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人を幸せにする人になろう

11月7-8小豆島石のサミット(4)

◆土庄の町。エンジェルロードというのがあり、潮が引けば白砂の陸橋で島がつながるところがある。その基部にいくも、足がこれなので、そこまで。
◆土庄の町は「迷路の町」というキャッチコピーがつけられているが、あとまわしとする。 この町は、小豆島本体と、厳密にはわずかな海峡というより水路で隔てられた島がある。写真はその水路。世界一幅の狭い海峡というのをウリにしている。
◆基本的に全周をめざして外をまわることにする。で、島をめぐり、また水路のところに戻ってくるが、ここが土庄港。カネヤのゴマ油工場が土庄港の西にある。ゴマ油というとなじみのあの黄色い蓋のやつである。独特の香りがあたり一面に広がる。そこから小豆島の西海岸を北上する。
◆北側は全体に山がちで、海まで山塊がのびる。ところどころに川が流れ村があったか。ま た山の方には棚田で有名なところがあるらしい。山は高い。最高峰は・・・。11月、観霞渓の行けば、かなり紅葉が進んでいるかと思われる。
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11月7-8小豆島石のサミット2015(3)

◆翌日、朝ご飯を食べて、8時過ぎには出かける。いま町村合併で、およそ東北から西南方向の山地にもとづき、南半分の小豆島町と北半分の土庄町の2町となっている。で、土庄町に向かう。
◆途中、なんとかの桟敷という段々の石垣があり、神社の背後の傾斜地に設けられたもの で、祭りの時、ここでは御輿なのか不明だが、その観覧用である。石の島、小豆島ならではといえるかもしれない。
◆一眼レフデジカメを、先に書いたようにもって出れなかったが、いつものイクシーがポケットに入っていて、姫路飾磨港とか写真を撮っていたのだが、気づけばSDが入っていなかった・・・、大ショック。で、この日、コンビニに「もしかしら」、と寄ってみるとちゃんとあるではないか。8ギガが1000円。安くなったものですね。まあ、これで観光にもやる気が沸くではないか。

11月7-8小豆島石のサミット2015(2)

◆19:05に福田港に着く。島の東側から南へまわり、三都半島を抜けたところの国民宿舎に 入る。1組だけ、本体の国民宿舎でなく「ふるさと荘」という離れだという。食事のあと、部屋に案内されて納得。バリアフリー室になっているツインの洋室だった。入り口はスロープで少し上がるが、そこからは部屋、バストイレに段差なく、風呂には風呂用の椅子がある。ありがたい話である。この日は「ふるさと荘」はわたしらだけ、職員もフロントにおらず、23時消灯という。まあ、パワポ作りに困らないというか、好都合。
◆その前に「ふるさと荘」フロントのところの、あらゆるチラシをもらい、小豆島の情報収集。観霞渓、二十四の瞳の分校場、坂手の醤油蔵(そう醤油が特産なのである)、オリーブ 園はもちろんあるが、あまり興味はない。小海の残念石は北岸のまんなかあたり、岩ヶ谷は東海岸、といったことを学習する。
【写真】上は国民宿舎から見た、2泊した「ふるさと荘」。それと、国民宿舎から海を見た写真だが、石のサミットの幟。これ、あちこちにはためいてました。屋島がすごく近い!。

11月6-7小豆島石のサミット2015(1)

◆8日は小豆島石のサミット。7日もプレイベントがあるが、この足なのでクルージングは辞 退し、だけど6日入りして、土曜日は小豆島を回ろうという計画。行きは姫路―小豆島(福田港)、帰りは小豆島(坂手港)―神戸とする。
◆5日木曜日段階、シンポジウムのパワポは0。金曜日、2箇月の現場で車も汚く、点検の時期でもあり、例のタカタのエアバッグのリコールもあって、日がないので、ホンダに予約を入れ、朝から車を点検整備に出す。これが9時に入ったのに11:30までかかる。これだと大学に寄る時間がない。必要なものは持ち出していたが、一眼レフデジカメラはフル充電して準備していたのに、置いてきたので持ち出せず。
◆カミさんに付き添いを頼んでおり、13時京橋。姫路飾磨港15:10発、30分前として14:40。あと30分早くしておけばよかった・・・。
◆結局、着がほぼ15:10で、港に着いたとき、ちょうどフェリーは離れたところでした。が、この日は、明石海峡大橋の工事渋滞が第2神明にのび、無茶苦茶な大渋滞になっていたのである。あれはひどかった。それがなければ間に合ったんですけど。
◆1本遅らせ、次は17:25発。天ぷらそばを食べ、銀の馬車道の展示を見たあと、パワポを作り始める。乗るつもりの15:10発だと、1時間40分で着いて、国民宿舎に入るにはちょうどよかったのですが、遅れたので外ももう暗い。まだ明るければ外を眺めていたいところ。が、外の夜景をながめることなく、パワポ作り。国民宿舎に電話を入れると、チェックインしたら食堂直行でお願いしますとのこと。
【写真】オリーブ

11月3日(明治の日なんて認めません)台場資料なんとか

◆だいたい昨日の2日にパワポ含めてアバウトできる。本日、もうちょっとやって資料はもうこんな ものとしよう。パワポはまた当日にチョコチョコっとやって、なんとかなるだろう。趣味で、やっぱりこういう年表を作る。

ハイガイ、ハマグリ、アサリ

◆潮干がりといえばアサリ。が縄文の貝塚でいえば、松島湾とか岩手とか、そっちの方で、森ノ宮にはない。大阪湾岸で工場が進出する前、ず~と浜辺が伸びていたわけだが、じゃあ何が取れたのかを聞くと、大浜あたりでハイガイ、住吉ではハマグリだったそうです。

つづき2

◆さてシンポ。210名ほどの申し込みがあったが、実際の来客は170くらいだったようだが、ホール がだいたい埋まり、みなさん熱心に聞いていただいた。3本の講演で一休みし、第2部からわたしも登壇し、最初は、ごく短く3人の方に関連のコメントやっていただきディスカッションに入る。
◆細かくいろんなことを書いておく余裕はないが、森ノ宮遺跡が西日本最大級の貝塚であることは確認できたし、そのなかでも遺跡の概略は捉えられていること、基本層序や存続時期もわかり、各時代の土器が連続的に弥生前期まで認められる。そしてカキからセタシジミへという変遷も明瞭。その上でまだわかっていない居住域がおよそ想定できるようになったのがひとつ。加えて、セタシジミは淡水化した目の前の河内「湖」で取ったものでなく、まだ汽水域であるので、交易で淀川で採取したものではないかという見解が新たに提起された。ほかにも生まれたばかりの赤ちゃん骨が新たな見直しで確認され るなど、1970年代の調査時点での理解が、今回のシンポを機に、講演者などみなさんが改めて元資料にあたることを含めて見直し、それをもちよって実態に迫るという試みがなされたシンポであった。
◆森ノ宮貝塚は国史跡になってぜんぜんおかしくないものだ。大阪城・難波宮に加え、森ノ宮遺跡もあるということについて、普及啓発が進められることを望む。

続き

◆そのあと歴博に行く。8階の企画展示室で、発掘速報展と、その一画で特別出品された森ノ宮遺跡 始め縄文時代の遺跡資料を並べてくれているのを見る。宰相山遺跡や勝山遺跡などの資料もある。森ノ宮遺跡では晩期の土器がまとまって出ている。そして弥生前期と、森ノ宮遺跡では各時代の土器が出ている。ちなみに縄文中期に始まり、後期にカキ層の貝塚が形成され、晩期になるとカキは死滅したようで、セタシジミとなるが、下層で晩期、上層で弥生前期土器が含まれる。稲作はさてどっから始まるのか、というのも興味深い。4000年前の後期には上町台地を下りたところは汀になっていてカキが取れたわけだが、その後の沖積化で、ここでも農耕を始める土地条件になっていると理解できる。晩期のどこかで試行が始まっているのかどうか、森ノ宮遺跡はそういう農耕開始の問題にもかかわる遺跡といえる。

10月31日、森ノ宮貝塚シンポ

◆無事、終わりました。とにかく知っている人は名前は知っているが、知らない人も多いだろう し、名前を知っていても遺跡の状況をちゃんと知っている人はさらに少ないだろう。わたしも授業で西日本最大級の貝塚と喧伝してはいるが、実はほとんど知らない。それを概略まず知ってもらうというのが、言い出した者としての趣旨。それを博物館協会のO君が、内容を具体化してくれ、講演者やコメンテーターを考え、先にも書いたが、関連してピロティホールの展示室の公開や、関連展示なども組み合わせることも実現してくれた。ほんとうに感謝に堪えない。
◆で、10時からピロティホールの展示公開があるので出かけていく。この建設にともなう調査が行われたのが1970年代中頃なのだが、聞いていると、坪井清足さんがピロティ方式で残せと指示したのだそうである。下に貝層の大部分を残したということ、これがなにより大事で、関係者の 尽力に感謝しなければならない。
◆入っていくと、次々にお客さんがやってくる。うれしいじゃないですか。ここ、元は週1回、特定曜日は開けていたようだが、指定管理か、大阪市の直接の管理でなくなり、いまは年に1回か数回、公開日を設けるだけになっているのは、もったいない話である。大阪市が管理していると、職員さんの業務の中で、公開曜日の鍵の開け閉めなどをやれたのだろうが、いまはホール利用の管理運営を外に出しているものの、展示部屋の公開は切り離されており、公開するには市教委の担当が貼り付かないといけなくて、限られた数日となっているようだ。
◆土器や石器、人骨など、主要な遺物はここにある(歴博の展示では土器1個に石器いくつか)。が、公開状況が以上のような状態。そしてピロティホールの外側に、この下に西日本有数の貝塚があるという説明板はない。現地に行ったとき、市街地で貝塚が見えるわけではないが、どこにどう貝層が広がっていて、どんな遺跡なのかを知ってもらえる、まずは説明板の設置をやってほしいもの。

10月29日、病院に行く

◆レントゲンを撮り、診察。白い骨の間の黒い筋となっている骨折箇所、まだ黒い。治癒し固まってくると、右と左の白い骨と同じような白さの、つまりは一続きみたいになるのだろう。そもそも、このカカト、いっぱい折れていて、単純な骨のように修復するようなことはしない。カカトのショウ骨がいっぱい割れて、真ん中が高く両側に下がる角度をなしているものが、真ん中の部分が陥没した形で、全体として平ら気味になっている。そうすると、上の骨との間の関節部分の隙間が開いており、そのままだと上からの体重を均等にカカト骨が受けられない。それをカカト側から金属の棒を2本入れて、骨折した骨の大きなパーツを串刺ししながら、上にもちあげて隙間を詰めるという手術をした。
◆その状態で骨の固まるの待つのだが、だいたい8週間らしい。11月下旬には固まってくるというところだ。で、ほんとはそれまで動かさないのが骨が固まる上では早く、1ヶ月から2ヶ月入院となる。なので、2週で出てきたので、ぶつけたり、カカトに体重がかかるようなことは絶対するなと言われる。一方で、あまり使わなくなる右足の筋肉が落ちるのと同様に、骨萎縮といったか、体重がかからないために骨密度が疎になるのだそうです。リハビリの意味は、徐々に体重をかけて、骨の密度を元にもどしていくようだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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