人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
造山
◆先のように、上石津の後円部直径が本来よりも小さく見積もられ、その結果、前方部相対長が長 くなる。仲津山と上石津が墳丘の割り付けからすると関係があるかもというのも、その結果であろう。仲津山の問題は、かつて大いに悩んだ記憶があります。
◆造山、前にもやはり出したと思いますが、復元案は問題が多い。赤と青がわたしの復元案。元図がN先生のもので、一部、緑にしてみました。
◆上段裾の緑は、テラス面ですよね。中段の裾は、西側(左)にあわせていますが、くびれ部、とくに後背側は墳丘内に食い込んでくる。下段は一見するとあっているように見える(裾が傷んでいるから)。これらに対し、自分の赤と青は・・・。要するに、作山と同じで、丘陵軸に載せる主軸方向と、直交方向で正円になっていないのです。施工に際しては、主軸側、短くなる直交方向側で、異なる丁張りをしているわけだが、設計上はどっちか本筋かという問題です。尾根上に墳丘を載せる前期古墳以来、主軸方向こそ設計通りに実現させ、直交方向は尾根側面となり設計通りにはいかず、自然地形にさからわずに小さくなる。
◆なので、中段でいえば、N先生は直交方向で復元円を描くが、わたしは主軸方向、すなわち両くびれ部位置と後背側の今見える墳丘斜面を尊重して円を引いています。造山の場合、中期古墳だが最大限自然地形を利用しており、O点の移動もあり、北側、後背側の斜面長が長くなっているだろう。いずれにせよ、中段と同様、下段も直交方向の現状裾にあわせて復元円を引けば、設計上の後円部径より小さくなってしまうだろう。なので、造山も後円部:OP=1:1.5ではなく、後円部の復元径が大きくなる分、1.5より短くなると考えられる。
◆造山、前にもやはり出したと思いますが、復元案は問題が多い。赤と青がわたしの復元案。元図がN先生のもので、一部、緑にしてみました。
◆上段裾の緑は、テラス面ですよね。中段の裾は、西側(左)にあわせていますが、くびれ部、とくに後背側は墳丘内に食い込んでくる。下段は一見するとあっているように見える(裾が傷んでいるから)。これらに対し、自分の赤と青は・・・。要するに、作山と同じで、丘陵軸に載せる主軸方向と、直交方向で正円になっていないのです。施工に際しては、主軸側、短くなる直交方向側で、異なる丁張りをしているわけだが、設計上はどっちか本筋かという問題です。尾根上に墳丘を載せる前期古墳以来、主軸方向こそ設計通りに実現させ、直交方向は尾根側面となり設計通りにはいかず、自然地形にさからわずに小さくなる。
◆なので、中段でいえば、N先生は直交方向で復元円を描くが、わたしは主軸方向、すなわち両くびれ部位置と後背側の今見える墳丘斜面を尊重して円を引いています。造山の場合、中期古墳だが最大限自然地形を利用しており、O点の移動もあり、北側、後背側の斜面長が長くなっているだろう。いずれにせよ、中段と同様、下段も直交方向の現状裾にあわせて復元円を引けば、設計上の後円部径より小さくなってしまうだろう。なので、造山も後円部:OP=1:1.5ではなく、後円部の復元径が大きくなる分、1.5より短くなると考えられる。
髪が薄くなり
◆髪の毛の1本1本が細くなり、まえはゴワゴワして頭が爆発していたが、いまはそんなんでぺちゃ んとなっている。老い・・・。
◆造山蘇生会の代表からシンポの記録集を送っていただきました。わたしは、2015年5月の第7回の講演会によばれて話をしました。巻末の年表を開くと、2007に代表が町内会長になり、そこから造山古墳をなんとかせなあかん、と会を立ち上げ、ここまでのことを達成されたわけです。日本遺産にもなり、今度はビジターセンターができるのだとか。頭が下がります。
◆むろん造山という、傑出した素材ではあるが、では、久津川車塚古墳ではどうかというと、行政が調査をやっているが、住民はいまのところ主体的にかかわることはない。 活動年表の一部を抜粋します。意識ある人がいる、だからここまでのことができるわけだが。しかし多くのそうでないところでは、そこに住む人たちと対話を続けていく、それしかないですね。宇治の白川地区の話を思い出しました。
◆造山蘇生会の代表からシンポの記録集を送っていただきました。わたしは、2015年5月の第7回の講演会によばれて話をしました。巻末の年表を開くと、2007に代表が町内会長になり、そこから造山古墳をなんとかせなあかん、と会を立ち上げ、ここまでのことを達成されたわけです。日本遺産にもなり、今度はビジターセンターができるのだとか。頭が下がります。
◆むろん造山という、傑出した素材ではあるが、では、久津川車塚古墳ではどうかというと、行政が調査をやっているが、住民はいまのところ主体的にかかわることはない。 活動年表の一部を抜粋します。意識ある人がいる、だからここまでのことができるわけだが。しかし多くのそうでないところでは、そこに住む人たちと対話を続けていく、それしかないですね。宇治の白川地区の話を思い出しました。
2019年9月28日は芦屋
◆公民館でしゃべれとのこと。14時から15時半。結局、上本町で河内鋳物師の勉強。時間になって、阪神難波線で芦屋に向かい、芦屋川沿いに北上し、1時間前くらいにたどりつく。会場の文化センターでパワポを直し・・・。100人くらいの部屋が満席となる。絞り込んだのに、やはり最後は駆け足で、5分オーバー。また上本町に戻り、河内鋳物師の勉強をし、カミサンと一緒に帰る。
◆こないだ21日は、都城制研究会と大阪歴科協の書評会がバッティングし、都城制研究会に行くつもりが、朝、机に向かうと、行っていられない・・・。残念でした。
◆本薬師寺の南門の記事が出てました。平城宮で太政官の正殿?が出たとか。これは何?(仮設でなく?)。藤原の発表というのは、まだこれから?。ちんぷんかんぷんになってきた。
◆こないだ21日は、都城制研究会と大阪歴科協の書評会がバッティングし、都城制研究会に行くつもりが、朝、机に向かうと、行っていられない・・・。残念でした。
◆本薬師寺の南門の記事が出てました。平城宮で太政官の正殿?が出たとか。これは何?(仮設でなく?)。藤原の発表というのは、まだこれから?。ちんぷんかんぷんになってきた。
11月17日は
◆カタシモワインフェスが行われる。創業百年の年からはじめ、今年が5年目だとか。ぶどう畑に、 20店くらいの飲食屋さんを配し、来客者はワイングラスを片手に、葡萄畑をまわりながら、ワインを飲み、飲食するのだそうです。いくつかステージも用意され、音楽をやっている人に演奏などもしてもらうのだそうです。
◆今回の参加者のなかに、プロなみの人を含む4人でマンドリン演奏をやっている人がおり、それなら出演してくれ、という話になっていました。
◆人との出会い、楽しく話をする、これが人間の幸せですね。9月26日、行くと言っていたものの、大丈夫ですかと確認の電話をもらった時、いろんな仕事を考えて「思案中」と返事をしたが、参加してよかった。元来、切り替えが下手で、あんまり外へ出ていかない人間だ。が、いろんな機会があり、誘いもあり、どうしてもダメな時はむろんあるとはいえ、新しく人と会ったり、それまでにない経験ができる機会には、できるだけ飛び込むのがよい。
◆今回の参加者のなかに、プロなみの人を含む4人でマンドリン演奏をやっている人がおり、それなら出演してくれ、という話になっていました。
◆人との出会い、楽しく話をする、これが人間の幸せですね。9月26日、行くと言っていたものの、大丈夫ですかと確認の電話をもらった時、いろんな仕事を考えて「思案中」と返事をしたが、参加してよかった。元来、切り替えが下手で、あんまり外へ出ていかない人間だ。が、いろんな機会があり、誘いもあり、どうしてもダメな時はむろんあるとはいえ、新しく人と会ったり、それまでにない経験ができる機会には、できるだけ飛び込むのがよい。
社長のお話
◆髙井社長は有名人。しゃべりも抜群。いろいろと語っていただきました。ブドウ栽培として4代 目、ワイン醸造で3代目なのだそうです。
◆明治政府が、米を確保するため日本酒の消費を減らし、ワインを奨励しようとした。前にもかかわったことのある播州葡萄園などを作るも、いずれもダメ。甲州で、日本の封土にあった種が作られたのだったか。柏原市の資料館の特展図録で勉強しなおさないといけません。栽培は江戸期からしていたのではなかったか。
◆とにかく河内と甲州のぶどう・ワインが生き残ったと。大正7年から昭和10年までは大阪がワイ ンの生産日本一だったのだとか(いまは7位だそうである)。昭和9年の室戸台風で、風速60mを超える台風で、1000haの葡萄の65%が倒壊したのだとか。カタシモワイナリーは大正3年の操業とのこと。水はけのよい山の上の方の土地は、かつてJR柏原駅前の平米単価より高かったのだそうです。土が砂ケの多いところ、粘土質の高いところ、畑のひとつひとつで違う。ブドウの木、1本1本で違う。それは熟してきた葡萄で見分 け方を教えてもらいました。栽培にはストレスを与え刺激を与えるのがよいのだそうです。根を8分割して1年ごとに1/8を切るのだそうです。そうして細い根を再生させることで葡萄の木も長持ちする。100年以上の木が日本に5本あり、そのうちの〓本がここにあるとのこと。除草剤は使わない、露天の畑には草が生えるまま。ハウスで水でふくらましたような葡萄とは甘みがぜんぜん違い、ワインにするとそれがテキメンに現れるのだとか。水はけのよいところがよいのだそうです。根が砂粒の水を吸う?といったように、で、ミネラルも吸収する、と。気候温暖化が一番の問題。昼夜の温度差がある方がよい。
◆むかしの写真では、ほんとうに一面葡萄畑で、その間に屋根が見えるという風景。社長が学校へ行くのも、すべてぶどう棚の下を通って通っていたと。同級生もまたみな葡萄農家の子供だったが、13~14人いてあとを継いだのは1人だけだとか。戦後のジェーン台風や伊勢湾台風とか第2室戸、すべて大きな被害をもたらし、昭和30年代から右肩下がりだと。雨が多いのもだめ。ハウスを作るにも金がかかり、徐々に離れていく、と。いま柏原市内で葡萄栽培をやっているところで、跡取りがいるのは30%。耕作しなくなるところがとどまらない。そうした畑も借りて栽培しているのだという。
◆明治政府が、米を確保するため日本酒の消費を減らし、ワインを奨励しようとした。前にもかかわったことのある播州葡萄園などを作るも、いずれもダメ。甲州で、日本の封土にあった種が作られたのだったか。柏原市の資料館の特展図録で勉強しなおさないといけません。栽培は江戸期からしていたのではなかったか。
◆とにかく河内と甲州のぶどう・ワインが生き残ったと。大正7年から昭和10年までは大阪がワイ ンの生産日本一だったのだとか(いまは7位だそうである)。昭和9年の室戸台風で、風速60mを超える台風で、1000haの葡萄の65%が倒壊したのだとか。カタシモワイナリーは大正3年の操業とのこと。水はけのよい山の上の方の土地は、かつてJR柏原駅前の平米単価より高かったのだそうです。土が砂ケの多いところ、粘土質の高いところ、畑のひとつひとつで違う。ブドウの木、1本1本で違う。それは熟してきた葡萄で見分 け方を教えてもらいました。栽培にはストレスを与え刺激を与えるのがよいのだそうです。根を8分割して1年ごとに1/8を切るのだそうです。そうして細い根を再生させることで葡萄の木も長持ちする。100年以上の木が日本に5本あり、そのうちの〓本がここにあるとのこと。除草剤は使わない、露天の畑には草が生えるまま。ハウスで水でふくらましたような葡萄とは甘みがぜんぜん違い、ワインにするとそれがテキメンに現れるのだとか。水はけのよいところがよいのだそうです。根が砂粒の水を吸う?といったように、で、ミネラルも吸収する、と。気候温暖化が一番の問題。昼夜の温度差がある方がよい。
◆むかしの写真では、ほんとうに一面葡萄畑で、その間に屋根が見えるという風景。社長が学校へ行くのも、すべてぶどう棚の下を通って通っていたと。同級生もまたみな葡萄農家の子供だったが、13~14人いてあとを継いだのは1人だけだとか。戦後のジェーン台風や伊勢湾台風とか第2室戸、すべて大きな被害をもたらし、昭和30年代から右肩下がりだと。雨が多いのもだめ。ハウスを作るにも金がかかり、徐々に離れていく、と。いま柏原市内で葡萄栽培をやっているところで、跡取りがいるのは30%。耕作しなくなるところがとどまらない。そうした畑も借りて栽培しているのだという。
2019年9月26日、河内六寺とぶどう畑を歩く
◆大学の科目履修プログラム、おおさかガイド+講座で、大阪の歴史演習を担当している。隔年開 講で、2019は3回目。いつものように履修生と仲良くなり、いつも前期の打ち上げで飲み会が設定される。で、8月に柏原市歴史資料館で講演した時も、みなさん押しかけてくれました。その前の7月時点で、柏原おいなーれの会の履修生が、授業で河内六寺のガイド案を作っており、履修生で実際に行こうということになり、日が設定され誘われたものです。
◆カミサンと2人で参加。JR高井田駅10時。参加者は10数名、大阪の歴史演習を履修していない同期生も半分。横穴を見て、資料館、鳥坂寺、家原寺、知識寺。そこでカタシモワイナリーの社長に出迎えてもらい、石神社の知識寺塔心礎、湧き水、そしてぶどう畑。それから社長宅のテイスティングルームで話を聞き、お宅のなかの部屋で食事。久宝寺のフレンチ料理屋提供の食事。ワインを4~5種類、いただく。14時解散。まあ、楽しい。役得です。
◆カミサンと2人で参加。JR高井田駅10時。参加者は10数名、大阪の歴史演習を履修していない同期生も半分。横穴を見て、資料館、鳥坂寺、家原寺、知識寺。そこでカタシモワイナリーの社長に出迎えてもらい、石神社の知識寺塔心礎、湧き水、そしてぶどう畑。それから社長宅のテイスティングルームで話を聞き、お宅のなかの部屋で食事。久宝寺のフレンチ料理屋提供の食事。ワインを4~5種類、いただく。14時解散。まあ、楽しい。役得です。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。