人を幸せにする人になろう

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(4)

◆天理市に入る。庵治町。稲が育っている。そのむこうに集落。なんとなく見たことがあるような情景、デジャブ。単に集落があり、その南にタンボが広がっているというだけのことではあるのだが。そう、和泉市和気町を歩いていた時の風景を思い出していた。
◆そこを進むと、前に見た風景。そう、以前に初瀬川をさかのぼった時に到 達したところである。ゴミ焼却場や光洋の工場がある。この橋渡ったなという筋が、実は下ツ道だった。大和川を渡ると、下ツ道をはさんで、東が天理市、西が川西町。しばらくいくと二階堂。
◆写真は二階堂の村の中。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(3)

◆まあ下ツ道を歩いている人はいない。田原本の町中で1グループとすれ違ったのみだった。横大路は伊勢街 道でもあり、歩く人が多いのだが・・・。
◆田原本の本町とは別に、北に新町ができるようだが、そこにある竹村家というのが江戸期の建物なのだが、ぼろぼろで応急措置をしてあるが、手がついていない。緊急課題のようである。
◆田原本を抜け、米川を東にわたり、北上を続ける。今里に入り、杵築神社に立ち寄る。これは近かったからで、今回は北上を課題とし、脇にそれて神社等に立ち寄ることはほとんどしなかった。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(2)

◆ゴールを決めず北上する。国道24号線を横切り、橿原の市街地を抜ける。ほぼ米川がオンライ ンで北上しており、その西堤を歩く。
◆なんとなく見たことがあるようなところとなり、ここはどこやと住所表記を見ると秦庄。おや、ではO氏宅があるのではと思ったが、見あたらず。ひとつ西側に入ったところなんだろうとは思うが、そのまま北上する。前に唐古鍵Mで下ツ道ガイドマップをもらう。これはよくできたもので持って歩けるが、なくなった段階で増し刷りなし。これもったいないと思う(掲載許可の問題があるんだろう)。これ研究室にあり、もっていなかった。交流館でそのコピーをもらう。
◆次は田原本。前にも感じたが、ほんとうに田原本は、あちこちに説明板を立てている。そういう 点でとても進んでいる。田原本の町では、下ツ道というか中街道は東側を通っており、お茶でもと駅前までうろうろし、町歩きとなる。近鉄線のむこうにも鉄道があり、なんやあれというので、西田原本駅で王寺まで行けると説明する。
◆田原本は平野氏5000石の陣屋のあった町。途中、和菓子屋で「若あゆ」などを買って食べる。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(1)

◆今日は休む。どこか歩きに行こうということで、京橋から京街道を枚方までという案も浮かんだが調べていないし、下ツ道にする。8:00に家を出て、10分の急行で八木駅着、八木の辻にすぐに到着。交差点を掃除してはる方がいる、と思ったら東北角地のところが「八木の辻交流館」となっていた。
◆何年か前に横大路を歩いた時はまだできていなかったもの。9:00オープンで、まだ早かったが、どうぞということで上がり込み、丁寧に解説をしていただいた。話をしていると1時間くらい経過した。
◆2年前に住んでおられた方がお亡くなりになり、橿原市が土地を購入、建物は寄贈を受け、改修しオープンしたとのこと。八木は伝建になっているわけではないが、まちなみをアピールしていこうという活動が始まっている。

◆横大路との交差点角地の建物はベストポジション、ここを橿原市が取得したことは意義深い。ここから桜井をめざすのも、その先の伊勢をめざすのもよい、明日香に下るのでも、田原本、はたまた平城京をめざすのもよい。八木は橿原市の中心部、ターミナル駅があり便利、多くの町屋のほとんどは人が暮らしている。雰囲気はあるが空き家だらけというのではない。駅前から少し入れば、昔ながらのたたずまいが残っている。
◆貸し会場でも利用しており、畝傍高校は、毎年、カルタ大会をやるそうだ。

高遠さんの話

◆昨日、報道するラジオで高遠さんがイラクの話をしていた。戦争を放棄した日本への親日感情がかなり強い。それは幻想ではあっても、世界的に平和主義は伝わっている、そのことの重要性は計り知れない。が、サマワに自衛隊が入り、迷彩服の軍人が降り立った瞬間に、ひどい爆撃をするアメリカ軍になぜ日本は追随し、軍隊を送り込むのかと、親日が反日へと転じた、と。同盟国アメリカは、イラクが大量破壊兵器を作っていると、あとでウソだったことを理由に軍隊を送り込み、ふつうの人々をあまた殺害する、とんでもない敵国でしかない。戦争は人殺しである。そのアメリカに賛同し、軍隊を送り込んだ時、幻滅へと転じた。そして拘束される。
◆同じ時期に人道支援のためにイラクに入っていたいろんな国の人々が拘束されるが、銃を携行している人間は殺され、丸腰の人は解放されている。これも象徴的。自衛隊は使わないことが原則でも武装して降り立った、その瞬間に標的になるのである。丸腰がいかに大切か、それすなわち、なにかあったら自分たちを撃つ人間なのか、そうでないのかという判断はそこにあるわけだ。「正義」とか、国際貢献(いやアメリカ追随)というタテマエはあれ、いざとなったら自分たちを撃つ側なのか、難民たちの生活を支える支援に来てくれている人なのか、それが対応を決める。
◆サダムフセイン時代は政教分離が進み、スンニ派とシーア派の対立はない。それがほんの2006年くらいまで、民衆はみなそう言っていた。両者の夫婦も珍しくはないと。それがいまは憎しみに変わった。それはシーア派政権が作った反テロ法という、礼状なしで拘束できる法律により、スンニ派の宗教的指導者が惨殺され、1日に70人から100人くらいが拘束され、多くが殺害される。それがついに、融和的だった、事実なかった宗教対立を新たに作り出す。もはや戻れないであろう。
◆元凶は、シーア派政権とそれを支えたアメリカなのだろう。なぜか、いろんな理由が言われているらしいが、結論は言えない、わからないというのが真相らしい。しかしまあ、スンニ派だったサダムフセイン政権を打倒した以上、中心勢力はシーア派になるのだろうし、諸民族の参加した国づくりはタテマエであって、それに乗じて勢力を拡大しようという民衆とは遊離したシーア派政権派と、アメリカが結託しているのであろう。広瀬隆的な類推をすれば、平和になれば困るのであろう、対立を作り出し、武器を売って儲けたい側の思惑が働いているのであろう。
◆卑弥呼共立はもはやないのだろう。分裂するしかないか。

日本考古学への遺言

◆山中先生の意向で、『異貌』2冊が送られてきた。30号に書いたものがあり、これは昨年刊行され ていたのだが、31号に亡くなる2ヶ月前に書いた表題のものが掲載予定で、刊行されたら、2冊を卒業生等に送るように指示していたらしい。
◆昨日、行き帰りで読んでいました。先行研究を無視する者は研究者として失格にせよ、というのが結論である。

7月3日全史協近畿地区協議会総会

◆午前は研究会。東海地域の集落遺跡研究についての院生の発表。12:30がリミット。城陽に出かけ る。傘を取りに戻り、杉本町で電車が行ってしまい、13:00近くになる。い つもは、車で行かない時は学研都市線で行くのだが、鶴橋から西大寺に向かう。急行の乗り継ぎもよく、なんとか15時からのしゃべりの30分前に寺田駅に降り立つ。
◆40分ではやはり終わらず45分くらいにはなったが、しゃべる。そのあと文化庁マイブンの調査官。いや~ちゃんとしてますわ。
◆むかし文化庁1年目で関東ブロックの研修会で静岡に行き、大知波峠廃寺をネタに山岳寺院をテーマだったとき、自分は発表するわけではないけど、冒頭で挨拶させられ、いまやっている調査研究を話し、これで終わりかと思いきや、研修会後の挨拶を振られ、まいったことがあった。こういうのも慣れなんでしょうが、最初のやつが自分のなかで記憶に残ってます。
◆17時までのところで、芝ケ原ネタでの企画展を見る。常設のところで、床の航空写真で水路を見てました。東側の山からの水路が西に配されている。興味がある。クリクマの大渠も(ちゃんと城陽市史を読んでませんが)。
◆京都駅前のホテルで懇親会。城陽市長さんが寄ってきて、市大の東洋史を出たそうで、ナカムラクンはどうしているかと聞かれ、いろいろと話をする。そのあと2次会にも行き、22:00の特急で八木まわりで帰る。

全史協近畿地区協議会

◆あした、研修会でしゃべる。安請け合いはするものではない。が、これも仕事。呼んでもらえる うちがハナ。資料をちゃんと準備することはあきらめました(すいません)。まずパワポを作ることにしする。昨日から作り始め、いま2日の13:46、いちおう終わりました。あいかわらずの111枚・・・。時間は40分。ちょっと頑張っても半分にはならんわな~。
◆ひとまずここで、資料作りに転じよう。18:00終了。
◆再びパワポに戻り、手直し。21:00。94枚か。あんまり減ってない・・・。あ~あ、日が暮れた。

6月29日大歴大会

◆朝8:45に関学集合というので、Fさんの追加史料300部刷ったものをもってでかける。会場は予定 していたところから、より大きな会場に変更されていた。投影の機器せっと、討論時のセッティング準備、マイクテスト、お客さんが次々に来場、そこそこ埋まった。
◆準備会の効果もあり、なんとか短い時間だが要領よく発表をしていただき、最後の横田先生のは少しのびたが(話はバツグンに面白い)、全体で10分オーバー程度で、おしりを10分のばして、討論をなんとか30分確保。仁木さんが要を得た質問をぶつけ、ひととおり報告者に振って答えてほぼ時間ながら、発表でははっきりしていなかった点も引き出され、とてもよかった。

6月28日れきはく研究会

◆結局は、イメージも固まらないまま・・・。金曜日の夜もがんばりはきかない、年です。当日、プリ ンタ持参で新幹線に乗り、なんとか車中でレジュメだけは最後までつくる。プリンタの調子も悪く、結局は打ち出してもらい、コピーし、なんとか・・・。
◆まあ、発表自体はあんなもん。が、やはり窮すれば通ずというのか、なんとはなく、どう攻めるか、という方針のイメージは作る。あとは実際やることですな。〆切は1年先というから、その間に、せっせと纒向型前方後円墳の勉強を続けよう。それと、やはり個別の地域に即した出現状況もやってみたいものである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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