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人を幸せにする人になろう

淡路見学会(2)北部九州の脅威

◆淡路SAに9:30の5分前に到着。全員、ちゃんといる。天気は、朝、大雨が降っていたが、 すっかり快晴。五色塚をのぞんだあと、三原までまっしぐら。まず、今度、銅鐸が出たという慶野松原に行く。出土地点そのものはわからず、海岸からやや内に入った平地らしいが、浜辺に出る。駐車場は車でいっぱい。バーベキュー客が多そう。海岸に出ると、正面には小豆島、すこし右手に家島が見える。東部瀬戸内が広がる。木曜日に、Tさんの見解について議論した。中期末から後期初頭に高地性集落がいっぱいでき、銅鐸が埋納されるのは、イト国やナ国の脅威への危機感という。で、浜に出て、北部九州の脅威が感じられるか考えた。北部九州連合軍の3万人上陸作戦があったのだろうか。ま、ないわな。
◆淡路瓦は有名で、モニュメントはあるし、橋も瓦がふんだんにちりばめてある。石屋さんが多いのは、花崗岩の産地だから?。そして車の中からは、タマネギ・タマネギと唱える声が。
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21日の淡路見学会(1)舞子台場

◆翌日は考古の学生院生との淡路見学会。集合は淡路SAに9:30。30分ほど前に舞子に着 き、舞子台場を見に行きました。
◆前に、前日の2年先輩にヒストリアに記事を書いてもらったことがあり、内容は知っており、是非見ておこうと思った。どこだかはっきり調べてなかったが、明石海峡のいちばん狭いところだろうし、舞子の公園になっているところと適当に行くと、あった。

で20日は長尾タイ山から35年呑み会

◆太子町で、高校1期後輩のK大学Y氏が講演するのを機に呑み会が設定されており、そのため大歴の 委員会を途中で抜けて姫路に向かったのでした。集まったのは、高校の恩師、35年前の発掘の時の、当時の龍野市の担当者。そして2年先輩、1年先輩、オレ、そして講演者の1年下の4名、計6名でした。当初は4人でしたが、2年先輩のY氏と、龍野市のI氏にも声を掛け、実に楽しいひとときを過ごしたのでした。
◆色紙が用意されており、みんな名前を書き、記念品として1枚ずつ持って帰りました。写真は2次会終盤で、Y君は既に帰途についています。1次会で、6人の写真を店の人に撮ってもらわなかったことは失策ですね。次の機会がいつあるかわからないし。写真は高校時代のスクラップブックから、当時の記事です。

遠山の金さん

◆6月19日の金曜日。9:30から博学の打ち合わせ。教室会議。13:30からの教授会で、さっそく国立大学人文系見直しの話題。冒頭にあったその部分、途中から熟睡、そのあとの議論がかなりあったが、参加できず。
◆翌日20日の土曜日、14時から大歴の臨時委員会で関学。資料を作り、12時に車で杉本町を出て関学へ。早く着いたが、明日のためガソリンを入れたりしていると、大学前のパーキングがぜんぶ埋まっている。止めるところがないまま遅刻かと思ったが、1台空いて、ほぼ14時前にすべりこむ。大会議案の検討、大会の準備にかかわる話で2時間近く。委員会は続くも、15:50に、次の予定のため、先に抜ける。16時に出て、17:30に加古川に着き、車を置き、姫路へ向かう。
◆で、慰安婦問題の声明に対し、大歴にも抗議のメールがいくつか来る。これそのものは15日の委員会の時に紹介があった。「証拠を出せ」、「証拠を出してもらおう」。どこかで聞いたことはないですか。「証拠、証拠と、ウルセエンダヨ、このやろー」。そしてズズイと前ににじり出て、「うぬら、まさか見忘れたとは言わせねーぞ」、と。そう遠山の金さんです。強制性どころか、慰安婦問題そのものがなかったかのような言論が、実に影響力をもっている。それに対し、これまでの研究で明らかだ、ではダメなんだろうと、思うわけです。最低、基本文献を列挙してもよかったのではないか。そして、金さんのごとく、こうだ、と、ギャフンと黙らせることができないものか。是非、そうしてほしいもの。なので、声明は声明として短く主張をすればよいが、それに加えて、そこそこのボリュームの反対論を添付すべきではないか。

蘇鉄

◆離宮八幡宮にあった蘇鉄。新しい葉がのび、くるくる巻いた状態の姿がならぶ。

山崎を歩く

◆とはいえ時間は限られていて、さっとだった。離宮八幡、国境、駅家跡など。離宮八幡には、油 祖像なるものがあった。で、山城/摂津の国境。こないだ備前と備中で見 たのとほぼ同じ石の標柱がある。江戸時代に統一的に立てさせたのですかね。ここでもまた小河川というのか溝が国境である。
◆京都駅に出て、昼飯、というより飲み屋で呑み・・・、西大寺に向かう。14時から16:30。17時頃から、西大寺でえんえんと呑み会。ついつい飲み過ぎる年数回の委員会後の懇親会である。今回もまた、八木から準急に乗るも、八尾まで行き、引き返したら関屋、そして家に帰り着く。ふとんに倒れ、朝まで同じ格好だった。翌日またまたアルコールで頭がしんどかったが、無事、懸案である大阪の歴史演習、大歴の委員会をこなす。
◆しかし、いろいろ整理すると、あれやこれや、やることが多いことに愕然とする。日々、その日暮らしで、毎週毎週なんとか乗り切っているが、7月にかけて仕事が山積。あんまり呑んでいる場合ではないですね。が、土曜日は姫路で高校時代の恩師とクラブの先輩や後輩(4学年)と呑む予定が入っております。

2015年6月14日、大山崎山荘

◆午後から条里制研の委員会がある。前々日、一人で酔っぱらい、前日の土曜日は丸1日あったの に、二日酔いで能率悪く、岩屋山の墳丘復元などをやってつぶしてしま い、非効率なこと。大歴の大会議案をまとめてないし、大阪の歴史演習の個別相談の準備もやってないし、朝だけでも仕事に行こうかと思っていたが、まあなんとかなるさで、大山崎山荘に行く。1週間前に新聞に出ていて、来客も多かった。前に乙訓の見学会で資料館に立ち寄ったとき、ランの画譜の原画が展示してあり、学芸員の方に丁寧に説明いただいて、前から行きたいとは思っていた。また、山崎は見所がたくさんあるが、前の見学会の時は雨で、車から降りて町歩きはしなかったし。
◆ということで、JR山崎に降り立つ。踏切で、てっちゃんが5人ほどカメラをならべている。山を上 がっていき、山荘に入り、美術館を見学する。900円。保存問題の経緯も知 る。美術品はモネの絵があるのと、あとは陶器だが、まあさっと見て、デッキでビール。天気が良ければ、正面に男山があり、3河川が合流し、南山城が見晴らせるが、どんより。

2015年6月17日

◆朝、伏見に行き、現場を見る。オヨヨ、SK大N氏、H市S氏、K市K氏がおられた。帰ってきて、博 学WGの会合。そこから、今日は何かするのでなく、ひたすら片付けを、 と。とはいえ、資料を片づけていると、なんかやってみたくなり、脱線気味。土曜日がだいたい1週間の片づけの日になるが、そこが行事等でつぶれると、平日の乱雑さが解消されないまま次の週へ。片づける前の研究室の惨状です。
【追記】記者発表があり新聞報道されました。金箔瓦でなく、石垣の写真が出ないもんですかね。それと指月城の全体推定の上での今回の位置を示すような図。

尾上車山

◆いわゆるギリギリ山です。岡山市マイブンセンターの紀要を送っていただきました。若き同志が 測量調査をやってくれています。うれしいですね。話は前に聞いていた。図面を見ると、そして形象埴輪があるというので、渋谷かなと。でやってみました。1000分の1にして、渋谷の既存が2000分の1で重ねると、そのままいける。ちょうど1/2ということですね。
◆改変はあるが、前方部の2段分は説明可能というか、あてはまっているように見え、後円部についても、渋谷のテラスに相当する部位に、ちゃんと平坦面もありそうに見えます。どうでしょうか。

依羅池の機能

◆もうさんざん明らかにされているのかもしれませんが、読んだことはありません。大阪の歴史演 習というので、社会人で住吉区のガイドをされている方がおり、セミプロみたいな人です。その方が依羅池のことを調べており、聞かれても、むこうの方が勉強していて、答えられないという悲しい現実。が、7世紀の開発とか、この地域の条里ともかかわり、関心はある。で、そこに大阪市立大学も乗っている。我孫子の台地。タンボにはしにくい。で台地上で地形がよくわからん。
◆いつも使う大阪府1961は、大阪市域のこのへんは区画整理がされてしまっていて、条里は消えている。やはり明治の仮製図に立ち戻る。この地図、等高線をかなり明瞭に入れてくれているので、それをなぞり、色20%乗算で重ねて高まりを表現する。それと水田域が明示されているので、それを緑でと。
◆こうして考えると、よさみ池は、西除川の西側、赤の破線のところに水路を通さないと、その間は耕地化できません(灌漑域A、上)。それと、池から細江川につながる部分の水田域(B)。メインはAの方かと思う。西除川自身もつけかえている可能性があると思いますが、そういうことが言われているかどうかは不明。が地形的には、西除川の東側に谷筋が入るので、本来であれば、そこを流れているのだろうと。それをやや西に振った可能性はあるように思います。しかしそれだけではまだダメで、A域を灌漑するには、西除川の上流部からさらに高いところに水を引き、よさみ池を作り、そこから水路を引かないとAは無理。A域を灌漑するために、よさみ池を作ったのかな、と。まあ、そんな風に思います。
◆西除川から水路をさらに西に引き、池に引水していることはわかるのだが、池から出て行く水の水路については、神社蔵の絵図には表されていない。しかも大和川が18世紀初頭に付け替えられ、新大和川下流側の水利は一新され、西除川筋の水利も、村が離脱していくとのことで、大和川付け替え以前の水利関係は、江戸時代の中で不明瞭になってしまっているのかもしれません。とにかく、よさみ池、近世史の問題でもあるが、古代史の話である。崇神朝に書いてあっても推古朝がほんまだろうと、そういう議論はあるけれども、で実際に何を目的にして造営されたのか、そういう話はこうした作業をしないとわからないのである。がしかし、近世に改変されているので、それ以前の姿を復元するのも一苦労。けっこう読まないといけないし。まだ序の口。が、基本的機能の骨格はこれでいいのではないか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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