人を幸せにする人になろう

続き

◆全体として、天皇制に対する歴史学界の伝統的姿勢があるんだろう。近現代史と切り離せない面がある。政治的利用という前に、研究者のなかで危ない人たちがいる。概して声が大きい。
◆近代国家が古代天皇制に依ったこと、現代の日本国家が近代国民国家の延長にあり、万世一系とか、神国とか、どんな国より歴史は古いとか、そういうことで今なお国民の統合を図ろうとしたり、プライドを保とうとしたりする人はいる。そういうことには断固反対すべきだ。しかし、倭国ができ、王がおり、古墳時代があり、飛鳥奈良時代がある。むろん古墳時代であれば、地域の動向をきちんと復元すべきだし、集落論は欠かせないが、その一方で、王権論や国家論も欠かすことはできない。むしろ、危ない研究者なんぞが大手を振って歩けないほどに、ちゃんとした学問にもとづけば、日本の古代国家形成はこんなだった、大王とはこんなだった、ということを明確に打ち出していくべきだと思う。むろんそこには厳密性は必要だし、わからんことはわからんのであるが、それでも利用しようというヤツらをおそれることなく、学問的裏付けがない取るに足らない言説として無視され消えていくほどに、事実を明らかにすべきである。
◆なにか主題がずれてきました。ずれ続けるとすると、古墳時代に相当する時期の王統譜をめぐっては、けっこういけるという立場と、ほとんど難しいというのと、古代史の人でもその間でかなりの差があるのだろう。古代史のなかでガチンコ勝負をまずしてくれないものか。厳密に言えばほとんど困難ということが、たとえ学問的良心として正しいとしても、それで扱わないとすれば、そうでもないと思っている側との乖離はなくならないだろうし、とくにけっこういけると信ずる危ない研究者を温存し続けると思う。
◆元に戻り。『季刊考古学』の古代史の文をいますこし。でオオヤマト6墳のあと、「古市・百舌鳥古墳群における応神・仁徳陵に先行する仲津山・上石津ミサンザイの位置付けについても同様である」という最後の一文がある。まず、いかに同様なんだろうか。「古墳編年と王統譜は基本的に別枠で考えるべき」ということの事例として同様であるということなんだろう・・・。どうも誉田御廟山は応神陵、大仙は仁徳陵というのはいいと考え、で王統譜上は、応神に始まることになっているが、実際にはそれに先行する大王墓があるので、これも作られた王統譜はそれはそれ、実際の河内段階の王の流れはそれとは別に考える必要がある、と考えているのかな。
◆この議論はどうなんでしょう。誉田御廟山は応神陵、大仙は仁徳陵と考えているのではないのかもしれません、論理矛盾だし。誉田御廟山は応神陵、大仙は仁徳陵と、持統朝には決められたが、ということなんだろうかとは思うが、それなら説明がないと誤解されるだろう。が、案外、そうではないのかもしれません。応神と伝えられる人物なりよりも早く、河内に大王墓を築く者がいたんだと、そう考えているということなのかもしれません。ああ、頭が痛くなってきた。
◆すいません。いつも学恩をいただいている方を取り上げて、いろいろ言いました。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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