうすると、市民ひとりあたりナンボかけているか、というのも出てくるわけである。大阪府がそうした統計データを公表してくれているので、そういう計算もした。が、結果は発表しないでおく。あまりにも、ある市が問題があるので。要するに、人口は多いのに、市民税が他の市町村にくらべて圧倒的に少ないんだろう。格差は歴然とある。
東大阪市郷土博物館
◆ここは2回目。以前、奈文研にいるとき、瓦の展示で資料が集められてい
る時期に、上原真人さんに誘われ
て行ったことがある。瓢箪山駅からひたすら坂道を登っていったんでしょうね。
◆山畑古墳群のなかにある。そういう場所に博物館を建てた意味もわかる。が、なかなか多くの東大阪市民に来てもらうには不便なところだろう。次に取り上げる発掘ふれあい館は平地部にあるが、ああいうところに併設できればいいんでしょうけど。
◆しかし、展示をちゃんと見たが実によかった。この博物館は、これまでの東大阪市での発掘調査成果を、古いところから新しいところまで、ちゃんと展示されている。いろんなパネルも工夫されて掲示されているし、ガイドブックなども手頃な値段で出されている。実に勉強になった。
◆縄文の貝塚あり、弥生の遺跡は瓜生堂や鬼虎川はじめ数多い。鬼虎川の銅鐸鋳型などもある。古墳時代では西の辻遺跡の水の祭祀遺構の模型もあった。土師器もならぶ。学生らに、弥生土器・土師器の変遷の基本を教える。あとは、法通寺(石切神社のとこ)の瓦(池田寺Ⅱ式など)、山岳寺院の客坊廃寺と神感寺跡、若江城など、なかなか見応えがあった。江戸時代の生駒西麓の谷筋に設けられた水車のコーナーもある。そして東大阪市の成立の話、いまの近鉄線の開業の話もある。実に充実している。望むらくは、ここに大阪城の石切丁場の話が加わってほしいものだ。東大阪にいくので、あちこちの残石も見て回りたかったが、真夏でもあり、今回はパスした。
◆いや~、いい展示だけに、もっと市民に見てもらいやすい場所にあればいいのにと思う。
◆山畑古墳群のなかにある。そういう場所に博物館を建てた意味もわかる。が、なかなか多くの東大阪市民に来てもらうには不便なところだろう。次に取り上げる発掘ふれあい館は平地部にあるが、ああいうところに併設できればいいんでしょうけど。
◆しかし、展示をちゃんと見たが実によかった。この博物館は、これまでの東大阪市での発掘調査成果を、古いところから新しいところまで、ちゃんと展示されている。いろんなパネルも工夫されて掲示されているし、ガイドブックなども手頃な値段で出されている。実に勉強になった。
◆縄文の貝塚あり、弥生の遺跡は瓜生堂や鬼虎川はじめ数多い。鬼虎川の銅鐸鋳型などもある。古墳時代では西の辻遺跡の水の祭祀遺構の模型もあった。土師器もならぶ。学生らに、弥生土器・土師器の変遷の基本を教える。あとは、法通寺(石切神社のとこ)の瓦(池田寺Ⅱ式など)、山岳寺院の客坊廃寺と神感寺跡、若江城など、なかなか見応えがあった。江戸時代の生駒西麓の谷筋に設けられた水車のコーナーもある。そして東大阪市の成立の話、いまの近鉄線の開業の話もある。実に充実している。望むらくは、ここに大阪城の石切丁場の話が加わってほしいものだ。東大阪にいくので、あちこちの残石も見て回りたかったが、真夏でもあり、今回はパスした。
◆いや~、いい展示だけに、もっと市民に見てもらいやすい場所にあればいいのにと思う。
瓢箪山古墳(記事№800)
◆瓢箪山古墳って、北に前方部をむける前方後円墳でしょうね。東側の周濠の名残である溜め池の形状は、前
方後円形をしている。そういう話をしていると、宮司さんが「違う!双円墳や」と介入
してきて、そこから東日本大震災の話だの、南海地震の話など、アメリカの国債の話だの、日本の国債の話だの、増税の話だの、エンエンエンエン、しゃべりたくってしょうがないのか話が続く。オレはいやになってその場を離れるが、学生は抜けられず、最後までつきあう。ご苦労さん。
◆石室は前方部のものが知られているようだが、入れるようなところはなかったぞ。6世紀前半とみて問題ないだろうが、普通は埴輪もありそうなもんだが、どこまで知られているんだろうか。中に入りたいものだが、うるさそうである。
◆石室は前方部のものが知られているようだが、入れるようなところはなかったぞ。6世紀前半とみて問題ないだろうが、普通は埴輪もありそうなもんだが、どこまで知られているんだろうか。中に入りたいものだが、うるさそうである。
東欧革命(2)
◆ピクニックが成功したニュースは東ドイツに広がり、多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコスロバキアのオーストリアや西ドイツ国境地帯に押し寄せる。両国政府と西ドイツ政府は協議の結果、東ドイツ市民に西ドイツのパスポートを与え西ドイツに出国させる手筈を整えた。さらにハンガリーではその 後、東ドイツに配慮することを止めて、堂々と東ドイツ市民に国境を開放する。東ドイツ政府は、西ドイツ・ハンガリー政府に対して抗議を行ったが、 東から西への人の移動を止める力はもはやなかった。
◆秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発。ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソ 連の支持だけであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典で、ゴルバチョフ書記長は新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する。式典に動員されたドイツ社会主義統一党員らが、突如として「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げる。後盾だったソ連に見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは10月18日に退陣する。11月4日には首都の東ベルリンで大規模なデモが起こり、もはや混乱は収拾がつかない状態となる。
◆そして11月9日を迎える。「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳 部で審議される。だがこの時、クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、混乱をきわめていた。このため、十分な審議もされず政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が了承される。この政令を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであるシャボウスキーは、この会議には出席しておらず、内容をよく把握し ないまま、現地時間19時頃から記者会見し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表。また、「(この政令は)いつから発効されるのか」との記者の質問に対し、翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにもかかわらず、それを伝えられておらず(諸説あるらしい)、シャボウスキーは「私の認識では直ちにです」と発言する。
◆この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近でいざこざが起きる。21時頃には東ベルリン側 でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがり、門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となる。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。また天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の11月9日23時台に、ついに 警備隊は群衆に屈しゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放される。本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」が内容であって、東ベルリンか ら西ベルリンに行くには許可証が必要であったが、混乱の中でそんなものは確認されることなく、東ドイツ市民は、歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ 込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まり、東ベルリン群衆 を歓迎する(この大騒ぎはそれから三日三晩続く)。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマー やつるはし、建設機械が持ち出され、壁の破壊が始まった。数日後には、東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになる。東西ベル リンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。これで決まり。翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一される。
◆1989年12月3日のマルタ会談で、冷戦の終結が宣言される。
◆チェコスロバキアでは、11月17日以降、民主化勢力を中心にデモやストライキ、ゼネストが繰り返され、事態を収拾できなくなった共産党政府は、民主化勢力との話し合いにより、共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結(ビロード革命)。
◆これらに対し国内の改革に全く否定的であったルーマニアでは、12月16日に民主化革命が勃発、治安維持部隊と市民の間で衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にチャウシェスクが射殺されて終結する。
◆長くなりました。汎ヨーロッパピクニックの時は、たぶん雪野寺の発掘でなにも知らんかったんだろう。ベルリンの壁が崩されたときは、雪野山の発掘から戻り、下宿にいて修士論文を書いていたように思う。テレビで映像を見ていた記憶があるように思う。ポーランドとハンガリーの地道な運動、そしてゴルバチョフの登場によって、ついに東欧の一党独裁国家が次々に普通の民主主義国家に転じることになったわけだ。
◆秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発。ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソ 連の支持だけであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典で、ゴルバチョフ書記長は新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する。式典に動員されたドイツ社会主義統一党員らが、突如として「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げる。後盾だったソ連に見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは10月18日に退陣する。11月4日には首都の東ベルリンで大規模なデモが起こり、もはや混乱は収拾がつかない状態となる。
◆そして11月9日を迎える。「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳 部で審議される。だがこの時、クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、混乱をきわめていた。このため、十分な審議もされず政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が了承される。この政令を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであるシャボウスキーは、この会議には出席しておらず、内容をよく把握し ないまま、現地時間19時頃から記者会見し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表。また、「(この政令は)いつから発効されるのか」との記者の質問に対し、翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにもかかわらず、それを伝えられておらず(諸説あるらしい)、シャボウスキーは「私の認識では直ちにです」と発言する。
◆この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近でいざこざが起きる。21時頃には東ベルリン側 でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがり、門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となる。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。また天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の11月9日23時台に、ついに 警備隊は群衆に屈しゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放される。本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」が内容であって、東ベルリンか ら西ベルリンに行くには許可証が必要であったが、混乱の中でそんなものは確認されることなく、東ドイツ市民は、歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ 込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まり、東ベルリン群衆 を歓迎する(この大騒ぎはそれから三日三晩続く)。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマー やつるはし、建設機械が持ち出され、壁の破壊が始まった。数日後には、東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになる。東西ベル リンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。これで決まり。翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一される。
◆1989年12月3日のマルタ会談で、冷戦の終結が宣言される。
◆チェコスロバキアでは、11月17日以降、民主化勢力を中心にデモやストライキ、ゼネストが繰り返され、事態を収拾できなくなった共産党政府は、民主化勢力との話し合いにより、共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結(ビロード革命)。
◆これらに対し国内の改革に全く否定的であったルーマニアでは、12月16日に民主化革命が勃発、治安維持部隊と市民の間で衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にチャウシェスクが射殺されて終結する。
◆長くなりました。汎ヨーロッパピクニックの時は、たぶん雪野寺の発掘でなにも知らんかったんだろう。ベルリンの壁が崩されたときは、雪野山の発掘から戻り、下宿にいて修士論文を書いていたように思う。テレビで映像を見ていた記憶があるように思う。ポーランドとハンガリーの地道な運動、そしてゴルバチョフの登場によって、ついに東欧の一党独裁国家が次々に普通の民主主義国家に転じることになったわけだ。
東欧革命(1)
◆1989年、昭和から平成へ変わった年でもあるが、東欧での民主化運動が激烈に進行し、ベルリンの壁が崩壊する。冷戦の終焉。天安門事件もあった。この年、修士課程の大学院生だったが、ほとんど経緯も展開も要因もわかっていない。経過にしても、下宿にようやくテレビが入っていたような気はするが、そういう転換期に立ち会っていながら、なにが起こっているのか正しく理解していなかったように思う。で、なぜだか確認しようと思った次第。
◆その前、1987年に新聞記者の試験を準備していたとき、話題はペレストロイカだった。1985年のゴルバチョフの登場。若々しく、ソ連を改革し、西側とも協調するような、期待を抱かせる人物だった。まあ、ソ連のことも、そのあとの経過はわけわからん。どうなって、こうなって、ああなった?。まあよい。1989の話に戻ろう。ウィキで整理する。
◆東欧革命の予兆は1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことにあるらしい。 ポーランドでは1980年に自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が急進化する。ヤルゼルスキ書記長は戒厳令を敷く。「連帯」側もワレサ議長のもと、落ち着いていく。情勢が安定すると、政府と反体制運動との間での非公式協議がもたれるようになり、段階的に改革が進行していく。ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話によって実現される(そう、80年代には、新聞にワレサ議長というのが出現し、しょっちゅう記事になっていた。が中身はわかってなかったな~)。
◆で、「ペレストロイカ」。1988年3月にユーゴを訪問したゴルバチョフは新ベオグラード宣言を発表。ブレジネフドクトリンを撤廃する。ブレジネフドクトリンとは、チェコスロバキアのプラハの春を押さえ込んだ軍事介入を正当化するために、1968年に、社会主義国家全体の利益のために国の主権が制限されることがあってよいというというもの。それをやめるんだと。すなわち国の主権を尊重するということ。これが東欧民主化を促進する。ポーランドとハンガリーは、この情勢変化を巧みに読み取り、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組む。
◆まずポーランドでは、1989年2月からヤルゼルスキー政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、自由選挙の実施が合意される。6月、東欧で先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝。連立政権を作り新生ポーランドがスタートする。そして憲法を改正し、1990年の国民による大統領直接選挙でワレサが大統領となり、政権の完全委譲が果たされる。
◆ハンガリーでは1980年代に入り、民主化への欲求、ヨーロッパへの回帰を求める動きが無視できないものとなり、ハンガリー社会主義労働者党の改革派による取り組みがいち進められたという。ここでは体制側自らがソ連からの離脱をめざして実現させる。1989年2月に複数政党制を導入、そして5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放する。これにより8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こす。10月23日に新憲法が施行される。
◆汎ヨーロッパピクニックとは何か。ハンガリーが、オーストリアとの国境を開放し鉄条網の撤去に着手。これで西ドイツに行けると考えた東ドイツ人がハンガリーに入りオーストリア国境地帯にあふれる。が、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートをもった者だけで、立ち往生。これに対し、ハンガリーの民主化勢力は彼らを越境させてしまおうと考え、オーストリア側での支援もえられた。こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯のなかでも脱出しやすいショプロンで、「ヨーロッパの将来を考える集会」が開催され、この集会に参加すれば国境を越えられるという情報が伝わり、一帯に押し寄せていた東ドイツ人約1000 人が詰めかける。そして集会の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、参加者は雪崩を打って国境を越え、オーストリア経由で西ドイツに亡命する。
◆その前、1987年に新聞記者の試験を準備していたとき、話題はペレストロイカだった。1985年のゴルバチョフの登場。若々しく、ソ連を改革し、西側とも協調するような、期待を抱かせる人物だった。まあ、ソ連のことも、そのあとの経過はわけわからん。どうなって、こうなって、ああなった?。まあよい。1989の話に戻ろう。ウィキで整理する。
◆東欧革命の予兆は1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことにあるらしい。 ポーランドでは1980年に自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が急進化する。ヤルゼルスキ書記長は戒厳令を敷く。「連帯」側もワレサ議長のもと、落ち着いていく。情勢が安定すると、政府と反体制運動との間での非公式協議がもたれるようになり、段階的に改革が進行していく。ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話によって実現される(そう、80年代には、新聞にワレサ議長というのが出現し、しょっちゅう記事になっていた。が中身はわかってなかったな~)。
◆で、「ペレストロイカ」。1988年3月にユーゴを訪問したゴルバチョフは新ベオグラード宣言を発表。ブレジネフドクトリンを撤廃する。ブレジネフドクトリンとは、チェコスロバキアのプラハの春を押さえ込んだ軍事介入を正当化するために、1968年に、社会主義国家全体の利益のために国の主権が制限されることがあってよいというというもの。それをやめるんだと。すなわち国の主権を尊重するということ。これが東欧民主化を促進する。ポーランドとハンガリーは、この情勢変化を巧みに読み取り、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組む。
◆まずポーランドでは、1989年2月からヤルゼルスキー政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、自由選挙の実施が合意される。6月、東欧で先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝。連立政権を作り新生ポーランドがスタートする。そして憲法を改正し、1990年の国民による大統領直接選挙でワレサが大統領となり、政権の完全委譲が果たされる。
◆ハンガリーでは1980年代に入り、民主化への欲求、ヨーロッパへの回帰を求める動きが無視できないものとなり、ハンガリー社会主義労働者党の改革派による取り組みがいち進められたという。ここでは体制側自らがソ連からの離脱をめざして実現させる。1989年2月に複数政党制を導入、そして5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放する。これにより8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こす。10月23日に新憲法が施行される。
◆汎ヨーロッパピクニックとは何か。ハンガリーが、オーストリアとの国境を開放し鉄条網の撤去に着手。これで西ドイツに行けると考えた東ドイツ人がハンガリーに入りオーストリア国境地帯にあふれる。が、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートをもった者だけで、立ち往生。これに対し、ハンガリーの民主化勢力は彼らを越境させてしまおうと考え、オーストリア側での支援もえられた。こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯のなかでも脱出しやすいショプロンで、「ヨーロッパの将来を考える集会」が開催され、この集会に参加すれば国境を越えられるという情報が伝わり、一帯に押し寄せていた東ドイツ人約1000 人が詰めかける。そして集会の挨拶が終わるか終わらないかのうちに、参加者は雪崩を打って国境を越え、オーストリア経由で西ドイツに亡命する。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。