人を幸せにする人になろう

造出について

◆造出の全面調査としては一番でかいかも、と。で、これまでの造り出しの調査事例を考えてい る。いまはリポジトリなどで、報告書PDFをHDに入れてくる時代なのですね。で、池田古墳がでかいというのをすぐに教えてもらう。しかも両造出とも掘っており、左右での機能差がかなり明瞭。
◆ひとまず規模。池田古墳は墳丘規模が135mで(設計は100歩なんだろう)、下段の高さが2mあり、1.4m下に造り出し上面があり、造り出し土壇の高さは60㎝。基部はおそらく9.5歩×13歩で、上面が8歩13.3m×12歩16.4mだろう。2:3ですね。で、久津川車塚の西造り出しであるが、小斜面が飛んでいて正確ではないが、上面が9歩12.5m×14歩19.7mと推定していこう。2:3とすれば13.5歩18.7mなのかもしれない。レーダーの反応をだいたい拾えば19.4m。さあ、どっちに近いか。ちなみに、久津川車塚の埴輪列は、7.5歩10.4m×13歩18mである(長辺は推定)。かなりの長方形になったので、埋葬施設はもうひとつあるとふんでいる。
◆図は春にちょこっと作ったもの。池田古墳、および宮内庁がこのところバンバン造出を掘っているので、洗う必要がある。

久津川車塚8月5日(水)

◆自分、道上・山口・原田・園原・大澤、城陽市担当者。もちろん灼熱地獄。
◆朝、2手に分かれる。Dは造出南隅部。葺石の残存は見通せたので、上に戻り、前方部側面最上部の葺石欠落部における斜面出し。3回生は造出の上面検出。造出南隅部はかなり東へ食い込み、なんとか前方部下段斜面かと思われる混礫赤色土を出し、残存する葺石裏側まで出す。ここで、3回生を投入し葺石の石出しに入ってもらう。この日の終了時までに、ほぼ現状の範囲での下部の葺石までを検出する。前方部の葺石端部が谷線に沿って通る。造出南面部でも縦目地かと思われる石がならぶ。
◆造出上面でこの日進んだのは北へ幅50㎝程度。埴輪は2個出る。途中からテントを投入する。旧調査区末端から幅50㎝程度までは礫がある程度残るが、それより北側では礫が途切れている。尾山さんが「掩体壕溝」を掘り、その壁面からすると、礫の端部から落ち込みが始まり、すぐに深く落ちていくことが確認でき、大きな攪乱が下る様子が見て取れる。それで礫敷が途切れるところから攪乱斜面を出していく。赤い地山だと思うのだが、午後の後半になると西日で色がいまひとつ見えない。「掩体壕溝」壁面沿いについて削り込んだが、平面的に落ち込みを検出しているわけではな い。生き土には礫があるので、削り込んで落ちラインを出すわけにはいかないので、落ち込み内側から黄色粘質土を削りながら、へりを確認し仕上げていくほかない。
◆なお、造出が南北に長くなったため、くびれ部位置は今回の調査区では入ってこないように思うので、拡張について相談する。が、今回はいま考えている範囲も完了できるかどうか慎重にやる必要があり、次回送りもやむなしとし、予定通りの機械掘削の範囲とする。入口の関係で機械が小さいのだが、効率を上げるため、来週にはより大きいものを投入することになる。機械掘削は来週いっぱいまでを要する。なお、くびれ部は無理にしても、造出上面は、2回に分けたくないので、掩体壕を越えた北側部分を拡張することになる。

久津川車塚8月4日(火)

◆自分、道上・山口・原田・園原・大澤、城陽市担当者。朝から立命の3人来る。もちろん灼熱地獄。
◆いま開いているなかでできる、造り出し南の谷筋斜面の掘り下げにかかる。黄色土をバチで削る。3回生が削り、Dが排土する。葺石がすぐに出てきて下部に続く。谷線に沿って造出上面から30㎝もないあたりから。ただし、最上部はややずっている状態かと思われるが、ちゃんと積み上がっている。前方部側面と造出南面の2面の斜面が下がっていき、調査区は狭くなる。
◆一方、機械掘削は、墳丘にもっとも近い東拡張区をやっている。旧調査区の埴輪や礫の位置のやや上の位置まで削る。しかし、墓坑寄りの西側では黄色粘質土が厚いので、さらに下げてもらう。やはり攪乱が東側にも広がり、中央部はくぼんでいるようである。掩体壕にともなうかと思われる、前回も出ている溝が入り込んでいる。墓坑の東辺はこの溝でかなり壊されていると推測される。
◆写真中央部の土嚢が造り出しの方形埴輪の屈曲部。その向こうが今回新たに掘るところで機械で下げたところ。手前が造りだしの南側隅部に当たる位置で、掘り進んでいる。石が見えてきている。

お待たせしました、久津川車塚初日8月3日(月)

◆自分、長友、道上・山口・佐藤、城陽市担当者。もちろん灼熱地獄。8:30天王寺、レンタカー屋。が、予約日を間違えている!。な んとか手配してもらい、9:00過ぎレンタカーで大学へ。9:30着、荷物を積み込み、9:45発。11:20頃に現地に着く。
◆現場の荷物を降ろし、宿舎に行き宿舎用の荷物を下ろし、レンタカーを伏見駅前に返す。13:00頃過ぎ戻り、ガストで昼飯。コーナンへ買い物に行く。この間、長友さんにフトン屋さんやガス屋さんの対応をしてもらう。現場に戻る。
◆この日から機械掘削も始まる。われわれの作業時間は短く、旧調査区のブルーシートの上に残存する土をはねたくらい。が、それだけで、むろん熱いからだが、へこたれる。この日は、泊の者はいなかったので、帰宅する。

明日から現場に入ります

◆2日の日曜日、朝から仕事をし、いま22時をまわるも、雑用を終えることはできていない。まあ、明日から機械掘削なので、1週間は様子見と調査区の整備ではある。この土日のオープンキャンパスの準備もあるが、それは前日ということで。天理大のレーダー結果の速報が来て、造り出しは北にかなり大きくなる模様。春の時に最後、けっこう細く抜いたが落ちが出なかったこととは整合する。が、では後円部との取り付きはどうなってんねん、というところ。
◆この1週間は、ほぼ上面の範囲をおよそ認識し、南辺と前方部側面とのコーナー部、西辺の彫り込み部、それとくびれ部設定が固まればそれでよし。後円部側は下段上面テラスと、造り出しの間の三角形地帯をどう美しく掘るか、明日から現地で頭をひねってみよう。

戦後、1人、戦死しているらしい

◆帰りの飛行機、大阪上空で花火が上がり、なんかやっていると。直後、そうか今日はPLの花火だと。空港が込んでいるらしく、淀川河口までいきながら、ぐるりとまわり、2度目の関空、大阪湾岸沿いを北上する。そこからぐるりと南下し、奈良南部までいくんですね。そこから反時計回りに柏原上空にいたり伊丹にむかう。西名阪が見え、誉田御廟山古墳が見えるも、その手前でバッテリーアウト。
◆読む本をもっていなくて、吉川弘文館の本郷があったのでパラパラ。そうすると、戦後、1人、戦死しているのだという。朝鮮戦争に際して密かに「日本特別掃海隊」というのが米軍支援で送られ、そこで1人死んだのだという。

南九州型周溝

◆男狭穂です。埴輪の研究も進み、時期の区別はほとんどなく、系列差を有しつつ入れ子にもなっ ている、という。前面に周溝がないのは地域的な作り方なんだと。これはこれで容易に反論できない証拠固めがなされている。が、175mにもおよぶ帆立貝である・・・。それと、前後でもないとして2つあることをどう考えるか。前には、地域首長権の分掌を考えたが、造山・作山が別の見方になったので、後退した。が、太田天神山と女体山との関係なども残っている。
◆太田天神山と女体山って、ふつうに北を上に切り取ったに過ぎないですが、組み合わさり方が似 てますね。やはりペア関係のなかで考えた方がいいのでしょうか。

調査そして研究は進む

◆今回は、生目、西都原、新田原の最新情報という企画だが、それぞれ調査が重ねられ、図録を見 ると、編年表が更新されてきている。発表にもあったが、ほとんど5世紀以降とする見方に対して、そんなことはないとのマグマ、宮崎大学Y先生の徹底したちゃんとした測量図を作ろうというエネルギー、そして同時多発的にこれら3つの古墳群に対する調査が取り組まれ、ひとつひとつの事実が積み上げられ、編年表が更新されていく。メリハリなく配列されたものから、それぞれの位置がはっきりしてくると、ダイナミックな変化が読み取れるようになってくる。
◆最先端の情報を知らないことを痛感する。年々、認識が深められ、修正が重ねられていく姿を見ることができる。今回、こっちも王陵側の整理も進んだので改めてやったが、それよりも背景の話を組み立ててみる、ということに重点を置いてもよかったのかなと、反省。というのも、自分がやっている墳形の話を、もっとも積極的に受け止め、実際の地域の古墳に即して検討していただいたのがY先生なんだということを決定的に認識する。そんなことは、既にひととおり考え抜かれているのである。
◆王権側の論理に対し、地域での類似墳の拡散、それは前期の柄鏡のみならず、女狭穂を起点とする再編とか、関東でも同じようなことが言われているが、そういうアヤにこそ古墳時代の実相 を読み取るべきなんだろう。常にビビッドに最先端のものが波及するわけではない。むろんインパクトの強いときもある。しかし、そうした影響を受けつつ、またそれは小さくはないが、しかし地域内での序列を作ろうとする動きや、またそれが貫徹しない動きもあるのだろう。
◆自分のできることは何だろうか。こういう機会をいただき、現実の地域社会の実相を垣間見ておくということはむろん必要ですね。ひとつの地域の歴史は、そのなかで考えぬかなければならない。そういうフィールドをもっているかと問われれば、残念ながらそうではないわけである。しかしそこは、畿内というやや広い範囲であるが、それを対象に、大阪だけとか、奈良だけでもなく、横断的に全体像をどうとらえていくか、ということに向かう必要がある。
【追記】西都原全域のレーダー探査が進む。すごい・・・。地下式横穴はほぼ捉えられる。

西都原考古博物館2004

◆西都原の調査の委員をやらせてもらっていて、年に1度行くのだが、いつも学芸側の裏から入り、 調査を見せてもらったりする合間に、企画展を見ることが何度かあったが、ちゃんとぜんぶ、じっくり見たことがなく、この日、2時間くらい見てたのかな。ショップから始まり導入部、展示室と。投影映像もひととおり見た。博物館として何かと勉強になった。また独特の語りがあり、これには賛否あるようだが、コアがちゃんとしているなら、色があっていいのではないか。山の民のところとか、瀬戸内との関係とか、面白い。しかけもさまざま挙げればきりがないくらいある。味わいがありますね。8月1日の土曜日、そこそこお客さんが入っている。
◆研究所のところは、将来的にはどうなるかなと。展示と切り離せないとの考え方なのだろうが、モノの展示を充実させるという方向もあるようにも思う。その際は、やはり古墳時代を中心として、旧石器から古墳時代まで(ちょこっと古代)というのを維持しつつ、県下の資料を俯瞰できるような拡充もあるだろうし、古代以降の部分も取り上げていくということもあるかもしれない。

西都原講演会も終わり

◆金曜日は17:45の飛行機。雲が多く、明石海峡の写真も、讃岐の沿岸部や小豆島の写真も、撮ったものの雲海に近い。1時間で到着。暑いです。なんでも前日は西都市が37.5度と全国一熱かったとか。
◆宮崎市は近世城下町でもなく、近代以降に宮崎県の成立とともに新たに作られた都市だそうである。近世には、3つの城のある藩のほか、いろいろ細かく領地が分かれていて、天領も多かったという。
◆ホテルに入りすぐに懇親会。Hさんから台湾の博物館の話を聞く。タイペイ市の新市街が新平市となり、そこに十二なんとか遺跡という鉄器時代遺跡があり、国が発掘するも保存問題も起こり、一部は残っているようだが、そこに考古博物館ができ、年90万人を集めるのだという。とはいえ考古の学芸員は1人くらいしかおらず、教育普及系の学芸員が多く、考古や歴史に限らないさまざまな企画展や取り組みがなされ、多いときは1日1万人が来るのだという。一方でタイペイにある国立博物館は金はかかっているが面白くはなく、博物館を使った積極的な活動を新平の博物館がやって、人を集めているのだという。行ってみたくなった。
◆終了後、お茶とタバコを買って、ひとまず貼り付けただけのパワポに補う文字や動きを加えて行くも、そのまま布団に入らずベッド上に倒れる。今回も4:30頃に目が開き、そこから仕上げにかかる。8:00にはひととおりでき、朝飯を食いに下りる。

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HN:
雲楽
年齢:
60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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