人を幸せにする人になろう

植民地用語のオンパレード

◆まずシラバス。授業計画でなんで悪い。
◆コンプライアンス。法令遵守。
◆ガバナンス(文部省はじめ役所の好きな好きな言葉)学内「統治」?。
◆アドミッションポリシー。これはなんだっけか、どういう入学者を求めるか、というやつだっけか。
◆ディプロマポリシー。組織としての教育理念、みたいなもん?。
◆ステークホルダー。もとは金銭的利害関係者のことらしい、株主とか。大学で言うというと誰やねん。そんな言葉を使わなあかんのか。このステークホルダーと大学で検索すれば、わが社がでるらしい。
◆インターンシップ
◆うちは関係ないけどリメディアルというのがあるそうな(高校卒業能力を確保するための大学が押しつけられている補習)。
◆エビデンス(成績の根拠となる原資料)
◆シナジー効果 なんやそれ

もひとつ

◆もひとつ重要なことを忘れていた。日本の都城の最大の特徴は、朝堂院にあるということ。中国ではもっとシステムが早くからできあがり、中書省と門下省、そして官衙があればいいのでしょう。だけれども日本では、それ以前の口頭伝達行為、あるいは合議体制の名残というのか、あるいは(王墓と同様に)大王権威を見せつけることがまだ必要だったのか、本格的宮殿を建設しようという際に、朝堂院を付設することになったという点が、古墳時代から律令制に移行する際の、日本的変容として、とても面白いことなんだろうと、思った次第。

貧困率

◆新聞に載っていたデータ、先進20か国で下から4位だそうです。1人あたりのGDPが左、1人あた りの所得を真ん中に、そして子供の貧困率を右に配列してみました。GDPは9番目だが所得になると16番目になるということは、分配が偏っているんでしょうね。で所得と子供の貧困率はトントン。とはいえ、この日本の貧困率は年々悪化してきたわけだから、もとは、所得はそのくらいでも、そうでもなかったものが、厳しくなってきているわけだ。
◆本文を読むと、これが母子家庭の増加、女性の所得の低さというところに主たる原因があるらしい。これもまた、雇用の問題、所得格差、女性の地位の低さということになる。

雑用が多すぎるぅぅぅぅぅぅぅ!

◆18時から4時間さあやるぞと思いきや、メールをチェックするとそうはさせてはくれません。あのデータはどこやったかいな。調査票を出して、この返事して、と時間は過ぎていきました。

思いつきですが

◆授業で都城の本を読んでいるのですが、宮の構造の変遷なんてまったくの門外漢。が、まあ平城宮を掘っていた経験からの知識くらいはある。本題はさておき、前期難波宮の内裏前殿をなぜ大極殿とよばないんでしょうか。それがわたしには理解できません。おそらく文献で大極殿という名前が出てこないからでしょうか。浄御原宮からだと。あるいは藤原だと。が、藤原大極殿に対し、前期難波宮を内裏前殿とよぶ理由はとくにない。内裏前殿→大極殿という変化を示すために、内裏前殿とよぶのかもしれないが、前期の南の部分が朝堂院なら、正殿たる内裏前殿は大極殿とよぶべきで、そのなかでのあり方の変化をたどるのが実際的である。16朝堂の成立とセットであり、それ以前の王宮から飛躍した難波宮こそ、大極殿成立の画期である。朝堂院といった名前だって記録に現れるのは後のことで、だけど平城のものを朝堂院とよびますよね。それなら内裏前殿は形態・機能から大極殿とその時点から学問的にはよび、殿舎の名前としての大極殿はこれこれが初出である、という説明の方が適している、と思う。
◆で本題。今日の履修生の報告で、平城の中央区・東区について、ふと、これ政祭分権王制と結びつくのではないか、と思ったのである。政務の場である東区に対し、(長安含元殿の話はよくわからなかったが)、中央区の4朝堂をもつあんなものを伴うもう1セットを平城で設ける理由がわからんわけです。即位や元日朝賀という儀礼の場である中央区、それはかつての国家的祭礼と統治という別機能を2人が担っていたことと、なにか通じるように思われてならない。どんなもんでしょうか。

理系のリーフレット

◆土曜日に仕上げて印刷屋に送ったのだが、届いてませんよと。あれ~。で送り直したのが火曜 日。なぜ届いていないのか、解せない。これで数日のロスは痛い。まあ、ともあれ、今年度はなんとか前半のヤツは作った。裏表紙だけ挙げておきます。市大の樹木として履修生が取り上げた8種をキャンパスマップ周囲に配置し、上辺には、これまで撮りためてきた大学の風景写真をちりばめてみました。

播磨シリーズ赤穂(坂越)

◆土曜日は、18時で切り上げ実家へ帰る。翌日、赤穂に出かける。播磨各地をいろいろめぐりた い。城陽の全史協近畿地区研修会で赤穂市の文化財課長と久しぶりに話をしたのも背景にある。史跡整備の進められている赤穂城。内部に大石神社。討ち入りは14日?、来週である。マツケンが来るというポスターがあちこちに。
◆本丸の史跡整備の様子を見る。本丸御殿の表示を学ぶ。天守台の上の建てられることのなかった天守閣の模擬足場とイルミネーションはどうかと思うが。二の丸、三の丸、などの整備中の様子がわかる。ここも県立高校がかつて内部にあったようである。その移転で整備が本格化する。
◆歴史資料館で、塩田、赤穂城、上水などを学ぶことができる。とくに塩田ですね。勉強になりま す。鹹水を作る方法の発達ということか。昼を食べ、坂越の集落へ(城下 をゆっくりめぐるのはまた)。城が海に突き出してあり、両側の東浜と西浜が塩田。そこで作った塩は、坂越の港へ運ばれ出荷される。その港町のまちなみがなかなかよい。さびれているわけでなく、いまもカキなどを食べさせて客も多く、民家に空き家は少ないよう。会所の建物、別のまちなみ館として開放されている建物のほか、酒屋が大きく、内部でイベントをやっていた。フリマ、試飲、その他、なかなかよかった。また、この酒屋の蔵?が民俗資料館として開放されている。夕方からの予定があるため、焼カキを食っている暇はなかったが。

12月6日

◆朝から雑用を猛スピードで片付けて、いま15時。理系のリーフの仕上げにかかろう。とはいえ、今日は18時までしかおれない。完成するでしょうか。なんとかやっつけた。1730。さて、河内の条里図をやるか、帰るか・・・。

黒江漆器

◆知らんかった。以下、ウィキ。

 紀州漆器は、和歌山県に伝わる伝統工芸品の一つであり、経済産業大臣指定伝統的工芸品。会津漆器、輪島塗・山中漆器などとともに全国三大産地の一つと言われる。主な産地は海南市黒江であり、室町~戦国時代に近江系の木地師集団が定着し、紀州桧を木地に木の椀を製造したのが始まり。一部では根来寺の職人が豊臣秀吉による根来寺焼き討ち後に黒江湊に移住したという説もあるが、定かではない。
 明治維新の後、廃藩置県で紀州藩の保護を失ったが、明治3年(1870年)に元紀州藩の木村友重(南友重)が漆職人を束ねて漆製品を生産し、南家の船で本格的な貿易を開始したことによって次第に活気を取り戻し、明治12年(1879年)には他府県産の沈金彫の技術を導入した。また、明治31年(1898年)には京都府より蒔絵師を招いて、蒔絵の改良を図った。
 その後、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案された紀州漆器は特長を一段と発揮させ、昭和53年(1978年)には通商産業省より伝統的工芸品に指定されている。
 主産地である海南市黒江には、漆塗りの体験ができる店や紀州漆器伝統産業会館(うるわし館)などの観光施設があり、団体旅行客も多く訪れる。また、毎年11月に漆器市としては西日本随一の規模と観光客動員数を誇る『紀州漆器まつり』が行われ、2日間で全国から5万~7万人が訪れる一大イベントとなっている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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