人を幸せにする人になろう

多久神社

◆式内社。峰山の湧田山古墳の下にある。前に岡林さんに古墳を見せてもらったときに、ここを通って山に上6601f75a.JPGがった。今日、神明山の写真を撮りに向かう途中、立ち寄った。

ゴルフ場

◆23:30。チューハイで幸せ状態。原稿なんか・・・。どうでもいいことだが、前にカミさんが言っていた主張を紹介しよう。というのも、どっかの、ソーラーパネルを並べた広大な写真を見た。それを見てのカミさんの主張。兵庫県のゴルフ場は、ソーラー発電所にしたら、というもの。
◆みなさん、衛星写真を見てください。グーグルでiいい。兵庫県だ。ミミズが匍ったようなウネウネした気持ち悪い画像が、兵庫県にはやたらとある。すごい数ですよ。国土を破壊し、ゴルフ場をアマタ建設した。これらの現在の経営状態はどんなですかね。経営的に全部が成り立っているとはとても思えない。そこでだ、コース全部、太陽電池パネルを敷き詰めてみたらどうなんだ、というもの。
◆ゴルフ場といえば妻木晩田を思い出す。京阪だ。ニュースステーションで特集が組まれ、岡村道雄さんが出た。番組では、京阪の人が顔を隠し音声を変えて?出演していた。正確じゃないので、書かない方がいいかもしれない。要するに、京阪電鉄としても、ゴルフ場がペイするとは思わないけれど、なんかのしがらみで関わることになったのかな。要は投じた資金がある程度が回収できればいいと。やりたくないけどやっている、みたいな話だったように思う。ま、すごい金なんでしょう。このニュースステーション、久米宏が「この特集、長い、短くできないのかと言ったのだけど、担当が短くなりません」といった話が冒頭にあった。このビデオ、持っているはず。VHSですけど。ま、妻木晩田は、前にも書いたかもしれないが、けっこうツライ経験だった。でも、オレみたいなぺーぺーは、ま、どうでもよい。こういった逆転史跡指定は、関係者を立てつつ、まとめあげる主任調査官の力量発揮というところ。オレなど、未知の世界です。
◆ま、酔っぱらって、書き殴っております。

丹後にいます

◆明日7日は網野銚子山の委員会なので、またまた丹後に来ています。20時に出て、2時間あまりで峰山まで到着できました。いまから、12月の講演会のテープ起こしの原稿を直し、明日は午前中、また神明山の写真を撮りに行きます。今日は、来週の某地点の調査のことで、なんやかや、もう呑んでないといられないので、チューハイを飲みながら原稿に手を入れようと思います。暖かいので、雪の心配はしていませんでしたが、路側には寄せられた雪が固まっています。
◆車の中で、ずっと来週の調査のことを考えていました。ま、やるっきゃない、と決意しましたが、なんとか自力でもやるために、戦力と戦略を練る必要があります。でも、もう時間はない。腹を立てるのもやめた。専門でもなんでもないが、いい調査をやるのみ、それに全力投入する。
◆さて、明日の天気は?。前に来たときは天気が悪く、暗かった。今回はカメラは性能向上したし、神明山古墳の前に撮れなかった部位を中心に、報告書用の写真を撮る。

『岩倉古窯跡群』

◆これ、大学時代の成果物。京都・岩倉の窯跡の分布調査報告書だ。刊行されたのは奈文研2年目。まあ、時間がかかった。それでも、氏岡さんや、テルちゃんや、宮本君や、井197d7fc9.JPG下原君の熱意と尽力で刊行されたもの。まあ、よくやった、といえる代物。金がな12961368.JPGいにもかかわらず、自分らで、先輩が拾ってきて高く積まれた遺物の、後始末をしたもの。みんな刊行のために、金を拠出している。誰のためでもない、自分らのやってきたことの落とし前をつけたものとして、自分の出発点ともなる報告書である。
◆ところが、これ、だいぶ前から原本がなくなっていたのだが、へんなところから出てきた。実は、大阪市大考古学研究会が廃部になって、その部室にあった本やら遺物を引き取ることになって、いま倉庫に入れてある。こないだ、必要あって、本をすこし整理した。その時に、京大考古学研究会から送付した『岩倉』が出てきて、これは図書登録にまわしたが、その時に、なぜかオレの本もその箱のなかから出てきたのだ。なんで?、研究会の会員(誰?)に貸して、部室に置いてあった?、経緯は不明ながら、ともかくも出てきてよかった。
◆序文はオレが書いた。あんまり変えるところはない。全国の考古学研究会、だいぶ少なくなったかもしれない、自分の高校の地理歴史考古学部も廃部になったと聞く。が、考古学サークルがやることがなくなった訳ではない。いくらでもフィールドはある。発掘成果は発掘成果、そうでない地道な調査はいくらでもできる。これって、発掘件数が少なくなった自治体の文化財行政にも通じるようにも思う。

谷首古墳の石室のスキャン

◆五条野丸山の測量を構想し、橿原市にも了解をもらったのだが、既に実施されていることを知る。知fdb1912f.jpgらんかった・・・。できあがりを楽しみにしよう。
◆そこで、ほかの古墳の墳丘測量も考えたが、ややこしいのは無理。草を刈らないといけないようなものもダメ。話の早いヤツでいくしかない。そこで、牧野に続いて、谷首の石室のスキャンをすることにした。丸山は金がないし、墳丘部分の計測だけで、データ処理や図化は次年度以降で、金をみつくろいながらやっていくほかないと思っていたが、石室なら1日でOKで、ひととおりの仕上げまで可能だ。
◆石舞台をやりたいのだが、承諾をもらうこともしんどいし、もうこれも既に実施済みかもしれない。前から、石舞台について、改めて要請して無理なら次の一手として、同じく石舞台式の谷首をやりたいと考えていた。桜井市には地元調整もしていただきました。橋本さん、ありがとうございます!。条件は整ったので実施する。また、成果が出れば公表します。

大阪府知事は最低

◆あの知事。こないだの、安部晋三と八木秀次と、3人のタウンミーティングだって、そんなヤツなんや。こんな知事をトップとする大阪府・・・。ばからしい、ふつ~だと知事なんぞになるはずないが、勢いだけで・・・、コワイ。どうせなら、名古屋市長みたいに、もっとバカな発言をじゃんじゃんやって、府民に早くそっぽ向かれますように。
◆育鵬社の公民教科書だったか、東大阪市の中学校とかで選定されたという。どないなっとんのか。

天理大学のレーダー探査結果

◆桑原さんからさっそくにレーダー探査の結果が送られてきた。あっしには、これをどう判読すればいいのかわ45a94c3f.jpgからない。青地のなかのシャドウ部分などが遺構なのかとも思うが、そこは、こっちで、御殿の平面図とをつきあわせ、また第4師団時代に紀州和歌山城の御殿が移築された位置なども考慮し、一方で、天理大の専門のみなさんの判読とをあわせて、総合的に検討する必要がある。画像は一例。
◆前に、埋設管工事で、この探査範囲の右端で、2列にならぶ礎石列が出ているのだが、そうした礎石と思われるような反応は明瞭ではないようだ。
◆できれば、これ以外の御殿域、それに現存天守閣の東北の貯水池北側で、豊臣期の天守台をねらった探査もやってみたい。
 

郷について

◆今日は3月4日の日曜日、あることをしに大学に来たのだが、昨日の研究会の後、ず~と、どうしたら郷が670343f1.jpg領域といえるかを考えていて、やるべきことをほっぽって、郷のことをやっていた。
◆それで『福井県史』で重要な史料を見つけた。こんなんも、丹念に越前の東大寺領の論文を読めば書いてあるのかもしれないが、そんなことはとってもやってられん。『福井県史』の通史編には書いてないようだが・・・。誰か言及している論文をご存じの方は教えてください。
◆坂井郡の桑原荘と高串荘の立荘関係の文書で、前者は100町が「堀江郷地」とあるではないか、後者は「海部郷之地」とあるではないか。前者は野地なので高い土地(大伴宿禰麻呂が売却したときはわずか9町しか開墾できていなかった)、後者は低湿地のようだが、そうした東大寺領となるまで未開地で、人が住んでいないような場所だと思うが、そういうエリアだって、○○郷に区分されていることを示している。
◆大安寺領の、紀伊国海部郡木本郷葦原5町は使える史料だとはわかっていたが、あんまりほかに見あたらなかったので、『福井県史資料篇』をめくった甲斐がある。
◆もうひとつ、天平19年の法隆寺資財帳に、和泉国軽部郷の領地が書いてあり、そこに軽部池のことが出てくる。いまも軽部池6町分があり、それは天平期のものとみてほぼよい。これは近世和泉の郷復元の隅部にぴったり一致するのだ。軽部郷の水利のために溜め池を掘る。そのためには、軽部郷のもっとも高い側、つまり東南の境界部に接して溜め池を掘って下部に水を引くのが合理的。その3×2=6町分の軽部池は、きちんと「近世」軽部郷の隅に位置する。これこそ、奈良時代前葉にも、ここに郷境があったことを示すことに使えると思う。これ、昨日、思いついたもの。これきっと当たりですよ。
◆ひとつまえの和泉郡の地図のうち、軽部郷の部分の拡大を図示する。赤線(これはのちに和泉郡を2分し南郡ができた段階の郡界だが、むろん軽部郷と、八木郷や山直郷との郷界でもある)の屈曲部にあるのが軽部池。八木郷側1町分の池はあとづけである。ちなみに池の中に坪境の陸地を残していることも興味深い。

そして和泉

◆3月3日土曜日の研究会が、無事、終わりました。無事、ではなく、郷は領域であるという第2部は準備不足25f24410.jpgが露呈し、あまりうまくいったとはいえないが、まあ、終わった。大学に戻ろうかとも思ったが、もうへこたれていたので、そのまま阪和道で帰宅し、家でカミさんと呑みました。
◆和泉の「近世」の郷復元の図を、前にも出したかもしれませんが再掲しておきます。『和泉市史3池田編』に公表したもの。
◆そもそも、古代郷が領域かどうかという前に、中近世の郷の復元が不十分なのである。それは近世(前半)文書を分析しないと導けないのである。今日、福井県史をみていたが、古代郷は古代史の人間がやっていて、だいたいこのへん、くらいしか書かれていない。それが実情。むろん、その後の変化はあるにしろ、まず近世の郷を復元し、中世は中世文書での復元はまったくできないが、まあ、近世の郷をさかのぼらせればよい。というわけで、近世史の人間が全国各地でどこまで郷の復元をやっているかは知らないが、たとえやっているとしても、古代史は、ハナカラ領域じゃないからと考えていることや、近世は近世、古代なんてわからんということで、連携することがないように思う。
◆が、中近世の郷をしっかり復元し、そこから古代の郷を考えるべきなのである。ぜんぜん別物になることはない、古代があって、中世を経て近世に至る。古代の郷復元のベースは、後代の郷から考えていくべきなのである。きっと河内でもできると思うんですけどね。大和はわからんけど。
 

畿内の集落再編について

◆律令期集落については、文化庁にいるときに、坂井さんからいろいろ教えていただいたことが大きい。段丘の発達した関東では、7末・8世紀には集落を段丘に上げ、水利系統も革新し条里を施す。9世紀後半頃だったが、不便な段丘面を降りて平野部に居を移す。とたんに集落が把握できなくなるのだと。沖積地の発掘が進んでいないこととともに、散居村になっているためだろう。
◆それにくらべると、畿内は、集落再編は7世紀前半と早く、平野の中央部はよくわからないが、やはり集落は高台に移され、狭山池や古市大溝などのような水利施設の大規模な工事も実施され、官道が敷かれる。いまの中国のイメージである。「立ち退け」の一言で集落は廃絶、新たな村々ができる。そして7世紀後半、そこに方格地割がかぶるわけだ。
◆東日本は集落の再編と条里は一体であるので、実にわかりやすい。それにくらべて畿内は段階差があるわけだ。ふと、畿内の場合、集落の全面的再編を実施するのはどこまでの意味があったのか、と思う。官道や古市大溝といった捉えやすいもののみならず、中小水路網や開墾といった、やはり立ち退かせて実施するほどの面的な改変が実は進められていたと理解するのがよいように思う。
◆いずれにしても、こうしたことに関心をもち、条里の発表なんかをやっている背景に、坂井さんにうかがった研究成果がベースにあると思う。多謝!

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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