人を幸せにする人になろう

11月5日は堺

◆以前に、岳父を堺に連れて行った話をした。堺で3つくらい転居しているわけだが、2番目の家は 宿院の交差点のところで、空襲にそなえての疎開で道路が拡幅され、3つめの家に転居する。その後、この界隈を昭和12年だったかにスケッチしたものがあり(展示されているのをいつか見た)、それをもとに利晶の杜の博物館で模型が作られる。それを見てもらうことになっていた。ものとスケッチは堺市博から図録になって刊行されており、それを渡してあるのだが、なつかしがって、再訪の話に進んだわけです。
◆さらに年数が経過し、ずいぶんと足腰も弱まり、博物館では車椅子を借りた。前日からは行けなかったので、朝出て、海南東から阪和道に乗り、湾岸線で大浜まで。模型を見てぱっとここ、という反応にはならなかった。90歳を越える姉、もうひとりの姉(向日町)など、住んでいた時により年上の兄弟に聞かないと、確定はできなさそう。まあ、しかし、この写真の正面角から3つの敷地のあるまんなかかな、と。その一部を借りていたのか、全部か、それはわからないが。
◆次は自分の親のところです。11月中に1回行けるかな。

にほんいち明るい経済電波新聞

◆での言葉。元気な会社の社長。
(1)明るい。(2)意志が強い。(3)運があると信じる。(4)縁を大切にする。(5)大きな夢をもつ。だそうです。
◆まったく関係のない話です。ザリガニとウシガエルはマチにいる(田舎にはいない)んだそうです。
◆まったく関係のない話です。カミサンは、いろんなものを作ってもらったり、そうでなくとも会社訪問をすることもあるのですが、その話。日本人の若いモンは実際にモノを作ったりする作業をいやがるんだそうです。PCで制御すれば何でもできると思っているんでしょうか。で、結局、製作の機械を扱ったり検品したりの現場は、外国の人だったりするんだそうです。そういう話をあそこでもここでも聞くと。モノづくり、の将来は暗いですね。体を動かすことを厭う。労働して給料もらって生活して生きていく、そのモトを放棄する。コンビニのバイトでも食っていけると・・・。
◆話は変わりますが、夫婦2人で21時とか22時まで働いていると、まあ外食が多くなる。あるいはスー パーの半額のお寿司とか(時間帯が遅くなればない)というおっさんの食生活となる。が、国分駅前にそう店は多くなく、行くところは、あそこかここか、あっこ、となる。で4日、新規開拓して入った店が、これがよかった。「旨いものを食うために働いている」というのも真理である。写真がうまく撮れませんでしたが、銀杏を焼いたのもよかった。

3D考古学

◆早稲田のJさんから研究会の予稿集の冊子を送っていただきました。世の中はここまで来てるんで すね。遺跡・遺構・遺物とも日進月歩ではあろうが、遺物の整理にどこまで入っていくか、全国のマイブン業界における遺物整理の全体量はかなりのボリュームであり、20年ほど経つと、整理室の風景はすっかり変わっていくことになるかもしれませんね。

文化の日に駆けつけ警護の記事

◆11月に入りました。秋晴れです。こんな日は、まちあるきをしたいものです。が、学祭期間になり、ここで稼がな、と仕事をしております。とはいえ、行事なし、というものではないが、比較的ゆったり。歴史は変化への適応の歩みともいえる。ゆっくりと変わっていきたいものである。このままでは生き残れないといった脅迫で、為政者があれこれ動かそうとしても、それに踊らされず、成り行きを見定めて、少しずつ適応していけばよい。こちょこちょ変えるな。現状の点検は必要だし、手を打たなければならないだろうし、とはいえ優先順位もあるし、ほっとけば調和していくものもある。何もしないというのとは別。人間の意志と行動こそ、次の創造につながるだろう。チャレンジである。大事なのは、どのような意志をもつかだろう。
◆防衛大臣が「神武天皇の偉業に立ち戻り・・・」と、明治節復活の集会で呼びかけたという。日本の歴史教育は何なんでしょうか。こんなアホ、とほっとけばいいというものでもない。いろいろ書こうとも思ったが、

さてここからは大歴ですわ

◆いや~、明日も予定がきっちりあり、夕刻の委員会に向けて今晩中に資料を作らないといけません。月曜の夜は恒藤・・・。伏見城のプレッシャーもきつくなってきているが、3・4・5・6日は、いくらか仕事が入っているし、堺にも行かないといけないのですが、残りの時間はすべて伏見城にあてる決意ですので・・・。

2016年10月30日KR研(久津川車塚古墳研究会)

◆夏季の現場のあと、この月イチ研究会を再開する。本報告はかなり先だが、遺構のトレー ス・記述は、その年度のなかでストックしていく大方針で(2015も追いつく!)、今年度から概報もあり、そうした報告作業の進捗、記録類や遺物の整理作業の進捗を確認しつつ、研究会を続けている。
◆前期はこれまでの久津川古墳群また車塚にかかわる過去の調査成果などを共有しあってきたが、後期は2015・2016報告にむけて、原稿担当者がそれぞれ報告していくことになりそう。城陽市の担当者お2人を含め、毎回、院生・学生が集まっている。
◆研究会は、立命館のNさんが主導し、勉強会メニューや整理作業の仕切りもしてくれている。これにうちの道上氏がサポートに付く。
◆今回は、2016のトレース分担決め、2016の葺石の検討、埋葬施設の検討、2017調査区の意見交換などを行った。プラスこないだの木津でしゃべったことの概略を短くしゃべる。立命卒論組も提出したあと1月から2015に取り組んでくれ、2016主力の3回生のメンバーもそれぞれ役割をもち、2016をまとめてくれることが、スケジュールともども確認された。城陽市側と相談しながら、こうした基本方針を立てたことが、今日の最大の収穫である。こうした打ち合わせ、研究会の発表も、いや~、ちゃんとしてる。なかなかいい感じです。うちの院生・学生も、一緒に掘った仲間とともに成長してほしいものである。
◆少し時間が足りず、線路東側の残りの測量のことと(市大側で日程は決めている)、2015の遺物整理の話ができなかった。後者は日程調整が必要。なお、概報のイメージを作る宿題がまわってきた(11月研究会までに)。それと本報告の本文書きに先立ち、トレースも80%くらいできあがってきているので、挿図の図割りをしないといけない。そういう面でも、月1回の研究会という機会は重要である。

10月29日は三重大学

◆奈良女・三重大・京都府大でやってきた合同卒論中間発表会に参加させてもらうことになり、昨年は奈良女に、そして今年度は三重大ということで行ってまいりました。うちは4回生がいないので、M1に発表してもらう。朝、国分を出て12時前には着き、昼飯を食べ、13時から開始。
◆なかなかありがたい機会である。三重大は伊勢湾に面し、安濃川?に面した、河口部の海端。春は潮干狩り、夏は海水浴ができるのでは?、と思うが、どうなんでしょう。2回ほど、もうちょっと南だが潮干狩りに行ったことがあります。
◆懇親会にも行きたいところですが、翌日がKR研なので、すぐに帰ってきました。

10月28日金曜日は大学史の会議と高槻市

◆9:20から大学史移転のWGの会議、そのまま大学史運営委員会。これで昼。そこから高槻へ。大学史の、恒藤記念室を含む展示設計のプレッシャーも、なかなかのものである。
◆大阪城の表面波調査は、木金で計画されていて、この日も高槻市の会議から大阪城へ向かうつもりにしていたが、予定の調査が木曜日に終了したので、大学に戻る気力もなく帰宅。そのまま爆睡。ああ、大歴の仕事をせなあかんのに・・・。

10月27日大阪城表面波探査

◆聚楽第の堀が、つまりは平面形や構造がわかったという新聞記事はいつだったか。これを豊臣大 坂城本丸の、内に入り込む3段構成で深さ10mの堀をつかめないか、ということでお願いしたもの。文理で取り組むこの事業の推進者であるNさんと、理学部のMさんでセッティングされたもので、どんなものか見たいし、昨日、17時からの現場に行きました。
◆結果はすぐわかるようだし、楽しみにしておこう。大きな掛矢で2mごとに舗装された地面を叩いて、振動を2mごとに配置された受信機でつかまえて地下構造をさぐるもの。測線3本が、わりあいあっという間に(2時間かかっていないのではないか)終了した。学生・院生等が叩き役だが、大きな振動を与えるほど深い情報がえられるので、どこまでの深さが探索できたか、というところ。
◆カミサンのところに新潟大の古生物の人が計測に来ており、様子をのぞきにくることになってい たが、意外に早く終わってしまい、到着したのは片づけたあと、写真を撮っている時でした。解散後、天満橋で飲み会。

槇尾川沿いの水利

◆大学院演習でちょっとしゃべれということになり、これまで作ってきた図をがっちゃんこして、 理解しているところを説明。しかし、池田下・芦部・伯太、今年の肥子も含め、現地調査時の元図もあるとはいえ、記憶はあやしく、正確な現状認識がちゃんとできているかといえば、できていない。たとえば写真も撮ってきてはいるが、どこのポイントがどの写真ということを含め、正式な調査報告書にまとめ上げる、という作業をやっとかないといけない。その都度の合同調査時の時点でしっかりまとめておく、というのは大前提。ある時点からは『市大日本史』にまとめの図が掲載されるようになってはいるが、こちらが手を入れたものもあるが、担当班の図をそのまま載せている場合、線や面の網などの関係で実はよくわからなかったりする。自分の資料を取りだしても、歩いて確認した線なのか、絵図なのか、地籍図なのか、聞き取りなのか、よくわからなくなる。
◆近世の人に、村の絵図や水利争論の図があるかどうかは、もうひとつ次の時点で突き合わせるとして、まずは再度、現地をぜんぶ歩いて、池田の一ノ井からすべて系統的に踏破し、必要な写真を残し、やり直したいところである。おおよそはわかっているのだが、決定版の図を作ろうとすると、あいまいな部分、未確認の部分などが出てくる。完全とはいえないとしても、そして現代の付け替えはあるにしても、ともあれ現状はこうだ、という決定版までいかないと、認識のレベルがもうひとつアップしないと感じる。さて・・・、来年、前期にでも授業で・・・。
◆もひとついうと、こういう作業は、古墳時代後期、古代の理解にかかわっている。そして、ということはその後の歴史を通して、地域社会の骨格として決定的に必要なのだと思う。が、いずれ手遅れになるだろう。タンボが少なくなっても、1枚あるだけでも用水はなかなかつぶれない、という面もある。が、いつまでもそうではないし、見えなくなり、付け替えられ、なくなり、と。そして肥子でもそうだが、水利組合はもうなく、伝えられてきた水利関係資料はどこにいったかわからなくなっている。歴史地理のものを読んでいると、図が載っていたりするが、概して図が小さい。誰かが既に同じような作業をやっている地域もあるわけだが、元データがなにで、どこまでのことをやってできあがった図か、そこまではわからない。『和泉郡の条里』のレベルで(1/8000)、まとめあげ、のちのち参照してもらえるものを。河内の平野でもどこでも、これは文化財の仕事だと思うんですけどね。水利調査といえば、荘園調査が行われた特定地域しか、こうしたものは作成されにくい。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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