人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
弥生の青銅武器および祭器
◆銅剣・銅矛・銅戈のことを授業で取り上げるため、手元にあるモノを調べてまとめようとするも、なかなか容易ならず。適当な概説ってあるんだろうか。
◆わからんこことも多いのだろうが、少なくとも系統・編年・年代観などが、できれば銅鐸も含めて1枚の図に表したものがほしい。よくわからんのが銅剣、細形銅剣と中細形銅剣は併存しているのか?、と読める。どうやら銅矛・銅戈とは異なるようだ。それは何なんか。実用武器の主流で広範に広がり地域差をやがて生み出していくらしい。
◆細形と中細形とが併存するなら、そうと明記し、併存していることを示す図が欲しい。銅矛の変化はよりシンプルにとらえられるようだが、銅剣がそんな単純に一系列でならぶものでないなら、そういうことを示して欲しい。
◆事実関係のことそのものがシンプルに伝わらないのである。吉田君、なんとかして~な。
◆銅鐸の群も、たくさんあり、その流派の関係をわかりやすく図示したものは見あたらない。
◆銅鐸は近畿が早くに採用して、広がったと、とらえていいのですよね。なぜか、という回答は容易ではないが、しかし武器・武器型祭器に対して、早くにまったく別種のものを採用し独自の青銅器を作り出した意義は少なくなかろう。北部九州での鋳型なり鋳造関係遺物の量は圧倒的かもしれないが、これに次ぐのは近畿である。単純に高度な技術を保持しているという意味だけでも、弥生中期段階でも、けっこう近畿はやるではないか、と思う。北部九州が先進地として、それより東は横並び、あるいは九州に近いほど先進地など、とはいえまい。
◆銅鐸が周辺に広がっていくことに、どこまでの意味を見いだしていいのかは議論が分かれるにしても、震源地は畿内だし、工人も畿内がかかえていたもので、それが一定の影響を周囲に与えていることは事実だろう。
◆十分に文献を読み込めていない。そんなに時間をかけたわけではないが、少しかじって、弥生の青銅器の認識を新たにできたので有益でした。青銅器、弥生社会のなかでどれほどのものか意見は分かれようが、日本に実用利器として普及しなかったという意味で青銅器時代はなかったのだろう。しかし青銅器時代の中国でも、祭器が著しく発達した。より希少であればこそ、祭器としてより発達し、そうした青銅祭器を主体的に造り出しうることは、やはり弥生社会の中で上位にあったと思うのである。そしてたかが青銅器かもしれないが、やっぱり青銅器は重要だと思った次第。
◆そして・・・。やっぱり青銅器研究って浮いているようにも思う。岩永さんが書いていたが、青銅器そのものの基礎的な編年等はもはや固まっているんでしょ(議論が分かれているのは数人の専門家の間の認識)。だったら、やっぱりその先へ、青銅器研究の成果を弥生社会研究のなかにガッツリ組み込んで考えてほしいものである。実際には青銅器の意味やら儀礼の具体の姿などがわからんので、集落の調査から復元される弥生時代像に、なかなか組み込めないのだろう。どうしても独立的な扱いになるのかも。そこから先は人によって違うんだろうが、えてして独立的になってしまうとすれば、意識的に(強制的に)組み込んで考える必要があるのではないか。そうでなければ、青銅器研究は何のためにやっているのかわからなくなる。岩永さんと春成さんの中間で、やれることはあるんでは?
◆わからんこことも多いのだろうが、少なくとも系統・編年・年代観などが、できれば銅鐸も含めて1枚の図に表したものがほしい。よくわからんのが銅剣、細形銅剣と中細形銅剣は併存しているのか?、と読める。どうやら銅矛・銅戈とは異なるようだ。それは何なんか。実用武器の主流で広範に広がり地域差をやがて生み出していくらしい。
◆細形と中細形とが併存するなら、そうと明記し、併存していることを示す図が欲しい。銅矛の変化はよりシンプルにとらえられるようだが、銅剣がそんな単純に一系列でならぶものでないなら、そういうことを示して欲しい。
◆事実関係のことそのものがシンプルに伝わらないのである。吉田君、なんとかして~な。
◆銅鐸の群も、たくさんあり、その流派の関係をわかりやすく図示したものは見あたらない。
◆銅鐸は近畿が早くに採用して、広がったと、とらえていいのですよね。なぜか、という回答は容易ではないが、しかし武器・武器型祭器に対して、早くにまったく別種のものを採用し独自の青銅器を作り出した意義は少なくなかろう。北部九州での鋳型なり鋳造関係遺物の量は圧倒的かもしれないが、これに次ぐのは近畿である。単純に高度な技術を保持しているという意味だけでも、弥生中期段階でも、けっこう近畿はやるではないか、と思う。北部九州が先進地として、それより東は横並び、あるいは九州に近いほど先進地など、とはいえまい。
◆銅鐸が周辺に広がっていくことに、どこまでの意味を見いだしていいのかは議論が分かれるにしても、震源地は畿内だし、工人も畿内がかかえていたもので、それが一定の影響を周囲に与えていることは事実だろう。
◆十分に文献を読み込めていない。そんなに時間をかけたわけではないが、少しかじって、弥生の青銅器の認識を新たにできたので有益でした。青銅器、弥生社会のなかでどれほどのものか意見は分かれようが、日本に実用利器として普及しなかったという意味で青銅器時代はなかったのだろう。しかし青銅器時代の中国でも、祭器が著しく発達した。より希少であればこそ、祭器としてより発達し、そうした青銅祭器を主体的に造り出しうることは、やはり弥生社会の中で上位にあったと思うのである。そしてたかが青銅器かもしれないが、やっぱり青銅器は重要だと思った次第。
◆そして・・・。やっぱり青銅器研究って浮いているようにも思う。岩永さんが書いていたが、青銅器そのものの基礎的な編年等はもはや固まっているんでしょ(議論が分かれているのは数人の専門家の間の認識)。だったら、やっぱりその先へ、青銅器研究の成果を弥生社会研究のなかにガッツリ組み込んで考えてほしいものである。実際には青銅器の意味やら儀礼の具体の姿などがわからんので、集落の調査から復元される弥生時代像に、なかなか組み込めないのだろう。どうしても独立的な扱いになるのかも。そこから先は人によって違うんだろうが、えてして独立的になってしまうとすれば、意識的に(強制的に)組み込んで考える必要があるのではないか。そうでなければ、青銅器研究は何のためにやっているのかわからなくなる。岩永さんと春成さんの中間で、やれることはあるんでは?
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。