人を幸せにする人になろう

網野銚子山の整備が始まる

◆基本構想はできあがっており、用地買収も進み、今年度から整備事業が始まります。まずは未確認部の調査から。8月9月と聞きました。

男狭穂塚は作りかけでは

◆男狭穂をじっくりと観察する。これ途中でストップしたんやろ うと思う。だとすると、平坦部で基本盛土の中期大型前方後円墳の築造行程を知る一級資料じゃないかと。後円部について多重に割り付け、前方部側を除いて周濠を掘削して後円部を完成させる。堀の端がスロープ状になっていることも示唆的。一方で片側の前方部も、いくぶんの成形がなされる。次は前方部。しかし前方部の周濠を割り付け、周濠を掘削した痕跡はない。その直前でストップしたのかなと。これがメサホを上まわる巨大前方後円墳を築造したのだとすると、何が考えられるんだろうといろいろと当てはめてみたが、執政王墓系はうまく乗りません。結局、仲津山かなと重ねたのが図です。170歩235mの前方後円墳を造ろうとしていたのではないか。
◆しかしそこでストップがかかる。なぜでしょうね。でかすぎ。承認されていたものが取り消されたのか、勝手にやってたのか、それは知らん。結局は130歩180mのものに造り直した、と。途中まで造り上げていたものを、整えることは許されず、放置された、と。でもオサホからも埴輪が出てるんですよね。それで時期差はないと。だとしたら、最終的には利用したわけだが、どない埴輪を並べてるんですかね。
◆それと次がないこと。まあどこでも規制されるわけだが、しかしもう1代分くらい前方後円墳があってもいいし、そうでなくとも大型円墳が続いてもよさそうだが、ほぼばったりと。備中的ですね。「激烈な弾圧」?。
◆これもレーダーで帆立貝との結論が出ているようです。が、崩されたにしても、前方部前面側の周濠が掘削されていないのは、やはり問題。

高橋源一郎の本を読んでいます

◆この論壇、2011年4月にスタートしたのですね。そんな手広くいろんなものを読むことのないフ ツーのわれわれにとって、実にさまざまな言論があることを紹介してくれ るのは、ありがたいことですね。
◆ここ数日の新聞記事にも、大西巨人と西園寺公望の記事を面白く読んだ。

れきはく論文

◆このところ、書き殴っております。焦点が絞れないまま、書きたいことをぜんぶ書いたろか、と。どうなりますやら、この2日、安閑未完墓の横で、2時間ずつ書いております。

天皇記と国記

◆これって、神聖王と執政王の記録かも知れないなと。日本書紀の課題は、それを1本化することではないか。

少し上くらいの年代

◆みなさんはワープロとか、PCのワープロを使うようになったのはいつですか。わたしの記憶では、1浪して大学院に入った1989年にPCを最初に買いました。その前の浪人中の1988年にワープロ専用機を使いました。その1年前の1987年の卒論を書いていた時は手書きです。そう、手書きで卒論を書くという経験は、1年遅ければ未経験だったかもしれません。
◆いま大阪の歴史演習で、オジサン・オバサンとつきあっていますが、70代のおじさんはしんどそうです。60代のオジサンはワードも問題ありませんが、画像を貼ろうとするとエクセルにするみたいです。エクセルのレポートが出てきます。オバサン、これがしんどい。50代前半といっても、自分のすぐ上くらいですが、4大卒1名、短大卒2名ほかです。卒論があったかなかったか聞いてませんが、PC普及以前なんでしょうね。それでも2名はワープロで打ってきますが、2名はたぶんほとんどやっておらず、それでも頑張ってやってくれてますが、時間がかかるのでしょう。1名の期末レポートとして、多量の手書きのものが出てきました。手書きでいっこうにかまわないのですが、整理されていないようで、これは一旦返そうかなと。
◆いまの学生は、だいたい学年が上がってくると自分のノートPCをもつようになる。そういうのがあたり前になるのは、どのへんが転換点だったのでしょうか。移行期では学生時代に十分さわってなくても、就職すれば、いやがおうでもやり、一定世代以降はワープロというのは基本的に身についてるんでしょうけど。うちの娘は、高校の時に自分でデルのノートPC買ってました。2人とも大学に入ったときに、ノートPCを買ってやりました。

久津川車塚起動

◆スイッチをオンにする。
◆携帯電話を落とし、1週間。かかってこなくていいが、まあないと、まわりに迷惑をかけます。

大阪市の1934年地図

◆この地図、1万分の1です。最近になり知り(恥ずかしながら)、これは有用と、これまで難波宮 とか条里とかで使っていきた1961年の1万1をぜんぶ切り替えないといけない状態となっています。で、大阪市民博物館を見つけました。内国勧業博覧会のあと、天王寺公園ができ、美術館、動物園とともに、かつて作られていた博物館で、山根徳太郎が勤務したところです。これが天守閣が再建された時点で、引っ越しするわけです。

丸山が欽明陵であることを確定させるために

◆無理です。がひとつは墳丘から正当に論じることです。次、梅山が敏達未完墓である蓋然性を示すことだが、これはテルちゃんが言い尽くしているので、そこまで。反論できるとすれば、丸山が稲目墓で、堅塩姫を追葬する時にそれを奥に置き、それを612年だかに欽明墓に移したという理解だが、小姉君の石棺がなくていいんですかね、ということくらい。考古学的には、改葬する際、石棺を動かすのか、別棺に移して運ぶのか、という問題がありますね。あとは稲目墓とみる蓋然性の高い別墓を示すことだ。が、これまた難しそうですね。これ丸山をそうでないというのを否定するのが難しいという意味ではないですよ、稲目の軽曲殿はその通りであるが、6世紀と7世紀はだいぶ事情が違うように思うし、とにかく埋葬地を書いていないものを、蘇我氏の本拠地や出身基盤を想定しながら古墳を特定するということが困難というもの。いくつか候補はあるにせよ。

直木先生の歌

◆7月6日に新聞に掲載されたそうです。紹介しておきます。これが記事そのままのもの。そのあと、難波宮を守る会ニュースに、先生自身が昨年掲載された2首を紹介しておられるのを知る。そしてまた、7月12日に掲載されたものが右。
◆直木先生、1919年生まれ、96歳。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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