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人を幸せにする人になろう

なんとか資料ができそう!

◆最後、新田原をやっていたが、いや~研究って進むもんですね。68号墳だったか、後円部が小さく、前方部がやたら広くなる。百足塚などはやせ細ってはいるのだろうが、開きはそこまでない。百足塚など、今城塚と比べるほかなく、が合ってるとか判断しようもない。時期が時期ですからね、くらいな話。ところがです。68号、カシコーケンのこないだの図録で、橘の五条野丸山の最新図を掲載してくれて、それをすこし図化していたのですが、その時の印象が残っており、重ねてみると、実に実にぴったりです。欽明さんの墓、新田原に最新モードが行ってますよ。
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大学とは何か

◆すいません、大上段なタイトルになりました。文学部のよく知った教員2人が阪和線のなかで話を したことがきっかけで、こうした企画が生まれたとのことです。文系の整理とか、こないだのオッサンの意見とか、ケイエイとかコウリツカとかエイゴだとかジツガクだとかを叫ぶ風潮に対し、大阪都構想、その一環としての大学統合の外的圧力のなかで、一方的にやられていたが、いまこのとき、中にいる人間が、大学について落ち着きある状態で自由に話をしませんか、というのが趣旨のようである。
◆こないだのオッサンの意見に対する反論でもあるが、文系の学問も、ある特定の病気に対する薬といった形でないが、間違いなく実学なのである。高校までの学力を基礎としつつ、大学は社会に出て行く手前の、特定分野における研究という営為、すなわち自分が資料や現象という生データにもとづいて証拠を集め分析を加え、妥当な理解を論理的に導く実践そのものなのである。人間の能力、理解力にしろ洞察力にしろ解決力にしろ、それは自分で考えてきたことの総量ともいえるが、それは広く学ぶだけではダメで、深く掘り下げることが決定的に重要なのである。学問の世界もバカにしたものではなく、新しい世界を切り開いていくのは相当に厳しい。大学は、専門的な研究というフィールドで勝負することを通して、深く掘り下げ本質をつかんでいくことのできる人間を育てるのである。学問分野はさまざまあれ、それぞれの分野における専門的な研究こそが、そうした力を身につけさせるのである。皮相な比較とかではない。たかが卒論、されど卒論なのである。適当にやった人、どんどん前進していった人、大学4年生での人間の成長度の差はきわめて大きく、それはその後の人生においても影響を及ぼすであろう。
◆社会で1人前の人間として働き、またこの長寿社会で死ぬまで成長を遂げるためには、社会に出てからの経験はもちろんすこぶる大きいわけだが、深く掘り下げ自分でものごとを考える人間となるため、大学で卒業論文に取り組むという実践がきわめて重要なのである。T先生の言い方でいくと「自分になる」ということ、ほかの誰が考えたものでない、自分が脳みそを使って考え抜く、それこそが自分を作り上げる基礎になるということだ。人として生きていく上で、専門学校とは異なる、きわめてプラクティカルなものなのである。

倭国王墓の系列図をバージョンアップ

◆するのに3時間を費やしてしまう。

今週そしてこの連休

◆この1週間、メールを見ていません。すいません。あした処理します。古代を偲ぶ会はクリアした が、考研と宮崎の〆切が果たせていない。宮崎の資料をなんとか、この2日で終わらせよう。なにか文字が書けるかどうか、自信はないが。柄鏡形と後期の話をつけたいのですが、すっきりとはいかないだろう。13日月曜からの週の話は、だいたいカタがついたか。
◆明日明後日、地域史惣寄合というのがありまして、桃山とうちが会場になり、2日にわたって行われます。昨日、近世史のMさんがやってきて、「市大日本史の時行くゆうてました。来てくださいね。」と言われ、ぎくっと・・・。う~ん。明日、とにかくめいいっぱいやれば、月曜日の市大会場でのセッションⅢに顔を出すことはもしかするとできるかもしれないが、こればっかりはわかりません。翌日の最後の授業の準備もあるしな~。
◆ブログを書いていないで、さっさと仕事せよ、という声はよくわかりますが、人間は合理性だけでは動かないもので・・・。
◆ところで、こんな記事(右)。ううう
◆もひとつ、世界遺産についての文化庁文化財部長をやった人でしたか、批判的な記事を書いていましたね。貼り合わせて1枚モノにしたんですが、見あたりません。それに関連して、松下村塾とか萩城下町って、きわめて危うい話です。これおかしいですよね。いわゆる近代化遺産のなかでも、特徴的なものとか、日本の特性をよく示すとか、そしてよく残るもので、近代化というくくりで群にするということはあってもいいだろう(具体の構成資産個々の問題はひとまず措く)。が、松下村塾とか萩城下町は、ヨコシマな一方的歴史観の押しつけちゃいますか。吉田松陰というのは、あかんやろ。二度と萩城下町には行かないことにします。長州なんか大嫌いだ。ついでに言うと、イコモスの予算の多くを出しているのが日本で、という話を聞く。これは事実関係を確かめないといけませんが。IOCやFIFAやらと、同じような世界かもしれませんね。

土師ニサンザイ

◆陵墓懇談会のことを書いていて、そういえば、この3月の書陵部紀要を見ていないな、と。が、な んとなく、ノボノの報告を見た記憶はあるので、わからなくなっているんだろう。で、1年前の書陵部紀要を手に取ると、土師ニサンザイ。こういう最新の成果で更新していかないといかんのに、できてないな~と。
◆ちょこっとやってみました。後円部径は半径55歩(25㎝尺です)、直径110歩、前方部の長さ85歩まではいくとみてよいが、願望は90歩で(そこまでいくかどうかわからず、真ん中を仮に剣菱のように張り出させているだけです)、計200歩なんだろうと思う。昨年、堺市さんが発掘していたのを見せてもらいましたが、後円部背後側を含めて、いずれ正式報告が出たらシロクロつくであろう。200歩はちょうど300m、どこまで近づくか、というところ。

北枕か南枕か

◆久津川の石棺がどう考えても南にかなり寄っているのは間違いないので、中心主体ではないとみ るほかはない。
◆ぷらす、北枕か南枕かという問題があるのだそうです。久津川古墳研究を丹念に読まないといけませんが、発見時は北枕、梅原さんが大正に再び開け、この時、骨はあったんでしょう、南向きだと。で、梅原さんは発見時の記録が間違いなんだとする。まあ、こういう違いを指摘するからには、梅原さんが北と南を間違ったとはみなしにくい。石棺を移動する時、礫とか人骨はどうしたんですかね。読まないと。で、聞きに来ていたオバサンが質問にやってきて、泉屋でなんかやっているらしく、どっちだとお考えですか、と。いや~、そんなん知りません。
◆でやりとりをしていると、大学時代に新博物館を作るとき、解体してあった長持形石棺を運び込み、組み立てる時にお願いして石棺の略測をしたんです。それが城陽市史の時に使ってもらったんですが、なんとなく底石底面が北の方がわずかに広そうなんです。そうすると北枕になりませんかと、そのオバサン。なるほど~、と教えられました。しかし微妙です。松岳山のような明らかな広い狭いではなく、基本は直方形とも思われるので、有意かどうか・・・。ひとまず、原図を探し出さないといけませんね。
◆崖面に露出しているのは上側で、これが北側。南側が突起が作り出されている方で、これが南小石室側なんです。

2015年7月18日、古代を偲ぶ会

◆2年前に松岳山でやって以来か。今回は久津川車塚。芝ヶ原、西山古墳群から始め、この冬の造り 出しの写真を見てもらう。最後は芭蕉塚まで。この図は、元は芝ヶ原古墳 の史跡整備地に置いた模型を作るための原画で、手を入れるためにもらったデータです。たぶん、等高線でなく、地形区分で色分けしてくださいとお願いしたもの。基本は自分が作図したものでないので、やや問題はありますが、出しときます。扇状地のヘリまで、条里が来る。
【追記】研究室を出ようとする直前、ペルーから電話がかかってきました。スカイプということだったか。時差は14時間という。さすがに海外協力隊もペルーとなると数人で、1ヶ月の研修の間、ホームステイらしい。

7月16日、陵墓懇談会

◆昨年は行けなかった。11:30明治大学。日本考古学協会のNさんの仕切りで、全体会合 はおおむね予定通りか。少し早く終わり、今年は書陵部でなく、桔梗門から入った本部?の会議室だったが、歩いて行く。途中、雨が降ってきて、傘をもっておらず、和田倉レストランというところに逃げ込み、昼飯を食べる。おねえさんが、皇居前広場を見渡せる窓際の席に案内してくれ、飲み物だけと思っていたのに、思わずパスタを注文する。
◆15時前に門の前に集合し、中へ入る。宮内庁側では書陵部長と、陵墓課の陵墓調査官が交替し、今年度の工事計画の説明から入る。今年度の事前調査は渋谷向山古墳である。工事としてはニサンザイの前方部護岸、津堂城山の柵の改修などもある。工事がらみの質疑があり、そのあとでその他なんでも16学会側からフリーに発言という段取りと思っており、3つほど質問を考えていたが、その仕切りが明確でなく、終わってしまった。聞こうとおもっていたのは、ノボノの工事計画の話と、淡輪造り出しの断ち割りの話と、立入りの話だった。まあ、工事がらみのところで十分いろいろと聞けたし、まあそれはそれでよい。

7月13日、大阪の歴史演習終わる

◆新設科目で、いちおう担当。この日、3限の13時から、3人分の発表をやり、17時近くになる。そ のあと、打ち上げをやりましょうということに先週なり、いわし亭に。前期の短い間ではあるが、7人の方とご一緒し、一緒に勉強してきた。呑み会では、いろいろ意見を聞けてよかった。むろん、授業時間内に、こっちも最初のことだし、いろいろと感想を聞けば、話をしてくれると思いますが、呑み会の席で、ざっくばらんに話ができて、これはよかったと思う。
◆いろいろメモをしていて、それはそれでまとめておかないといけないのだが、ガイドを既にやっている人で、実に詳しく勉強している人が、「やはりつまみ食いで、体系的に勉強したい」という要望を切実に話をされるのを聞くと、大阪歴史文化アカデミー構想ではないが、その受け皿みたいなものが週1であってもいいかなと思ったりもする。次年度以降、さてどうしたもんだべか。

2日大阪を留守にしました

◆木曜日に陵墓懇談会が入ったので、大学院の授業と研究会を調整していた。ところが先週来、特 別委員会で安保法案を採決するという情勢となり、前日から東京に行くことにした。朝早くからでかけ、12時前には着き、国会議事堂正面にむかう。12:20だったか、強行採決の報が伝わる。この日、かんかん照りながら、既に大勢が集まり、おじいさん・おばあさんが(だけではもちろんない)よく目に付いた。
◆昼の部は強行採決があり、2時過ぎまでだったか、延長して一区切り、16:30から再開するとのアナウンスで、憲政記念館というところを見て、腹ごしらえをしに麹町まで行き、再び戻り、夜の22:30まで詰めていました。右サイドの本部的な場所にステージがあり、その背後にいた。野党3党首もやってきたし、上野千鶴子や香山リカや、山口二郎もマイクをもった。夕方からは学生等にバトンタッチされ、夜になっても続々と人の波は途切れず、この日は6万人になったらしい。16日は13時から本会議を開くとの情報が入り、集会も13時からやるとのアナウンス。息子の下宿に泊めてもらうことにし、晩飯でもと約束し、21時頃くらいかと言っていたが、その頃が最高潮でもあり抜けるわけにもいかず、22:30時頃までいて今日はここまでと現場を離れる。
◆翌16日の陵墓懇談会だが、明治大学での関係学会の全体会だけにして、懇談会はパスし国会前に詰めたい気持ちはあったが、そうも いかない。15時からの懇談会は16:30頃に終了し、参加者の中でもう一人、国会に向かうMさんと桜田門方向にむかう。進行方向から音は聞こえていたが、17時頃に到着したところ、続けていた集会は一旦休憩に入り、18時だか18時半だかに再開するというアナウンス。台風の影響による雨、また午後、衆議院で可決されてしまったこともあり、前日よりもやや人は少ない。今日は長居はできないので、しばらくいて東京駅に向かう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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