人を幸せにする人になろう

東欧革命(2)

◆ピクニックが成功したニュースは東ドイツに広がり、多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコスロバキアのオーストリアや西ドイツ国境地帯に押し寄せる。両国政府と西ドイツ政府は協議の結果、東ドイツ市民に西ドイツのパスポートを与え西ドイツに出国させる手筈を整えた。さらにハンガリーではその 後、東ドイツに配慮することを止めて、堂々と東ドイツ市民に国境を開放する。東ドイツ政府は、西ドイツ・ハンガリー政府に対して抗議を行ったが、 東から西への人の移動を止める力はもはやなかった。
◆秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発。ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソ 連の支持だけであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典で、ゴルバチョフ書記長は新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する。式典に動員されたドイツ社会主義統一党員らが、突如として「ゴルビー! ゴルビー!」とシュプレヒコールを挙げる。後盾だったソ連に見捨てられ、民衆に目の前で反目されたホーネッカーは10月18日に退陣する。11月4日には首都の東ベルリンで大規模なデモが起こり、もはや混乱は収拾がつかない状態となる。
◆そして11月9日を迎える。「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案が東ドイツ政府首脳 部で審議される。だがこの時、クレンツをはじめとする政府首脳部は国内のデモや国外に流出する東ドイツ市民への対応に追われ、混乱をきわめていた。このため、十分な審議もされず政令の内容を確認したかも怪しい状態で、「11月10日から、ベルリンの壁を除く国境通過点から出国のビザが大幅に緩和される」政令が了承される。この政令を発表する東ドイツ政府のスポークスマンであるシャボウスキーは、この会議には出席しておらず、内容をよく把握し ないまま、現地時間19時頃から記者会見し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表。また、「(この政令は)いつから発効されるのか」との記者の質問に対し、翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにもかかわらず、それを伝えられておらず(諸説あるらしい)、シャボウスキーは「私の認識では直ちにです」と発言する。
◆この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近でいざこざが起きる。21時頃には東ベルリン側 でゲートに詰めかける群衆が数万人にふくれあがり、門を開けるよう警備隊に要求し、やがて「開けろ」コールが地鳴りのように響く状況となる。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。また天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。日付が変わる直前の11月9日23時台に、ついに 警備隊は群衆に屈しゲートが開放され、東西ベルリンの国境は開放される。本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」が内容であって、東ベルリンか ら西ベルリンに行くには許可証が必要であったが、混乱の中でそんなものは確認されることなく、東ドイツ市民は、歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ 込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まり、東ベルリン群衆 を歓迎する(この大騒ぎはそれから三日三晩続く)。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマー やつるはし、建設機械が持ち出され、壁の破壊が始まった。数日後には、東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになる。東西ベル リンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。これで決まり。翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一される。
◆1989年12月3日のマルタ会談で、冷戦の終結が宣言される。
◆チェコスロバキアでは、11月17日以降、民主化勢力を中心にデモやストライキ、ゼネストが繰り返され、事態を収拾できなくなった共産党政府は、民主化勢力との話し合いにより、共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結(ビロード革命)。
◆これらに対し国内の改革に全く否定的であったルーマニアでは、12月16日に民主化革命が勃発、治安維持部隊と市民の間で衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にチャウシェスクが射殺されて終結する。
◆長くなりました。汎ヨーロッパピクニックの時は、たぶん雪野寺の発掘でなにも知らんかったんだろう。ベルリンの壁が崩されたときは、雪野山の発掘から戻り、下宿にいて修士論文を書いていたように思う。テレビで映像を見ていた記憶があるように思う。ポーランドとハンガリーの地道な運動、そしてゴルバチョフの登場によって、ついに東欧の一党独裁国家が次々に普通の民主主義国家に転じることになったわけだ。

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雲楽
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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