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人を幸せにする人になろう

五塚原古墳を見学

◆3日の夜に大阪に戻り、翌日から出勤しました。ほぼ誰も来てませんが。で、丸2日は論文を書い ていました。終わりませんけど、今度の3連休がデッドラインと決めて、仕上げないといけません。
◆6日は向日市の五塚原古墳を見学させていただくことになる。久津川の図面のトレースの打ち合わせを別途日程調整をしていたが、同じ日に立命館の学生等も見学に行くというので、午前中にやることにする。東向日駅に行ったのは、いまから30年前以来かもしれない。1983年と1984年、ここから物集女車塚古墳に通ったもの。間の住宅地を抜けて、いかに近道をするか、どこを通ればいいのか、うろうろしていたな~、というのを思い出す。
◆東向日駅に集合し、3人でファミレスで打ち合わせ。飯を食ってから、その他の見学者は13:30東向日駅集合となっており、もう一度出向き、市役所に車をおいて、五塚原へ。立命は8人、うちは自分をいれて3人、計11人でお邪魔しました。久津川部隊の学生等とは、10月4日の骨折時以来でした。
◆いや~見事な発掘ですね。そして古い、と。箸墓以前の前方部の長い段階をやっぱり設定すべきなんでしょうね。養久山とか讃岐型というのは、もひとつ前のパターンとして(その後の最新型がもたらされることなく伝統的墳形になるにせよ)、理解すべきなのかな、と。そして現地説明会資料等にあるように、東田大塚とか、纒向地域にモデルがあると考えないといけない。中山大塚も。一挙に箸墓でない、もひとつ前くらいのものの設定である。レキハクの共同研究での2回目の発表は、そういうことをめざそうとしてやったものだが、結局、いま書いているのは、それではなくなった。
◆纒向地域のものが、かなりの程度、発掘が進められてきて、一度、考え方を整理する時期にさしかかっているのでしょうね。
◆とても丁寧に説明いただき、ありがとうございました。裾部が急角度で、折れをもって傾斜の変わる墳丘斜面の典型として、学ぶところは多い。むろん中山大塚などもそうなんだが、残りも よく、そういう特徴を示す墳丘斜面のありようを赤裸々に目の当たりにすることができた。
◆それと乙訓古墳群という名称での群指定に進んだこと、また何年か前に現場を見せてもらった元稲荷の報告書がもうちゃんとできあがっていることを知る。ただ単に知らないことが多く、恥ずかしい限りである。
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銀の馬車道

◆行きは高速道路で生野まで行ったが、帰りは地道を下る。生野銀山からは銀の馬車道というのが 飾磨港まで伸びている。これは小豆島へ行くときのフェリー乗り場の2階が展示館になっていて、そこで存在を初めて学ぶ。これも西欧の道路建築技術?に学び、鉄道敷設以前の明 治期に馬車で銀を運ぶために整備されたもの。全部がぜんぶ残っているわけではないが、現道を少し脇に入れば残っているところも多く、あちこちに看板が立てられている。これ経産省の「近代化産業遺産」に認定されたもののよう。
◆福崎に入り、柳田国男記念館のところに行くが、その奥の移築した郡役所を利用した町の資料館を含めて、年末年始の休館でした。大庄屋の家も修理中。が、カッパは正月でも働いていました。

お茶でもと

◆お茶でもと、町屋建築でガイダンス施設や体験学習施設になっているところに行くも、正月で閉 まっていた。あきらめて帰ろうとしたら、コーヒーという幟が見え、入っ ていくと、なかなかおしゃれな茶店がありまし た。これも古い民家ながら、玄関を入り、踏み石伝いに玄関を上がると、趣味的な衣料品などの店舗になっていて、それを抜けると茶店になる。もとは畳の和室だろうが、板間とし、テーブルがいくつかとカウンターがある。そのカウンターはシンガーミシンの脚を利用して板を取り付けたもの である。
◆ほかの店が閉まっていることもあって、お客がそこそこ入っており、また入ってきた。

文化的景観

◆工場部分にも近代の煉瓦建築が残っているようだが、いまも工場内で、自由に見学できるという 状態にはない。そして労働者の宿舎などが広がっていた。甲だったか、地区の名前ですが、そこに建てられた10数棟のうち3~4棟が当時のものが残っており、修理され見学施設として公開されている。うちひとつはここで生まれた映画俳優の志村喬の記念館となっている。が正月で休館していた。年末年始だからこそ訪れている観光客も少なくはなかったが。
◆で、谷の入り口の町の部分。いくつかの町屋が資料館や体験施設などに利用されている。あるいは近代建築も、いくつか登録文化財になっているようだ。単品で、伝建までにはなっていないようだ。いまレールははずされているが、トロッコが工場から川沿いに通され、そのための近代の石垣が構築されている。渓谷ともいえる川筋、その向こうに見える町屋、その手前のアーチをところどころに設けた石垣、その上を通るトロッコ軌道、こういう鉱山町全体が重要文化的景観に指定されたようである。

金蔵

◆江戸時代までの灰吹銀とよばれる精製技術、それによる円盤状の銀が展示されている。こういう 実物資料もそう残ってはおらず、文化財指定されている。解説文を読んでいると、この銀は大阪城の御金蔵に収められたという。いま豊臣石垣公開施設を建てようとしている脇に、重要文化財となっている大阪城では数少ない江戸期の金蔵が1棟残っているが、そこには生野の灰吹銀が収められていたのか、と思うと感慨深い。

1月3日は生野へ

◆翌日、前の神子畑に続き、生野へ行く。手前に奉行所?などの経営側の町屋があり、中程には工 場と労働者住宅などがあり、谷奥に鉱山入り口がある。明治初めに、フラ ンス人技術者が入り、三菱に払い下げられ、いま でも三菱マテリアルが操業している。国の重要文化的景観になっている。
◆まずは谷奥の鉱山の入り口に行く。入ると左手に新しいミュージアムがある。100円だか200円なのだが、あまり人は入っていない。パネルも新しく、ひととおりのことを学ぶことができる。
◆そしてその奥に、坑道に入っていくための料金を徴収する区画が別途ある。700円か800円だったか、そこそこの料金である。そこにも左手に資料館があり、右側に精錬の模型がある。こっちの方が古くからある施設のようで、資料館内には文書や絵図の実物があるが、全体に展示は古い。どうも経営主体が違うのではないかな。より内側の坑道に入っていくところを含めての部分は三菱関係で、新しいのが行政によるものかな、と。いまも土地所有ばかりでなく関連資料ももっているのは三菱であって、これを文化財として活用していこうとする行政と、完全には一緒になっていない感 じである。
◆いよいよ坑道。生野は歴史は古いが、近代の生産量が多く、歴史遺産としては三菱時代の近代のものがメインとなる。あわせて1㎞のほぼ平らな見学路があり、松葉杖で一周するとかなり手首に来てしんどかった。巻き上げ機やダイナマイトの発破の音響、穿岩機などの実物展示がある。水の流れもかなりある。近世の頃も、その排水がかなり大変だったようである。生野町の人口推移グラフがあったが、近代の増産で大正期に1万人となり、昭和に入って減少、戦後再び増加して昭和30年代に1万人となり、平成15年で5000人を切ったようである。

高砂の町

◆2日、生石神社に初詣。国の史跡になっていました。石の宝殿はそうであろうが、範囲はどうなっているんかいな。おみくじを引くと1番で、大吉が出ました。とはいえ「色に溺れ酒に狂えば凶なり」だそうです。「病気(やまい)信神せよ 治る」。うっ、病気になるということか。
◆せっかくなどで高砂に。加古川下流部の近世の海運のことをよく知っているわけではないが、東 側の加古川でなく、港としては高砂が栄えたのだろう。小豆島に渡ったとき、飾磨港の港町を通ったが、高砂もまた町場が栄え、ちゃんとは知らないが、いくつもの街路と町ができあがっている。そういう町場の絵図など、どこに行けば見れるのでしょうか。むかし、資料館みたいなところに行ったかすかな記憶があり、日笠山貝塚の資料があったように思うが、その頃は近世の展示があったとしても素通りしたのだろう。
◆高砂神社に行き、工楽家を訪れる。そう狭山池館長の工楽さんの本家である。昔、なにわの海の時空間で、高砂工楽家のパネルかなにかがあった記憶がある。『播州高砂工楽家の研究』みたいな研究書が刊行されているはずだ。なんでも丈夫な?帆を開発して、近世の海運業の発達により財をなしたのかな。港にごく近いところにある旧家だが、いまは住んでいないようである。その一画には高砂市の設置した説明看板もあった。そして港沿いにも古い倉庫がまだ少し残っているようだ。町歩きをする対象は、いっぱいありますね。
◆高砂といえば、西谷真治先生のところの酒造家も立派な家で、惣盛という日本酒を造っていた。むかし車で高砂に南下していて、ここかと思ったことがある。が、先生もお亡くなりになり、もう酒造もやめているそうである。
◆ついでに川を渡り尾上神社に行く。が、ここまでとして引き返す。
◆午後、兄弟が集まってきて夜まで語らう。姉の甥は就職して何年かたち、姪は短大を今年度卒業して保母さんになることが決まっている。小さい子がいないと寂しいが、次はひ孫世代ですね。それもそう遠くなく、やってくるのだろう。自分がジイさんになるのは、さて何歳のことになるのだろうか。来年だったりして・・・。

あけましておめでとうございます

◆12月29日から1月3日までは実家廻りです。うちの子らは、帰ってこないのですが。
◆和歌山に行き、籠もっていましたが、天気もよく、30日はドライブに。ほんとは行くべきところもあったのですが、そこには行けず、紀ノ川沿いをぐるりと。とはいえ和歌山市内には入っていないか。ちょっと行ってもいいかと根来へ。一乗閣が修復の上、デンと例の尾根に移築されている。その西側の谷部もまた関連施設の工事をやっているようで、これはこれでそういう計画だったのか?、遺構は?と思ってしまう。西側の南北尾根の姿がこれによっても失われてしまうことになる。
◆0時をまわり、新年となり、丹生神社に初詣。そこから移動して加古川へ。
◆このブログ、ついに無料の容量99%に達した(残り6メガ)。いよいよ有料に切り替えるか、昔のをざっくり切るか、決めないといけません。
◆2016年。あと定年まで13年ちょっとになりました。自分の予定表に、去年から、あと14年といったカウントダウンを表記するようになりました。

しゃかりきで雑用を

◆昨日は自分の論文に費やしてしまいました。年末年始くらい、趣味の世界のこと、やらしてください。で、本日28日、仕事納め。しゃかりきで、年を越すため、雑用をこなしています。
◆21:51。そろそろ帰りますわ。今年はここまで。みなさん、よい新年をお迎え下さい。

歩けるようになってます

◆12月21日に病院に行き、カカトの骨に差し込んであった金属ピン2本を抜いてもらう。予想はして おり、前日に、自分の足から金属ピンが出ている写真を撮っておこうと思いつつ 忘れてしまった。1本はすでにユルユルになっていたが、もう1本の長い方はそうでもなかったが、一瞬ですからとアッという間に抜かれる。歩けと言われて体重をかけるものの、この金属ピンがあると、なんとなく痛かったが、それも解消した。で、即日、松葉杖なしでも何とか歩けるようになりました(ずっとじゃないですよ)。
◆毎日、時間を決めて、歩く訓練をしないといけません。病院に行ったとき、「歩いてないでしょ」と言われた。骨萎縮は回復するのに時間がかかりますよと。早く直すのが一番なので、机を離れ、リハビリを意識的にやる必要がある。
◆大歴関係でチラシが2つ入っていたので、挙げておきます。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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