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人を幸せにする人になろう

2016年6月29日

◆そんなんで、7世紀の寺院や宮殿やらにどっぷり浸りたいところだが、恒藤記念室の展示もヤマ場となり、大歴事務局の引き継ぎの算段をしないといけないし、ともかく疲弊していて精神的にもしんどく、昨日の授業などもヘロヘロだったが、やや回復してきたか。

2016年6月26日は大歴大会

◆朝9時、関学集合と言われ、へろへろやし、お酒は飲めなくなるが車で行く。大阪市大の新庶務委員と なった院生も、来年のために今年の大会の仕事を割り振られており、こっちも見ておく必要がある。とはいえ15分程度遅刻。ほぼ300名の参加者だったそうです。
◆総会。大阪市大への事務局移動が正式に決まる。
◆午後からの考古部会は3人による鏡の発表で、やはりマニアック。まあしかし、研究は進みますね。可能な限り説得的で、かつわかりやすい結論図が、自分の認識の上でも、人を説得する上でも、そして使ってもらえるものになるうえでも、大切かと思う。これまでの鏡研究や倭国史にどういう理解の変化をもたらすかは、みな意識しているが、熟成するにも時間を要するし、展望してもらえばいいのでは。
◆懇親会。最後のところで、新事務局長として挨拶させられた。まあしかし、この1ヶ月ほど、あれこれ大歴の庶務の仕事を知るにつけ、2年間は大変やな、といまさらながらに認識し、ポカをしないように、「つつがなく」やりおおせることに腐心しないといけません。

しつこいですが

◆大宝令。「およそ地計らむことは5尺を歩とせよ。300歩を里とせよ。」。1歩は1.78m、1里は532.5m。まず、(1)この1尺は、その前にある規定で大尺(高麗尺)である。この規定の本質は、(2)土地の計量には歩数を用いるということ。
◆(3)1里とか2里というのも、7世紀には見えず(岸)、8世紀以降らしい(町も)。(4)大宝令からしばらくした713年に大尺は廃止され小尺に統一され、本来の6尺1歩に戻す。701年雑令を713年格で言い直せば、「6尺を1歩、360歩を1里とせよ」となる(1里の長さは変わる)。
◆7世紀は、地を計るには歩数が用いられ、それは高麗尺の6尺1歩2.13mなのである。横大路上で下ツ道と中ツ道の間隔は1000歩として定められた、通り(「里」はまだない)。飛鳥寺も、百済大寺も、難波宮京も、藤原宮京も。
◆問題はどこまでが歩数で、どこからが尺数か、である。近世八尾街道と長尾街道(古代丹比道)の間は1700歩3.6㎞。条里は50m106.5m+α。藤原京条坊は250歩532.5m、難波京条坊は125歩266.3m(これ250歩かもしれませんよ)。その先、実際に道路の幅員を定めるため両側溝を掘る場合、歩数なのか、尺数なのか。藤原条坊道路では大尺45・25・20尺と尺数とされているようです(ちなみに丈も大宝令段階からなんでしょう。10尺を丈とするというのは中国的10進法なんでしょうか)。どこまでが歩数でどこからが尺数なのか・・・。
◆建物は尺数です、古墳時代の昔から。難波宮の場合は唐尺。たぶん百済大寺や山田寺も。飛鳥寺の建物は高麗尺とされるから、どこかで寺院建築は高麗尺から唐尺になっているはず。
◆難波宮京に話を戻すと、なので朝堂院の幅はなんとか歩、だが建物は唐尺。つまり、広域の範囲を設定するような土木的作業は歩数でやって大枠を決め、実際にそこに大極殿やら回廊やらを設計する建築(作事)からは尺数による。したがって端数調整はありうる。柱間を等間で割り付けていったとすると、最初の例えば回廊内の南北長の割り付けが、最終的には短くなったり長くなったりすることもあるんだろうな、と。大枠の割り付けと実際の建築設計とが、そうした関係で実施されている、ということを言いたい、論じたいわけです。
◆いずれにしても、難波宮の条坊が小尺の900尺というのは、2重に間違っている。大尺でないといけないし、尺数でなく歩数でしょ、と。125歩やと。がしかし、これが受け入れられないわけです。まあ、論文を書くしかないですね。
◆また寺院などの建築の図をあさっているが、建築屋は大尺の寸法を記入してくれるんだけど、歩数にはまったく関心をもたない、土木屋じゃないから。建物の柱位置とか基壇とか、最終的に仕上がったものを大尺でこうだという結論は、むろんそれでいいんでしょうが、わたしの関心は、その手前のところの大枠の割り付けは歩数で設定されてるんとちゃうか、というもの。具体にやってみると、たとえば寺院であれば、回廊の内側で割り付けてるんかな、という印象がある。

2016年6月24日KR15埴輪洗い

◆毎週1日ではあるが、進めてもらっている。箱にぎゅうぎゅうのもの、半分洗う。

2016年6月25日、坪井先生のお別れ会

◆500人くらい集まっただろうか。まったくの普段着で、黒や灰の人々ばかりで、後ろの方に控えていた。鈴木嘉吉さんのお別 れの言葉はなかなかよかった。献杯となり会食。参会者の方々のスピーチが始まるが、ここまでくると誰も聞いていない。O先生の挨拶を前に聞きに行く。しばらく後、H先生が大声を上げ・・・、唖然。参会者のみなさん、顔は覚えているが、名前を思い出すのに一苦労。
◆すんなりと戻ってきて研究室にいます。『考古ボーイの70年』を取り出すと、自分の名前が書いてあった。1999年発行。文化庁でいちばん下のわたしにも下さったのですね。覚えていないが、速報展の打ち合わせ会の時だろうか。ありがたや。
◆坪井先生のお仕事は多くの人が語っている。大学や研究所や文化庁の大先輩であり、直接のつきあいはわずかであれ、とても親しみのもてる先輩であり、多くのものを与えてもらっているのだと思う。書き残されたものから、これからだって学ぶことはできる。後輩であるわれわれは、考古学を学び文化財行政にかかわる人材を送り出し、また文化・文化財を大切にする普及活動を進めることが務めですね。大正10年生まれ、42年あまり上の大先輩の逝去である。
◆ところで、従四位が贈られたとのこと。これにはびっくり、まだそんなんあんの、と。戦前の官人はみな位をもち、肩書に書いているが、これ戦後も生き残っているんですね。いまはあれでしょうか、ぜんぶ没後の叙位なんですかね。大阪府のMさんが、「文化財や」と。坪井さんで従四位だ、主権者たる国民は99%無位ですね。まあこんなのは、伊藤博文が敷いたレールなんでしょうね。
◆実測図にケバを入れるようにしたのは坪井さんだそうです。

午後は

◆午後、恒藤記念室の展示の仕事をしないといけないのですが、別のことをやって日が暮れました。この仕事、はよ終わりたいんですが・・・。内緒です。
◆8月7日に陵墓のシンポがある。流れるかな~と思っていたが、神戸でやるらしい。ここ最近の立入り観察の成果について、1時間ばかりしゃべることになっている。7月8日だったか、大阪府大から電話が入り(前に航空の関係で深井で日本酒を飲んだ)、七夕講演会でなんかしゃべれと。いや国立天文台の人がしゃべるんだそうですが、その人が古墳好きらしく、そういうことでお鉢がまわってきたらしい。高松塚やキトラの星座なんて、ぜんぜん勉強したことありませんよ。なんでもいいというので、大仙古墳の話をすることにした。この日は、東京でアレがありまして、その日程決定とほぼ同時なもんで、府大の話を引き受けたので、昼間東京に行って、途中で帰ってきて府大にむかうハメとなりました。東京へは前日に行き、息子の下宿に泊めてもらうことにしました(年1回のこと)。
◆秋は、山城の古墳のシンポ、天理のオオヤマトのシンポ、都市史学会、纒向のシンポ、大坂城のシンポと、ぼちぼち入ってきました。このうち大坂城のシンポはネタがなく・・・。豊臣大坂城のことで、自分のできることは?、ない!。

2016年6月24日、山背大兄皇子に会いに行く

◆西宮古墳の計測に行きました。朝8時から掃除をして、途中からカミさんは写真撮 影、こっちは掃除を続ける。9時過ぎ、共和さん来て、計測が始まる。11:20くらいまでかかったか。その前に雨がポツポツ来て・・・。まあしかし計測は無事終了した。午後は大雨でしたね。写真撮影は完了しなかったが、雨だし、計測後に続きをやることはやめ、後日、出直すことにする。
◆西宮古墳から唐尺になる。薄葬令の石室は唐尺とみてよい。岩屋山式と亜式のクサ墓までは高麗尺。したがって、岩屋山式は7世紀前半となる。西宮もまた改新前でよいだろう。須恵器蓋が出ているが、精製品で小型高坏の蓋である可能性があり、坏G蓋とみてその径から飛鳥Ⅱ新とする見解は確定的でないと思う。『延喜式』に北岡墓とあり祭祀対象になってお り、当然、生前造墓で、自害ののち、そこに葬られたと考えられる。斑鳩にふさわしい墳墓があるなら、それでいいのですが、時期からすると、西宮かなと。上宮王家が平群に進出していたという指摘のもとを学ばなければいけない。みな平群氏というけれど、7世紀第2四半期頃に活躍した人物はいるんだろうか。聞かないように思います。
◆西宮古墳から、計測作業中、まわりをながめていました。西に信貴山があり、南正面には烏土塚がある(写真下)。むこうに葛城山が見える。平群氏って、いつまで追いかけられるのだろうか。
◆夏の久津川の葺石計測もお願いしておいた。お盆頃だと。羽曳野の横口式石槨6基は、秋かな~。ちなみに、この6基においても、高麗尺から唐尺への転換が読めますよ(『ヒストリア』)。

2016年6月23日、日根野に前関白政基に会いに行く

◆前回の続きで、院生等と日根野に行く。まず大木だが、犬鳴山不動尊に行く。それから上 大木、中大木、小学校、下大木。なんとか神社。それから政基の居所。荘園遺跡として史跡にもなっているが、重要文化的景観にも選定され、広域のエリアが線引きされ、とくに重要なところは「なんとか」のエリアになっている。法的な名前を勉強してません。
◆日根荘は、日根野村と大木村に分かれているが、樫井川の段丘面の日根野村はすっかり開発され、奥側の大木村の部分が重要文化的景観となっている。10年ほど前の大歴の現地見学検討会以来のことである。和歌山と行き来するのに年にいくらか通過するが、村のなかをぐるりとまわったのは初めてである(車ですが)。 
◆そのあと大井関神社に行く。神仏分離で、お寺と神社が区分されてしまっている。間に「なんとか用水」。これが日根野村西方の灌漑用水。東方は溜池です。
◆ついでながら、蟻通神社に行き、これで3つとも制覇しました。禅興寺もこのへんかなと。海会寺と同時なんだろう。百済大寺同笵瓦が出ている。

ああ疲れた

◆昨日21日は、朝、門真に行き、大学に行き2限の授業をやって、高槻に出かけて会議(15時でこっ ちは引き揚げる)、大学に戻って5限の博物館実習Ⅰ。文学部案内作成チームの授業風景写真撮影もあった。
◆この日、難波京にかかわる文献をバイトにコピーしてもらう。ありがたい。で、やっぱり読みますよね。が古い文章で、原寸がmとか㎝でなく曲尺で・・・、なかなか骨が折れますね。全部消化するのは無理ですね。
◆本日22日は、朝から大学史に行き、恒藤資料の写真撮影。3限の授業後、今日はある会議で5限がつぶれるので休講にしたため、3限も授業準備がないので、再び写真撮影。気合いを入れて写真を撮りました。右は京大滝川事件で辞職した教員の「記念」写真のようです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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