人を幸せにする人になろう

切り替えを!7月9日

◆切り替えが下手である。というよりは、やりたいことがある時に、優先順位の高いものに行けな いのである(2週間ほど前も日韓基本条約50年という刺激を受け、明治期のことをずっと調べてました)。昨日、丸一日、アホなことに没頭していたモノデ。
◆本日、蝉が鳴くのを聞く。
◆生目3号、見直しました。後円部上段の発達具合からすると、3→1ではないかと。で茶臼山をもってきました。これで柄鏡の筋ができればいいんですけど。悪くはないかも知れません。

ああ明日は休講にしたい・・・

◆準備の必要な2つ、いま前日の21時前ですが、ほとんど何もできていません。まずいです。体調を 崩して休みたいものです。
◆五条野丸山ですが、こないだ橿考研の展示で橘の図が出ていて、図録にも載っていました。欽明墓の設計はどう考えればいいんでしょうかね。220歩でちょうど330mになります。まあ、河内大塚山とかとの比較図も、この最新図で作り直しです。ところで、地所的に五条野村が大半というのは理解できるのですが、村そのものは離れており、くっついているのは見瀬です。
◆例えばこうもり塚とか、前方部は細いが、後円部をあわせてやると、細く伸びる前方部の前端位置とか、のってこないでしょうか。

考研論文はほぼ上がる

◆ほぼできました。しばらく寝かしておきましょう。福永方式です。

藤ノ木古墳

◆同じことの繰り返しではある。須恵器がある。MT85というにはしんどいのでしょうか。N先生は無蓋高杯の下の透かしが三角で、カキ目をまわすことに古相を指摘する。また、楔形大刀は560年前後という。倭風の大刀しかもたないというのも意味深長かもしれません。王権からの下賜品である楔形大刀のみで、大伴からの単龍大刀、蘇我からの双龍大刀をもたないことは、やつらから独立した存在であることを思わせます。とくに136㎝の破格の大刀2振りをもつ。馬具は何セット?。うち1組は鐘形ですよね。Uさんの論文を読まないといけないが、昔、O先生の論文を読んでいた限りでは、南塚など、TK10を中心とし、大型化した新し目として550年くらいというのは悪くはない。
◆そもそも天王山式の赤坂天王山が崇峻陵とすると殺害される592以前の石室で、580年代後半とみられる。藤木は穴穂部とすると587だ。たぶん若く、それまで墓を造っていないように思うが、まあ数年前に始めていたって構わない。つまり、白石先生の年代観でいくと、赤坂天王山とほぼ同時期の石室となる。それはありえね~、ということです。天王山式について崇峻とは決められないとし、被葬者が確実なのは牧野で、600年前後まで生きていたとみられるから天王山式を600年前後とすることでかわす。その論法に乗ったとしても、せいぜい10年ほどだろうし、藤木の石室と天王山式ではかなりの乖離がある。もひとついえば、藤木を天王山式に先行する平林式とするが、藤木と平林を比べても、藤木はより古い石室であるように思われるが。ともかく藤木が穴穂部というのは成立する余地がない。
◆やはり片袖から両袖への変化を含めた横穴式石室の編年を組まないといけません。早い時期は、いろんな系統もありうるのかもしれないが、そこは平林とか天王山以降で考えられているような主流の大型石室としては、今城塚は不明としても市尾墓山で代用でき、その頃からあるに違いなく、主たる系列はならべられるんとちゃうやろか。

ある原稿の註

◆邪馬台国の所在地問題において、〈魏志倭人伝〉の記述も三角縁神獣鏡も重要であり、寺沢薫の いうように、戦後の考古学が重ねてきた発掘調査にもとづく3世紀前半の倭の復元もさらに重要である。〈魏志倭人伝〉の記述で言えば、末ラ国から伊都国は東南、伊国国から奴国も東南とあり、実際には東北でほぼ90度誤っており、邪馬台国への南は東になる。三角縁神獣鏡の1990年代の研究は中国製で銅鏡百枚にふさわしいと考える根拠を積み上げてきた。3世紀前半の倭国について本稿では扱わないが、ヤマト国は畿内と考えることが了解されている。1点のみ指摘すれば、魏への朝貢以前に卑弥呼は公孫氏政権につながっており、その時期に相当する漢鏡7期の鏡からも裏付けられるが、その分布は北部九州を飛ばして畿内が一括入手している〔岡村1999〕。そのあとの魏と通交のあった範囲が九州北半にとどまるとみる九州説は成立しがたいだろう。九州説の場合、ヤマト国が具体的にどこで、伊都国や奴国をも統属するあり方を3世紀前半の遺跡に即して示さなければ、机上の空論に過ぎない。九州説には、特定のアプローチからのみの、しかも対立側の議論を無視し自説を言い放つだけのものが多い。さまざまな材料とアプローチがあり、すべてを1人が扱えないにせよ、歴史学として総合的な判断が望まれる。

継体即位は503年だ

◆隅田八幡鏡の503年の意味である。日本書紀の継体即位は507年、継体は25年在位し、531年に没したとされる(日本書紀では534年としながらも、最終的には百済本記により531年を採用したと注記される)。一方、古事記の崩年干支は527年である。河内大塚山の造営期間を考えれば、やはり古事記が妥当とみている。
在位年は25年で、没年が527年とすると元年は503年となる!これ、とっても重要だと思いますよ。継体元年は503年とみるべきですね。隅田八幡の鏡の重要性がよく理解できる。503年には当然意味があるわけだ。なぜ503年に鏡を送ったのか、それは北陸から担ぎ出された継体が執政権を掌握したからであろう。継体即位は503年、武寧王のクーデタ即位は502年、示し合わせての行動とする見方も頷ける。
◆そして日本書紀で507年とあるのは、仁賢没が506年であったことを示すのではないか。
【追記】雄略についても、489年没だが、479年となっているのは清寧没ではないかと憶測する。こっちは説得力はありませんが、清寧陵と考える軽里大塚が岡ミサンザイより古いことから、それでいいんではないかなと。キナシ→清寧の継承が雄略即位より後なので、雄略→清寧としているのだろう。そうなると仁賢は480-506ということになる。

考古学研究の原稿はできそうである

◆少し頭出ししてやっていたが、諸々あるものを順番づけて片づけないと7月が乗り切れず、そう考えると、いちばん手の付けやすいのが春の大会発表のこの原稿。本日、7月4日で、ほぼ形ができてきた。文章は最終章を残すのみ。家に帰ってやっつければ、注や参考文献をのぞけばできあがりそうである。さっさと・・・

たぶん古市百舌鳥かな~と

◆5月の新聞を取っておいたのがでてきました。同じ日に兵庫城の記事も出ました。

原口を纒向型とはいわない

◆たぶん行燈山でいいんでしょう。前方部のテラスもあってますね。小熊山とともに、ということだ。

すこしこの3日で

◆土日は平穏なにもなし。金曜日を含め、ここで稼がんとあかん。だが、今日は徹底的に雑用を片づけよう。「雑用、時々、前方後円墳」である。
◆水曜日に、うちのオープンキャンパスの時に配布する文学部案内、これ支援機構が編集するのだが、2回生の子がインタビューに来た。3つ質問があり、1問目。なにを研究してるんですか、というので古墳時代の倭国王墓の巨大前方後円墳をやっていると答えると、じゃあダイセン古墳なんかですね、という反応が返ってきて、思わずうれしくなる。が仁徳天皇陵古墳となれば、教科書検定もそうなり、そのうち「仁徳天皇陵でっか」という受け答えになってしまうのである。
◆教科書は大事ですね。ある大御所の先生は、誉田御廟山といってもわからんという言い方をする。応神陵やろ、と。応神が入っていると考えていないにせよ。年寄りは新しい名前が覚えられないのである。だが、10代の若者は、あの堺にあるでっかいヤツは最初っから大仙古墳と覚え、覚えられるし、それで定着する。実は宮内庁が仁徳天皇陵として治定しているということさえ知らないということにもなる。それが森浩一のめざしたところだろう。逆に、教科書が仁徳天皇陵古墳となり、それを覚えさせてしまうことの問題が表裏の問題として横たわる。仁徳天皇陵古墳と覚えたことは一生刷り込まれるわけだ。
◆やっと考古研同窓会の仕事を終えた。次は久津川車塚、だな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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