人を幸せにする人になろう

喜界島と城久遺跡(17)地下ダム

◆初日からこの話を聞かされていた。見学できるというので行ってみた。1992年12月から2004年3月までを費やした国営大規e27789a6.JPG模公共事業。高さ35mで、長さ2.3キロにわたるコンクリートの壁を地下に構築する。掘削機で穴d2765267.JPGを開け、刳り抜いて、コンクリートを流し込む。こうしてできあがったL字で囲まれる部分の石灰岩土壌のなかの水分は、遮蔽され、抜けてしまうことなく滞留する。それをポンプアップし、パイプラインで島中に水を引くというものだ。いったい総工費はいくらくらいなんだろうか。百億円オーダー?。
◆途中の数百mだけが地表からではなく、トンネルを横から抜いた上で、そこから掘削され、そのトンネルが公開されているの。
◆事務所があり、事業の紹介動画を見てから、トンネルに降りていく。なにかがあるわけではない。関係者の名前を掲げたプレートくらい。ある継ぎ目からは漏水が激しいようである。出口の階段を上がる。
◆出たところには、何だろう農産物の研究施設みたいなのがあり、その手前が、特産品の売り場、そして軽食が取れるスペースになっている。で、お茶にする。
 

喜界島と城久遺跡(16)2日目、まず俊寛僧都の墓

◆照屋さんとは何時に約束していたのだろうか。8:30だったろうか。レンタカーを松原邸に置かしてもらっているので、照屋さん3f8ec9b6.JPGが来て、出発。
◆まず町の綜合グラウンドの弓道場を入っていったところの崖面に露出しているという貝層を見に行く。貝塚といえるものなのかどうかはわからないということだった。
◆そして俊寛の墓に行く。俊寛僧都。ATOKでも「しゅんかん」と入れれば変換される。「やれ連れて行け」とかなんとか、学校時代の能?とかで見たことがある。言うまでもなく鹿ヶ谷の陰謀で流されたわけである。ところが喜界が島がどこなのか、もうひとつの別名硫黄島の方なのか、ここ喜界島なのか、未決着らしい。どちらにも銅像があるという。硫黄島の俊寛は手を差し出して助けてくれ~の姿。
◆『平家物語』で流されたところは火山島のように記述されているらしく、そこからすると硫黄島の方ということになる。それと、やはり流刑の地となっていたということも事実のようである(いつごろの話か不正確だが、12世紀ではなく、そのあとだろうが)。12世紀の遠島などまったくわからないが、死ぬだけのような場所なのか、監督できるような場所で監視するのか?。喜界島の12世紀を考えれば、要するに城久遺跡というものの存在を考えれば、こっちちゃうのか、と考えたが、簡単ではないんだろう。

喜界島と城久遺跡(15)喜界島の朝

◆疲れてはいるのだろうが、6時前には目があく。それからうつらうつらしながら、だらだらと。6時をまわり、朝ご飯の用意をしていただいている音。が、まだまだうだうだと横たわる。
◆そうそう、島一番の町の住宅地でやや明るいんだろうとは思うが、それでも満点の星であった。天の川も見える。もっと町の明かりのない暗闇に行けば、雲なく晴れわたっているので、見たこともない数の星が見えることだろう。それと、夜はすずしいのである。日中の日照りは相当なものだが、海風があり、日が落ち、暖まった空気も流れ去ると、心地よいくらいである。
◆それが、さすがに7時になると、風でカーテンがめくれ、高くなった太陽が顔に当たり、これはもう起きるしかない。
◆おはようございます!と起きてゆく。コーヒー豆をガリガリとミルで挽いている。一つ前に書いた「人のしあわせとは」というのは、いろんなことの総体なのだが、例えば、この朝のコーヒーである。挽いてあるモカブレを買ってきて、コーヒーメーカーにセット、水を入れスイッチオン、これも悪くはないものの、ウマイのはどっち、ということになる。

喜界島と城久遺跡(14)Var Nov

◆天晴の店を出て、次はバー「ノブ」。バー「ノブ」とは、M邸の夜の姿のようである。ビールやおつまみを、ご夫婦で用意いた1f37e529.JPGだき、こっちは座っていただくばかり、いやはやこんなにお世話になって恐縮である。でも、これがほんとうに楽しいのである。奥さんとは、昼間、資料館で、なぜだか邪馬台国論争と、資料館展示をめぐり、とても面白いやりとりもさせてもらい、くつろがせていただきました。
◆あんまり勝手に写真を上げるのはよくないから出しませんが、どうしてもご一緒の写真が欲しく、照屋さんに撮ってもらいました。ほんとはセルフタイマーで4人で撮りたかったのですが。そんなんで、23:30頃まで語らい(種子島のロケット打ち上げの話も)、そろそろということで横になる。
 

喜界島と城久遺跡(13)天晴

◆夜光貝はだんだん取れなくなっているらしく、保存のために取っていけない種になるかもしれないとのことだが、ここ喜界島でa6c0b52d.JPGはまだ食べることができる。刺身、天ぷら、もひとつなんだったか、島ならではの料理を注文して3e92f9f2.JPGもらい、黒糖焼酎「壱乃醸」をいただく。
◆最後は「油そうめん」。それ何?というところであるが、これぞ島の超メジャーな食べ物だそうで、例えば島から出て暮らしている者が盆に返ってくると、とにかく油そばを出して迎えるのだとか。なので、各所のスーパーに入ったが、「揖保の糸」が積んであったりする。そうめんをゆがき、そこにかける油汁(?)、その出汁をどうするか、家庭家庭で違っているのだそうである。「油そうめん」は「油そば」の親戚なんだろうな~と思いつついただく。関西人としては、そうめんといえば、水切りし、氷をちりばめ、つゆでツルツル食べるものという固定観念があり「ちょっとちゃうやろ」と思いつつ、もちろんおいしくいただく(写真なし)。

喜界島と城久遺跡(12)M邸

◆実はこの喜界島行き、計画するときは海の日で3連休であることを知らないで設定した。月・火と現場を見せてもらおうと。し337f87db.JPGかし、平日で現場が見れるのは16日だけとなり、土・日・月は丸ままリゾート休暇となる。
◆それで、この終末に奄美郡の体育大会があり、喜界島もバドミントンの会場となっている。そのため、郡の諸島から選手団ほかがやってきており、1泊目の13日のホテルが取れなかった。どうしますか、という話で、町教委のMさん宅に泊めていただけるということになっていた。結局、キャンセルも出ず、予定通り。
◆荷物を置かしていただいた後、奥様を含めて4人で天晴(あっぱれ)というところに食事に出かける。Mさんは、喜界島の前は南種子で発掘をしていたとのことで、昨年4月に採用され喜界島に居を構えたのである。平屋の、けっこうな部屋数ある1軒屋を借りており、訪ねた時は家庭菜園の水まき中であった。1泊させてもらい、都会に住む者の憧れだが、暮らしぶりのすべてが「人間のしあわせ」とはこういうものではないのか、と感じてしまう。
【追記】写真の意味はとくにありません。M邸に貼ってあったものを撮っただけです。水まきの様子の写真を撮っておけばよかったですね。
 

喜界島と城久遺跡(11)百ノ台

◆喜界島の最高点は211m。大島に比べると、高い山はなく、年に2ミリ隆起するという世界的に見ても隆起現象の顕著な島と3aec617f.JPGいう。何段かに区切られ、島の東寄りに島尻層という基盤となるものが下部にあり、あとは珊瑚礁85fec4c2.JPGが長い年月かかって形成した石灰岩が覆い、それが何段かに分かれている。圃場整備前は、とはいえ微地形がウネウネしていたんだろうなと思うが、いまはきれいに整った段状になっている。
◆百ノ台は展望台となっているところ(208m)。そしてすこし南に最高点があり、そこは旧軍のレーダー施設跡が残っている。
 

喜界島と城久遺跡(10)大規模圃場整備後の姿

◆そのあとハワイ海岸にも寄ったのち、島北側の段丘上部に上がり、圃場整備の姿を見る。北端部の圃場は、中途でややe40b4f63.JPG低くなり、北端に向かってまた高まり、そこに直線道路がついて、下ってまた上っていく雄大な景観となっている。まるで十勝平野みたい、というところである。
◆近代的農地の姿なのではあるが、それによって遺跡がかなりの規模で消失していくというのみならず、それ以前のサトウキビ畑の景観は完全に一掃されてしまうことそのものの損失も感じられてならない。本州平野部のそれで条里地割が消えてしまうというものとも異なるが、しかしピーク時2万人を越えた島の人々の生業本体であったかつての畑の景観を失うことの寂しさである。
◆とはいえ、島の存続、そのための基盤整備は島民の願いでもあるだろう。なかなかそこは相容れにくい難しさが横たわる。サトウキビ産業が、この先も、基幹産業として大丈夫かという問題があり、TPPは死活問題らしいが、しかしだからといって手を打たないわけにはいかないのだろう。この先、サトウキビと白胡麻に特化しているものから、さまざまな変化を遂げていくにしろ、圃場は取り組みやすいものであるに越したことはないし。
◆最低、記録を残す作業を一方でやっておくほかないのだろう。たとえば、事業の際の設計時に、かなり詳細な現況地形の測量図を作っているはずだ。そういう地図は実はきわめて貴重な記録になるのだが、えてして事業完了とともに処分されがちである。そして写真など。
 

喜界島と城久遺跡(9)平家上陸伝説

◆島の北端近くに壇ノ浦で負けた平氏が上陸したという浜辺があり、そういう名前がついている。別に、平家の森とよばれるとこ125104a4.JPGろや、七城跡というのがある。為朝が配流先の伊豆大島から逃れ琉球に渡り、子孫が琉球王となったという伝説もあるようだが、喜界島の平家伝説がどこまでのものかわからないが、『町誌』の伝承は具体性があり、そして12世紀という時期、城久遺跡があり、アタのなんとかという平家一門の人物が喜界島に渡っていることを考えると、一定の信憑性があるように思われる。七城跡というところは琉球大学が発掘しているらしく、竪堀風のものが見つかっているという。平家の森というところは、伝承地であって調査したわけではなさそうだが、こうした地点も、緊急調査が落ち着いた段階で、少しずつやっていけばいいのではないか。
 

喜界島と城久遺跡(8)阿伝の石垣集落

阿伝の石囲い集落。沖縄と共通し、石灰岩を積み上げた塀を屋敷のまわりにめぐらす。例えば台風の強烈な風雨から家屋effede9a.JPGそのものを守ってくれるのだろう。どこにも見られるものだが、ここ阿伝は、島の中でも、それがほぼよく残る集落として、かつての景観を見ることができる。それでも空き家になってしまっているところは、中はジャングルのようになってしまっているが、確かにずうっと石垣景観が続く。見せ物でなく、いまも現存する集落であり、観光地化していないのもよい。家屋は建て替えられていくであろうが、集落内の道路と石垣の続く景観は大事に維持してほしいもの。それが喜界町の魅力のひとつにきっとなる。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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