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八戸研究会(10)遺物たちと5世紀の古墳の可能性

◆是川縄文館の紹介はまたあとで。縄文晩期の漆製品で著名な是川遺跡の一画に立派な博物館がで きあがっている。これは八戸市の埋蔵文化財センターでもある。
◆冷水遺跡の続きだが、滑石製模造品やら手ずくね土器もある。模倣杯もある、赤彩された土器もある。そこに琥珀や黒曜石がともなう。毛皮や海産物等の交易を目的とするというのが、おおよその理解なんだろう。
◆円形周溝が古墳だとすれば、5世紀の古墳が八戸にある、ということになる。検出されている円形周溝が古墳かどうかは決められないとしても、5世紀後半の倭の進出の中で、7世紀以降の末期古墳に先行する5世紀代の古墳が築かれてなんら不思議はないだろう。いずれ、確実例が見つかってくるのだろう。
◆ちなみに冷水の須恵器を、近つで須恵器の専門家が集まったところにもっていって見てもらったのだそうであるが、結論はみな陶邑じゃないと口をそろえたらしい。色が黒いと。ほんとかな~。

八戸研究会(9)田向冷水遺跡

◆5世紀中頃の竃付き竪穴住居の見つかった遺跡。熊本大のS氏は調査時に、この最北端の竃を見 にやってきたという。角塚古墳や中半入遺跡のある胆沢地方が注目されているが、ほぼ同じ頃に、さらに倭の文化は八戸まで北上しているのである。
◆このあと是川縄文館で遺物をじっくりみたが、須恵器にはTK208の杯身もある。どれもピンピンの上等の須恵器である。まだまだ須恵器がほとんど入らないのが実態で、そこに希少な須恵器が八戸の地にもたらされている。

◆この遺跡、古墳時代の遺構を囲むように方形の薬研堀の深い溝がめぐっている。各時代の遺構もあり、溝の時期は不明で、報告書では近世とか新しいのではとしたが、実際にはわからないのだという。また溝の形態は、古い時期や平安時代以降といった、この地域で見られるものに類例はないという。古墳時代の竪穴とか円形周航溝などの遺構がそっくり収まる。囲んでいる範囲は広く、 古墳時代の竪穴は段丘縁辺寄りで、同時期としても背後に広い空間があることになる。特異な溝、ほかにはない5世紀の倭的集落、結びつけたくなるところである。中半入でも居館風の溝が出ていたのではなかったか。ただ、一気に埋められたような埋没の仕方という。どう考えればいいのでしょうか。
竪穴は8~9棟くらいで、3時期。せいぜい15~20人程度の一時期3棟くらいの集団が50年間くらいとのこと。6世紀に入る頃には廃絶するという。
中半入遺跡があって、これはベースキャンプで、冷水遺跡も無関係ではありえないだろう。一連の動態のなかにあり、一定の役割をもって、さらに北の地に進出した前線基地といった意味合いが考えられる。こういうものが、ほかにも多分あるのだろう(久慈とか)。

八戸研究会(8)丹後平古墳群

◆丹後平古墳群現地。公団の八戸ニュータウンの一画に史跡指定地がある。遺構保存のため道路 より一段高く、フェンスに囲まれ、貼り芝のグランド風。とくに古墳の表示もまだなされていない。水道の事業所ビルの屋上に案内され、そこから見下ろす。むこうに太平洋が見える。

八戸研究会(7)鹿島沢古墳群

八戸で最初に発見された末期古墳群。調査は古く、埋葬施設だけを掘るような調査で、その時の 古墳がカウントされているだけだが、おそらく数十基規模になるのだろうとのこと。
◆現状は道路が通り分断されてはいるが、かつて調査された箇所を含む一画が、東北電力の用地で残されている。指定史跡になっているわけではない。東北大のF氏は、レーダーをやってみようとのこと。丹後平古墳群と同じならびの丘陵上だが、より平野に近い地点にあり、7世紀初頭?にさかのぼるのだという。丹後平古墳群を残した集団とは別で重なるんでしょうか。

八戸研究会(6)八戸市について

◆八戸市の概要、ウィキ。

八戸市は南部地方の中心都市であり、人口は23万人、八戸都市圏は約33万人の人口を擁する。ま た商圏は隣接する岩手県北東部に及び、商圏人口は東北地方有数の約60万人を誇る。港町と工業都市の2つの性格を併せ持った街である。2002年12月に東北新幹線が八戸駅まで延伸開業し、東京駅まで最短2時間56分で結ばれた。『氷都八戸』八戸市はスケート、アイスホッケーが盛んで実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め加盟登録数は60チームにのぼる。B-1グランプリ発祥の地。南部煎餅・せんべい汁・いちご煮など八戸発祥料理がある。

八戸研究会(5)八戸市博物館

◆お昼、ちゃんこ屋?に入る。で八戸に向かう。
◆根城の入り口に八戸市博物館がある(たぶん前に一度来ている)。丹後 平古墳群の遺物、例の獅噛環頭などがある。丹後平でも、7・8世紀と9世紀で差があるらしく、7・8世紀は埋葬施設を作ってから墳丘を盛り、現状は平らになってしまっていても、周溝だけでなく埋葬施設が残っている。が、9世紀のものでは、すべて埋葬施設が飛んでいるのだとか。墳丘を造ってから埋葬施設を掘り込むらしい。なんでこういう変化が起きるのでしょうね。
◆それと翌日の研究報告では、8末から9世紀前半は竪穴の数が減り、9世紀後半になると一挙に数を増やし安定的に推移するという。やはり38年戦争の影響なのだろうか。5世紀後半の第一波、78の第二波、9世紀後半以降の第三波があるらしい。古墳はなお続くが、埋葬施設のあり方が変わるらしい。埋葬施設の構造も変化するのか、それはわからないが。
◆先を急ぐため、博物館の滞在時間は短かった。根城の遺物を見かかったところで退室。

八戸研究会(4)微妙な凸と凹

◆竪穴住居が窪みで残っているという。北海道の常呂が有名だが、ここでも点々とあるのだそうで ある。地図では、右に古墳群があるが、左手の赤印がそれである。
◆実際に見たいという要望が強く、一箇所、見れる場所に案内いただく。
50㎝程度のクレーターが確かにある。
◆奥入瀬川に面する台地上に、集落遺跡がならぶという。なかでも中野平遺跡が大規模なものらしい。古墳だけでなく、集落とセットで、7・8世紀以降の様相が捉えられるようになっているわけだ。

◆表題は、古墳の凸50㎝、竪穴住居の凹50㎝、という意味です。

八戸研究会(3)阿光坊てづくり古墳館

◆ひきかえして手づくり古墳館に。もとコンビニ、そこに地元の協力で、ほんとうに手作りで、予算 40万円で資料館を作りあげたという。
◆土師器系土器、竈、玉、須恵器、むろん大
刀、馬具・・・。そして米。7世紀の中頃~とか。つい38年戦争までは、文化的境界は多賀城と胆沢地方の間か、と思ってしまうが、そんなことは全然ない。もっともっと早くに倭の文化は八戸におよんでいる。8世紀には津軽地方にも及ぶのだそうだ。
◆ただしこの施設、常時開けているわけではないようだ。あと、盗難が心配である。

八戸研究会(2)おいらせ町の阿光坊古墳群

◆9:00に八戸を出発する一行と、阿光坊古墳群でちょうど合流できるという計算。9:30くらいには 阿光坊古墳群に立っていたが、集合は古墳館なんだろうか現地なんだろうか、タクシーを降りるところで確認の電話をする。Fさんからおいらせ町の担当の方に電話を入れていただいたようで、古墳館に案内される。一行は八戸市がやってる現場をひとつ見てからで、到着は10時過ぎだった。天候悪く、まだ雨が落ちてこないうちにと、まず現地。
◆いわゆる末期古墳群。125基あるという。おばちゃんが勾玉を畑で採集し遺跡発見につながったという。1988年に最初の発掘が行われる。その時は下田町(合併しておいらせ町に)。が1990年までは弘前大学などに依頼したもの。オレが末期古墳をすこしかじったのは1990年代後半で、名前は知っていても、内容はほとんど知ることもなかった。町に職員を配置し自分のところで掘るようになるのが、1999年。それにより広がりをおさえ、史跡指定されたのが2007年だったか。現在は、史跡整備にむけての段階に進んでいる。
◆末期古墳は、そう大きくはなく、また周溝はかなりの角度で掘り込むもので、盛土もそこそこの コンモリ観あるものと思うが、当然に、早くに墳丘の初期流出があり、溝は埋まり、一定のなだらかな状態となり、さらに徐々に長い時間をかけて溝が埋まっていくのだろう。墳丘が畑地などになり削平されていなくとも、現状では例えば50㎝とか、1mはない高まりなのである。したがって、当然に、後世の開墾が入ればならされ、ほぼ視認できなくなる。
◆阿光坊でいれば、手前の古い時期のものは、畑地になりほぼ現状ではわからず、奥の十三森支群は山林斜面地で、そっくりと、わずかな高まりの墳丘がポコポコと残っている。間に谷地があり、墓道も検出されているという。

2013年9月16日台風18号

◆大和川が警戒水位に達し、住吉区など3区に避難勧告が出たのだったか。その時の画像です。上 が石川を北から撮影したもの。河川敷は野球グラウンドなどになっているが、そこは完全に水没し、堤斜面の水位に達している(ピントあってませんが)。
◆次いで、より横長なのが、大学近くの大和川。ここも河川敷をはるかに越えている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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