人を幸せにする人になろう

小白髪山

◆白髪山に行く途中、へんてこな小さな前方後円墳があるではないか。瞬間、気がつかなかった。これが小白髪7b7f81b9.JPG山だ、ということに。7月の陵墓懇談会で発掘調査の計画が挙がっていて、今年は2カ所あるのか、と思っていたが、その小白髪山と結びつかなかったのだ。ぜんぜんわかっちゃいないということだ。
◆削り込まれた墳丘の際に柵が設けられ、周囲を民家が取り囲む貧相な姿になってしまっている。墳丘本体は前に宮内庁が一度調査しており、7月に、新納さんが「ああいう掘り方はいかがなものか」と言っていたことを思い出すが、墳端や濠は宮内庁の土地外だろうが、調査されているのかな。白石科研の報告書でチェックしよう。
 

白髪山

◆前に宮内庁の立ち会い調査の時に、行けるヤツ行けということになり、オレしかおらず、清喜君に説明してもadd975e8.JPGらった記憶がある。せっかく発掘の限定公開のみならず、立ち会いも見せろと言う要求に機会を設けたのに、1人だったことを、少々問題にされたことがあった。ま、しかし、これを機会に、立ち会いながら内容によって本部立ち会いになる案件については16学協会が夏に要請し、見学会を行うことが、ここ数年の間に定着するようになった。
◆羽曳野市の調査で2重濠が検出されているらしい。調査された南側は新興住宅地に変じている。このビジュンメガネは、そのあとちゃうかな~。

小口山古墳

◆峯が塚公園の奥、あんまり期待してはいなかったが、横口式石槨にお目にかかれウレシイ限りである。また、ca9d544f.JPGとなりに東古墳というのがあるらしく、看板はちゃんとしてなかったが、方形の墳丘が確認されているらしい。
◆こっちもこっちで中途半端なように思われる。東古墳の墳丘がわかっているなら史跡整備したいところだし、小口山古墳の方は墳丘の調査をやっているんだろうか。ぜんぜん知らない。不勉強ですが、整備はともかくも、もうちょっとちゃんと掘って看板をきちんと立ててもいいのではないか。
 

峯が塚

◆主体部が発掘されたのは、奈文研にいるとき。町田さんにさそわれ何人かで行った記憶がある。【1991年だった】。おかげで、何5c9c9b16.JPGをしたわけでもないが、報告書に名前を挙げてもらい報告書もいただいた。それ以来だ。後円部側から入っていった記憶があるが、いまは北に生涯学習施設のLICができ、その向かいに、峯が塚をネタにした広大な公園として整備され、ずいぶんと様変わりしたんだろう。
◆だが、古墳は柵で囲まれ侵入不可。確かに汀の浸食がひどく、垂直壁状態で、転落防止などの安全対策を取らないとオープンにできないのかもしれない。民地時代はともかく、史跡になり公有地になると、そうなるか。ウィキによると、1987年に5haの公園として都市計画決定され、1998年に、出土品の展示館の完成をめざしていたが未完とある。公園としては竣工したものの、古墳の整備や展示館は頓挫というところだろう。発掘自体、竪穴式石室か横穴式石室か、あれ以上掘らないのか、掘るべきだ、うんぬん、ケチのつくものだったが、その後の経緯もぼんやりとは聞いた。
◆史跡の中心主体は、盗掘坑をさらうというのであれ、原則はやはり認めるべきではない。古墳の範囲や墳丘復元などの基本的データをえるための調査がちゃんとやられている上で、学術的に明確な目的がある場合に、検討の余地があるというくらいに。文化庁にいるときも、雨宮や、心合寺山や、可児長塚や、盗掘坑をさらうという名目で結局は主体部を掘ってしまう例をいっぱい見てきた。原則認めないものをやるから、中途半端になる。史跡の整備事業による調査計画を、埋文の人間がチェックする体制になかったことも要因。途中で、史跡整備の補助事業の中身をこっちでもチェックするようになった記憶がある。
◆ぜったい凍結とは思わない。が、峯が塚のごとく、手をつけたけれど、結局は、古墳も出土品も市民に公開されるところまで行っていない、そういうことになりがち。行者塚も。大風呂敷を広げず、身に合う範囲で、責任をもってやれる範囲でやればいい。そして継承していくことだ。
 

翠鳥園遺跡

◆前から、この近所のコインランドリーに梅雨時など洗濯に来ることが年1~2回あり、イズミヤにも行ったことがあるのだ171c507e.JPGが、ここは初めて。翠鳥園が発掘されたのはいつだったか。【1991年だった】。山中先生が、京大文学物博物館ee573537.JPGの展示で取り上げる。
◆もとは開発予定地だったんでしょうね。それが発掘で旧石器の製作遺跡として希有な出土状況で確認され、保存されたんだろう。【府営住宅だそうです】。サヌカイトの打割をイメージしたモニュメントはじめ、出土状況の模型や展示などがなされてる。史跡指定されていないようだが(府史跡?)、いろいろ保存をめぐってあったのかもしれない。
◆旧石器時代の史跡整備は初めてみたかも。相模原の田名向原遺跡は史跡になったが、そのあと整備された姿は見ていない。地味ではあるが、なかなかほかにはないものだろう。とはいえ、展示も少々くたびれている。遺構といえるものが石器の出土状況で、立体構造物があるわけでもなく、旧石器の遺跡の整備はなかなか難しいのだろうとは思う。
 

墓山

◆応神陵陪塚でありながら史跡でもある。丸々ダブル指定なのは、これと大仙陪塚丸保山くらいなもんだ。なんb2bae7f2.JPGで、それが可能だったのか、誰に聞けばいいんだろうと思いつつ数年が経過している。史跡指定もそんなに古いわけではない。なぜだ・・・(墓山1975年、丸保山1972年)
◆墳頂に長持形石棺があり蓋石が露呈しているらしい。『倉敷考古舘報』には図面まで出ている。これまた、なんででしょうね。けっこう埴輪や滑石製品が採集されている。近つの展示にも、いろいろならんでいる。
◆この手前には方墳の浄願寺山古墳もある。
 

たつの市で見つかった三角縁神獣鏡

◆2004年に、龍野市で三角縁神獣鏡が見つかり、歴史文化資料館の市村さんから電話がかかってきた。その44ba325e.jpgあと、元東博の西田守夫さんから電話が入り、『考古学雑誌』に紹介してくれと頼まれる。それで4日ほど、とびとびに通った。最初に写真を取り、権現山や雪野山の時みたいに2倍大に引き延ばし、それを下図に、フィルムをかぶせ、現物を見ながら絵を描いた。3日くらいを要したか。
◆が、そのあと、なぜだかわからん、図面類がどっかいってしまったように思いこんでいて、そのまま放ってあった。で、この夏、「所沢の西田です」とまた電話が入り、まずい!、「ぜったい書きます」と返事。急遽、ところさんに、鏡の写真処理を中断してもらい、三角縁神獣鏡のデジタルトレースをお願いする。で、そこはさすがに早いしうまいもんである。アバウト3日(3週)くらいで上がる。で、お披露目しておく。
◆原稿書き始めたが、書けない・・・。鏡の記述ってどうすりゃいいのさ。簡単に書けると思いきや、うだうだ細かく書く気にもなれない。同笵鏡のない新種で、配置Eという変わり者だが、まあそれくらいなもんだ。図面・写真・拓本を、ひととおり版面にあわせて6/10でそろえてレイアウトしたが、なかなか行は埋まらない。

2001年11月06日(日)松岳山

◆【岸本・道上・藤林】8:45~17:00
◆p33にマシンを据え、前方部の削平部を標高58mから56.5mまで下ろす。茶臼塚の手前まで。それから山車小屋の竹藪に突入。小屋の裏側まですべてやりたかったが、午後、学生2人に任dcf988b1.JPGせることになるので、11:30片付け、据え変える。fa1154db.jpg
◆それからp34に据え、10月30日の続き。標高60m以下、前方部西北稜線沿いに、前面と北側面について、L字の等高線を下ろしていく。54.75mまで完了。現在、竹を組んでデッキが作られているが、その付近まで。
◆この間、岸本は、柏原市歴史資料館で、大阪市立さくやこのはな高校の学生相手のシャベリで昼から15時まで抜ける。
◆この先の予定、11月19日、11月27日、12月3日、12月18日、1月6日、先は長い・・・
 

続いて誉田御廟山

◆同じ文献、初版は昭和41年。道路が建設中だ。よく見ると、アリ山がはげ山状態。北野先生調査時とすると昭a8f0e272.JPG和33年らしいが、そこまでは古くないか。外濠・外堤を道路が横切っている様子が見て取れる。府営住宅はすっかりできているが、まだ三ツ塚のあたりは家は少ない。

箸墓と上ツ道

◆茨木高校で話をしたとき、小学校の時に読んでいた本を紹介した。見返してみると、けっこういい写真があっ3fb6c860.JPGた。けっこう古い時期ですよ。まず1枚目、箸墓。カミツミチ。

プラグイン

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 3 4 5
6 9 11
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索