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人を幸せにする人になろう

大林高塔

◆第5回内国勧業博覧会で、大林高塔というのができる。昨日の大阪の歴史演習で、新世界の発表を 聞いていて、通天閣は高塔とほとんど同じ場所で建てられたという新聞記事を見せられ、そりゃちゃうやろと。前に博物館概論で調べたときに、パビリオンの平面図を見つけていて、場所を確認していた。で重ねてみました。
◆美術館というのが仮設でない建物としてできあがり、それがのち博物館となる。北側にあった住友屋敷が神戸移転にともない大阪市に寄贈され、のち美術館ができる。いまの天王寺公園および新世界からなる博覧会会場に、当時の面影をほとんど見ることはできない。位置関係をご覧あれ。
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梅雨あけですな

◆朝8時前、すっかり日は高く、空は青く、太陽が照りつける。

天皇機関説

◆土曜日に、文全協の難波宮の講演会に行くことになっていたんですが、この日、ピースをめぐる 講演会があり、そっちに行く。講演はあんまり面白くなかったが、華北分離というのを勉 強せなあかんなと。返ってきてから、家にある昭和の歴史を見ていて、美濃部達吉の天皇機関説問題にぶちあたる。
◆1935年2月18日貴族院本会議で、美濃部の見解に対して不満をもつ議員が質問に立ち、政府に美濃部説の否認を迫る。全国で排撃運動が展開され、8月に政府は誤りであるとする声明を発表する。が、美濃部そのものは不起訴。議員をやめるも、攻撃側は「絶滅」を叫び運動を継続、極刑を求める。10月、政府は再び声明を発表し、これを排除する声明を出す。文部省は全国調査をして、この説の教科書等を排除する。
◆かつて美濃部の憲法解釈を誤りとして攻撃をゆるめなかった陸軍、いまそれに相当するのが内閣であり政府与党で、政治屋そのものが立憲主義に立たないわけだ。憲法の理解について、学者の見解などけしからんという構図はまったく同じ。われわれは正確にいつか来た道をたどっている。

改訂を続けてと

◆いくつかあって、前から作り始めている図を充実させる。

網野銚子山の整備が始まる

◆基本構想はできあがっており、用地買収も進み、今年度から整備事業が始まります。まずは未確認部の調査から。8月9月と聞きました。

男狭穂塚は作りかけでは

◆男狭穂をじっくりと観察する。これ途中でストップしたんやろ うと思う。だとすると、平坦部で基本盛土の中期大型前方後円墳の築造行程を知る一級資料じゃないかと。後円部について多重に割り付け、前方部側を除いて周濠を掘削して後円部を完成させる。堀の端がスロープ状になっていることも示唆的。一方で片側の前方部も、いくぶんの成形がなされる。次は前方部。しかし前方部の周濠を割り付け、周濠を掘削した痕跡はない。その直前でストップしたのかなと。これがメサホを上まわる巨大前方後円墳を築造したのだとすると、何が考えられるんだろうといろいろと当てはめてみたが、執政王墓系はうまく乗りません。結局、仲津山かなと重ねたのが図です。170歩235mの前方後円墳を造ろうとしていたのではないか。
◆しかしそこでストップがかかる。なぜでしょうね。でかすぎ。承認されていたものが取り消されたのか、勝手にやってたのか、それは知らん。結局は130歩180mのものに造り直した、と。途中まで造り上げていたものを、整えることは許されず、放置された、と。でもオサホからも埴輪が出てるんですよね。それで時期差はないと。だとしたら、最終的には利用したわけだが、どない埴輪を並べてるんですかね。
◆それと次がないこと。まあどこでも規制されるわけだが、しかしもう1代分くらい前方後円墳があってもいいし、そうでなくとも大型円墳が続いてもよさそうだが、ほぼばったりと。備中的ですね。「激烈な弾圧」?。
◆これもレーダーで帆立貝との結論が出ているようです。が、崩されたにしても、前方部前面側の周濠が掘削されていないのは、やはり問題。

高橋源一郎の本を読んでいます

◆この論壇、2011年4月にスタートしたのですね。そんな手広くいろんなものを読むことのないフ ツーのわれわれにとって、実にさまざまな言論があることを紹介してくれ るのは、ありがたいことですね。
◆ここ数日の新聞記事にも、大西巨人と西園寺公望の記事を面白く読んだ。

れきはく論文

◆このところ、書き殴っております。焦点が絞れないまま、書きたいことをぜんぶ書いたろか、と。どうなりますやら、この2日、安閑未完墓の横で、2時間ずつ書いております。

天皇記と国記

◆これって、神聖王と執政王の記録かも知れないなと。日本書紀の課題は、それを1本化することではないか。

少し上くらいの年代

◆みなさんはワープロとか、PCのワープロを使うようになったのはいつですか。わたしの記憶では、1浪して大学院に入った1989年にPCを最初に買いました。その前の浪人中の1988年にワープロ専用機を使いました。その1年前の1987年の卒論を書いていた時は手書きです。そう、手書きで卒論を書くという経験は、1年遅ければ未経験だったかもしれません。
◆いま大阪の歴史演習で、オジサン・オバサンとつきあっていますが、70代のおじさんはしんどそうです。60代のオジサンはワードも問題ありませんが、画像を貼ろうとするとエクセルにするみたいです。エクセルのレポートが出てきます。オバサン、これがしんどい。50代前半といっても、自分のすぐ上くらいですが、4大卒1名、短大卒2名ほかです。卒論があったかなかったか聞いてませんが、PC普及以前なんでしょうね。それでも2名はワープロで打ってきますが、2名はたぶんほとんどやっておらず、それでも頑張ってやってくれてますが、時間がかかるのでしょう。1名の期末レポートとして、多量の手書きのものが出てきました。手書きでいっこうにかまわないのですが、整理されていないようで、これは一旦返そうかなと。
◆いまの学生は、だいたい学年が上がってくると自分のノートPCをもつようになる。そういうのがあたり前になるのは、どのへんが転換点だったのでしょうか。移行期では学生時代に十分さわってなくても、就職すれば、いやがおうでもやり、一定世代以降はワープロというのは基本的に身についてるんでしょうけど。うちの娘は、高校の時に自分でデルのノートPC買ってました。2人とも大学に入ったときに、ノートPCを買ってやりました。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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