人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
また呑んだくれ
◆日曜日に、条里制研究会の委員会があり、午前中は和泉市史を書き、昼からナブンケンに出かける。きっと呑むことになるだろうとは思っておりました。会議は14時から2時間で終了しましたが、オプション議題で編集の方だけ残って議論してましたが、その間、おれは待機。で小一時間で終了、西大寺で、会長、事務局長、編集担当、時期事務局長と、5人で17時前から飲み始め、またまた、とても楽しいもんでついつい飲み過ぎ・・・。
◆南下し、八木で乗り換えたんだけど、覚えていない。難波方面の急行か、普通か、まったく記憶になく、気がついたら、どこかの駅で、やばい乗り過ごしたと降りる。でもどうやらその駅どまりの車両だったよう。ここはどこ、国分まで帰る電車はまだあるのか、と朦朧と考えている。そこへ駅員さんが寄ってきて、酔っぱらいを捌きにやってきた。どう言ったか覚えてないが、もう電車はないといったのかな。しゃーない、体を起こし、階段を上がる。で、改札で駅名を見ると、河内国分だった。
◆家にたどりつき、ドアを開け、廊下を進み、そこで倒れて4時まで寝てました。
◆南下し、八木で乗り換えたんだけど、覚えていない。難波方面の急行か、普通か、まったく記憶になく、気がついたら、どこかの駅で、やばい乗り過ごしたと降りる。でもどうやらその駅どまりの車両だったよう。ここはどこ、国分まで帰る電車はまだあるのか、と朦朧と考えている。そこへ駅員さんが寄ってきて、酔っぱらいを捌きにやってきた。どう言ったか覚えてないが、もう電車はないといったのかな。しゃーない、体を起こし、階段を上がる。で、改札で駅名を見ると、河内国分だった。
◆家にたどりつき、ドアを開け、廊下を進み、そこで倒れて4時まで寝てました。
根使主はどこにいたのか
◆で、合宿中、空き時間に和泉市史を書いておりました。中日の昼に会議が行われ、このままでは3月に出ない、出してない者は責任感がなさすぎる、みたいなきつ~いやりとりもあり、出していない者の一人として神妙に聞いておりました。
◆でまあ書くことは、信太地域を中心としつつ、和泉の古墳時代をどう捉えていくか、これまで10年以上にわたって、だんだん形成されてきたイメージを顕在化させるという作業になる。
◆で、根使主を考えているわけです。それとからんで淡輪をどう考えるかも。帰ってきた翌日の土曜日に、だいたいはイメージを固めました。〆切は10月9日に延びましたが、会議で、9月中にアラアラ書く、といったもんで、今日・明日でひととおりの分量書いてみようと思います。ワープロA4で14枚くらいだったと思うのですが、9頁分くらいまで来ました。
◆根使主事件は、要するに履中系から允恭系への転換の和泉における局面でいいと思うが、より具体的にどこまで書けるか、が課題です。
◆でまあ書くことは、信太地域を中心としつつ、和泉の古墳時代をどう捉えていくか、これまで10年以上にわたって、だんだん形成されてきたイメージを顕在化させるという作業になる。
◆で、根使主を考えているわけです。それとからんで淡輪をどう考えるかも。帰ってきた翌日の土曜日に、だいたいはイメージを固めました。〆切は10月9日に延びましたが、会議で、9月中にアラアラ書く、といったもんで、今日・明日でひととおりの分量書いてみようと思います。ワープロA4で14枚くらいだったと思うのですが、9頁分くらいまで来ました。
◆根使主事件は、要するに履中系から允恭系への転換の和泉における局面でいいと思うが、より具体的にどこまで書けるか、が課題です。
太田井
◆2泊3日の合宿、1日目は2時まで、2日目は3時?、もっと、呑んでいました。呑んでばかりじゃないですよ。19:30からみっちり2時間のミーティング、6班の報告と質疑があり、終了すると呑み会に移行する。だいたい22時くらいから。
◆サバティカルで授業をもってないもんで、新2回生の顔も名前もわからん。で、この呑み会で3人を覚えた。3回生とも話はできたし。泥のように眠り、最終日、合宿所の掃除があり、早めに起きてという総務統括の勧告にもかかわらず、みなが飯を食い終わる頃、ようやく食堂までたどりつき、飯を食う気にもならずオカズをかき込む。でも3日目、使い物にならないというわけでもなく、起きてましたよ。
◆この調査で太田井水利はちゃんとわかった。坂本氏が掘り、推古朝のマエツギミ糠手も見たであろう太田井である。だいたい歩いた。昨年の課題、伯太の水はどこから来ているのかについても、目処をつけた。山の溜め池らしい。
◆サバティカルで授業をもってないもんで、新2回生の顔も名前もわからん。で、この呑み会で3人を覚えた。3回生とも話はできたし。泥のように眠り、最終日、合宿所の掃除があり、早めに起きてという総務統括の勧告にもかかわらず、みなが飯を食い終わる頃、ようやく食堂までたどりつき、飯を食う気にもならずオカズをかき込む。でも3日目、使い物にならないというわけでもなく、起きてましたよ。
◆この調査で太田井水利はちゃんとわかった。坂本氏が掘り、推古朝のマエツギミ糠手も見たであろう太田井である。だいたい歩いた。昨年の課題、伯太の水はどこから来ているのかについても、目処をつけた。山の溜め池らしい。
和泉市合宿 芦部町
◆秋分の日あけ、24・25・26日は和泉市合宿でした。今年は今在家村、戦後、名称を芦部町に変更
した村。古代坂本郷。根使主後裔が6世紀に開発した中心部である。古代坂本郷は槇尾川の南にも広がるが、槇尾川北岸は信太山丘陵を背後にした東西に細長い場所。西は上條郷(府中)、東は池田郷。条里大区画36町のちょうど3単位分がならぶ。
◆話は変わるが、条里。坪並みの番号があるから初めて大区画を線引きすることができる。もし坪名の残存地名がなかったら、109mスクエアがえんえんと続き、区切りがあるように見えない。問題意識としては、条里が施工された7世紀後半に、大区画があったのか、という問題。結論はあった。中国のせんぱく制には、いくつかのククリがあり、畦や溝の大きさを差をつけて決めてある。当然、それを学ぶだろう。発掘遺構でも大畦畔はある。そして、和泉平野の郷は、たいがい大区画を基準に区切っている。言いたいことは、109m区画がある、そこに○条とか○里といった数詞をあてる時に、どこで区切ろうかというものではなく、施工時点である、ということだ。これ、考えてみれば、未証明じゃないかと思うのだ。
◆話を戻し、坂本郷の槇尾川北岸には3区画がある。とはいえ、川まで狭いので、6町の奥行きはないのだが。で、芦部町、近世村今在家村の村境は、この3区画のちょうど真ん中の大区画なのである。う~む。におう。
◆今在家村ができたのは、その名の通り新しいそう。中世後期、16世紀くらいまでしか、しかも伝承でしかさかのぼれない。が、条里大区画の3単位が、なんらかの生産単位であったというのは、これ中世とかの話ではないだろうと思うのだ。古代ちゃう?。岸和田市史を読んでいると、36町すなわち固有名里をひとつの単位として村がある、というのは、歴史地理では前々から言われているようで、そんなことが書いてあり、岸和田の村のあるところは、それに見合うというような話だった。芦部町でそんなことを考えました。
◆話は変わるが、条里。坪並みの番号があるから初めて大区画を線引きすることができる。もし坪名の残存地名がなかったら、109mスクエアがえんえんと続き、区切りがあるように見えない。問題意識としては、条里が施工された7世紀後半に、大区画があったのか、という問題。結論はあった。中国のせんぱく制には、いくつかのククリがあり、畦や溝の大きさを差をつけて決めてある。当然、それを学ぶだろう。発掘遺構でも大畦畔はある。そして、和泉平野の郷は、たいがい大区画を基準に区切っている。言いたいことは、109m区画がある、そこに○条とか○里といった数詞をあてる時に、どこで区切ろうかというものではなく、施工時点である、ということだ。これ、考えてみれば、未証明じゃないかと思うのだ。
◆話を戻し、坂本郷の槇尾川北岸には3区画がある。とはいえ、川まで狭いので、6町の奥行きはないのだが。で、芦部町、近世村今在家村の村境は、この3区画のちょうど真ん中の大区画なのである。う~む。におう。
◆今在家村ができたのは、その名の通り新しいそう。中世後期、16世紀くらいまでしか、しかも伝承でしかさかのぼれない。が、条里大区画の3単位が、なんらかの生産単位であったというのは、これ中世とかの話ではないだろうと思うのだ。古代ちゃう?。岸和田市史を読んでいると、36町すなわち固有名里をひとつの単位として村がある、というのは、歴史地理では前々から言われているようで、そんなことが書いてあり、岸和田の村のあるところは、それに見合うというような話だった。芦部町でそんなことを考えました。
2014年9月17日、博論出す
◆なかなかブログを書くという社会復帰が果たせません。表題の通り、お認めいただいて、提出してきました。ますたにでラーメンを食べる(京都駅にも店舗を出したそうな)。そのあと、条里制研究をひたすら書いていますが未完。そうこうするうちに和泉市史、どないあっても26日で切る、と・・・。とほほです。条里制研究は中断し、26日までひたすら和泉市史ですな。それで終わるとは思えませんが、8割くらいまで行けば、なんとか押し込めるか。
サンクトペテルブルクにむかう
◆日本時間6日22'50.エミレーツでドバイ経由。ではまた。
鳥取の旅(1)
◆8月の2日と3日に考古の見学旅行で鳥取に出向きました。前日の夜に入り、鳥取市内で一泊。うち
の近現代史の修士課程を出て、いま県の公文書館に勤めているTさんに連絡を取り、一緒に飲み屋に入る。その写真は撮っていないか・・・、残念。鳥取の魚をあてに、おいしい日本酒をいただきました。岩牡蠣は立派ですね。1個1000円。焼いてもらいました。
◆翌朝、まず東に向かい、新井三嶋谷墳丘墓に行きました。後期でも早い時期の大型方墳だったか。実は2000年度、調査しているとき、声がかかり委員をやっていました。それにもとづき保存され、整備されたわけですが、調査時以来、初めてでした。ちょっとくたびれています。川があり、河口部に小さな平野が広がる一画ですが、こうした墳丘墓、これ貼石墓系なのかな、広島の山奥から丹後まで、点々と広がることは意味深長なように思います。
◆翌朝、まず東に向かい、新井三嶋谷墳丘墓に行きました。後期でも早い時期の大型方墳だったか。実は2000年度、調査しているとき、声がかかり委員をやっていました。それにもとづき保存され、整備されたわけですが、調査時以来、初めてでした。ちょっとくたびれています。川があり、河口部に小さな平野が広がる一画ですが、こうした墳丘墓、これ貼石墓系なのかな、広島の山奥から丹後まで、点々と広がることは意味深長なように思います。
7月28日長岡京市恵解山古墳史跡整備、最後の委員会
◆表記の通り。何年からのおつきあいになるのかな。途中からだが、それでもけっこう長かった。
かなり徹底して調査し、確かな復元案を得て、またそれをどう整備するかについても十分議論し、いろんな意味で、根拠をもって説明できる確かな整備ができた。こうした大事業をやり通した関係者の方々に経緯を表したい。乙訓は、いろんな遺跡がいっぱいあって、遺跡見学者も多いだろう。そのなかに、こうした中期の乙訓最大の前方後円墳が復元されたことは、長岡京市にとどまらない乙訓の財産となる。学問的にいえば、大仙型ともみてきたが、調査の結果、上石津ミサンザイ型で、やはり中期前半の大型古墳は、ミサンザイ型ないし誉田御廟山型が圧倒していることを認識させられる。あとクリアできないのは芭蕉塚なのだが。
◆そして、最後に、前に全史協近畿地区研修会でしゃべったことも話をした。いかに活用するか、という課題です。それぞれの地域の特性のなかで智恵を出さないといけないが、乙訓くらいの範囲で、史跡を活かしていくNPOなんかが立ち上げられればいちばんいいんだろうと思う。草引きなんかも、市民参加で毎年の恒例行事にすればいいと思っている。
◆そして、最後に、前に全史協近畿地区研修会でしゃべったことも話をした。いかに活用するか、という課題です。それぞれの地域の特性のなかで智恵を出さないといけないが、乙訓くらいの範囲で、史跡を活かしていくNPOなんかが立ち上げられればいちばんいいんだろうと思う。草引きなんかも、市民参加で毎年の恒例行事にすればいいと思っている。
社会復帰
◆1週間ほどドロンしておりました。和泉市史と条里制の原稿もあるのですが、まずは博論の書き直しです。来年の考古学研究大会の報告の話をいただき、引き受けることにしました。れきはくの古墳時代共同研究の原稿とどう住み分けるか、なにかとありますが、まあ、ぼちぼちでんな。
博論めどがつく
◆2014年8月5日、なんとか終わりました。自分としては・・・。4年あまりの営為も、これでなんとかなりそうか。でもまだ、いろいろ直しの指示があるだろう。まだ提出にこぎつけるまでは気を抜けないが、この仕事で先延ばしになってきた調査に研究を起動していく。
【追記】いくつか指示をいただき、直しております。
【追記】いくつか指示をいただき、直しております。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。