人を幸せにする人になろう

御廟野古墳見学記3

◆それとトップ。トップから1mくらい下に8角のまた縁石がある(見えません)。斜面途中という ことだが、後述する大きな石が周囲にあり、そのへんはやや緩斜面になっているように見える。おそらく8角の墳丘本体の上は平らに整えられており、すこし内部に引いたところに8角のおそらく加工石を基底石として(地覆石ですわ)据えていると考えた方がいい。そして、書陵部紀要にある通り、その上に載っていたであろう大きな(材は?)石が崩され、縁石の外に点在していたり、斜面途中にずっていたりする。大きさは、どうだろう40㎝程度の厚みはあり、長さは1mくらいあったりする。書陵部紀要の写真と図面を点検する必要があるが、この大きな石は、今日、下からでも見ることができた。なかには、ある面を平らに加工しているのだろうと思うものもある(南面)。
◆要するに、いま座っている8角の地覆石の上に、より大きな石材が積まれるのであろう。この縁石より上は、いま高さ1m程度のまんじゅうのような高まりになっていて、キャップみたいな高まりを頂部にもつ、といったことも言われているようだが、今日の印象では、垂直的な基壇が上に載るとみる方がいいと思う。それにしては石が少ないということもあるだろうが、転用するのに適度な石で、運び出されたものもあるのではないだろうか。そりゃ1340年経過してますのでね。
◆基壇外装の石がすべてはずされるか転落し、地覆石だけが残り、土が流れ、いまのような姿になっていると理解できる。で、ふと思ったわけです。まあ、1mの高さの基壇があったとして、何のためにそんなことするのかと。むろん、そういう表飾でもいいわけだけど、前期古墳のように埋葬施設上にその表示として方形壇を明示する必要はあまり感じられない。そうすると、建物があってもいいのではと思ったのです。江戸時代には8角堂があったらしいが、それ7世紀後半からあるんでは、その可能性はあるのでは?、と。やめときます。とにかく、30度くらいの墳丘斜面とは区別され、トップは垂直な石で外装した基壇状としていた可能性がある、というところまでにしておこう

御廟野古墳見学記2

◆靴石というのがある。方形段の縁石が、南辺中央のこの部分では石英斑岩らしいがきれいになら び、それに接して、その下に、幅3m、厚さ30センチの巨大なこれも石英斑岩らしいが、靴石なるものがデンと据えてある。なので、方形段からはみ出すわけだ。完全にキレイに掃いてくれているとウレシイのだが、そうでもなく、重なりは不明瞭だが、靴石が下で、縁石が上に乗るのでは。
◆要するに石室開口部、そこから続く墓道、その位置に据えてあるということだ。確か、アオキノ山陵記では天武陵でもそうした石がある記述があったような。完全に石槨を埋め込むのは7末まで下り、天武陵は石室で短いながら羨道がある。だから、おそらくハの字にやや開く墓道があり、石室開口部の扉的施設が見えるような完成形であったのだろう。おそらく盗掘もされているのでは。今日の話では、山科は禁裏御料となり、天智陵は大事に守られてきたとされるが。なので、おそらく修陵段階で、窪んでいるところに土を入れ、封鎖したのではないだろうか。

御廟野古墳見学記1

◆朝、今日は呑み会になると思うので電車にしようかとも思ったが、車塚の現場の時間を確保する ために はやはり車。11時過ぎに出て、山科には12:15くらいに着いたか。腹ごしらえをして集合場所に行くと、12:30くらいだが、ほぼ集まっており、無事、順調に13時から始まる。
◆迫力があった、見応えがあった。なかなかよかったです。なぜか、まあよく残っているわけです。基底の切石や靴石などの構造物も適度にあるし、葺石がかなり見え(上)、そして8角の斜面がよくわかり、その下の方形の段も含め、あまり後世の改変なく、こっそり残っているという様子である(下)。
◆8角は、この段階は方形の4つの角を落とす形で、東西南北の面と斜めの面で構成される。なので、西南、東南、東北、西北のところは三角形状のテラス面が実に美しく見え、東西南北の辺のところでは、下の方形段とほぼ接するようになっているが、上の段の流出で狭くなってはいるもの の、犬走り状に平坦面が通る。アタシの復元でいけば、おそらく1歩1.5m幅なんだろう。
◆方形壇は高さ1m強くらいかな。で、上からの土が被りにくく、またテラス面の自然流出もいくぶんあるとして、見えてくるのはコーナーの石。4つの角すべてに、原位置を保つ凝灰岩切石がある。きっと基底石だろう。そう、基底石のみが切石で、斜面は基本的に川原石なのである。だから、貼り石ではなく、雰囲気は葺石で、天武陵のような切石をがちがちに組み上げたものでなく、古墳時代の古墳っぽい。
【註】写真はやめときます。後日また。

久津川車塚、2月20日

◆朝、6:30には起きながらダウン。再び起きた時は、9:00には間に合わない時間。車塚に着いたのは、9:30くらい。山科に向かう11時まで現場。南区の調査、作業員さん1人に削ってもらいつつ、うちの学生・院生は、造り出し上面の礫出し、東西畦沿いの幅1mは、ほぼなにもなく礫もまばらだったんだろうが、やや下げすぎで段差になっている・・・。完全にピュアな面まで下げると掘り過ぎ。造り出し盛土面があり、埴輪を据え、礫を敷き、そう厚くはないそれらが遺構で、それが露出している間に表土化し、草木が生えたりさまざまな撹拌を受け、さらには江戸期の洪水層で流されたりしている。それで堆積した黄色粘質土も礫の隙間等に入り込んでいく。礫はきたない土のなかにあ り、埴輪が下に噛む、と。それらは厳密には動いているわけだが、はずしていくと何も残らない。黄色土やきたない土を礫や埴輪片を残しながら間をほじり、箒ではいて起こした土を取り除く、そういう作業をひたすら繰り返すことで、礫面残存状況を表現するほかない。埴輪片は基本的には残しつつ、状況が判明した段階で、樹立埴輪との関係でひとかたまりなものを残しつつ、遊離しているものは、今日設定した1mの地区ごとに上げればよいだろう。それで、一定の掘り上がり。樹立埴輪に帰属する形で、残っている埴輪片をどこまで上げるかは、当今、文化財保護部局との相談も必要。あとは、カゴメ土器などの、方形区画内部の食物供献化器類は、とくに重要なので、確認すれば、基本的には残し、原位置を記録した方がよいだろう。
◆てなことを教えつつ、ほじほじをさせる。11時に現場を離れたが、さあ、どうなったか、本日の報告を待とう。

疲れるが、まあ楽しい

◆弥生の「若い考古学徒、論壇デビュー」はありがたい企画で、それめざして準備するいい機会である。先週以来、ほぼ毎日時間を取って、院生1人と向き合っている(普段は何しとんねん、と言わないでくださいね。普段もやってますが、それに加えてと)。22時もまわり、明日はつきあえないので、あとは自分で、やれるだけ資料をブラッシュアップせよ。帰ろ。バタバタの1日でした。

車塚、2015年2月19日

◆なんとか資料を10:30までにやっつけ、+3人分の資料を組み込み、表紙裏のプログラムをつけ、裏表紙が白いのも芸がないので実習展のリーフレットの1頁を使い、12:30くらいから印刷にかかったのだろうか。13時から大阪市博物館協会の方、大学地域貢献の方も集まってきて、いろんなチラシをあわせて手提げ袋に封入する。今日できてよかった。昨日、無理かもと電話し、今日の朝、状況を連絡するとしたが、なんとか予定通りの日と時間でやれてほっと胸をなでおろす。これ、自分がさぼって間に合わなかったら、けっこうな信用問題だったかも・・・。
◆だいたい14時頃に先が見えてきて、車塚に行くことにする。14:35頃に出て、15:45には現地に立ったか。第2京阪は大きい。
◆現場を見ると、案の定、土をなでている。それでは下は見えません。道具が小さすぎる。バチをもちさっさと削り始める。南辺の埴輪の東側を削っていくと、埴輪片まじりの濁った土と、洪水層の黄色粘質土がきれいに分かれる。埴輪からそう距離はないが、肩である。だいたいわかったので、それより南の純粋黄色土はほっといて、肩部をはさんだ一定幅を西へ削っていけば、ほぼ南区は決着する。
◆城陽市と拡張の相談。南区のみ、西へ東へ、両側に拡張することにした。それと、いま見えている埴輪の高さと、それを覆う耕土を考えると、下段テラス面と造り出し上面の間の小斜面は、おそらく飛んでいると思われる。基底石くらい残っていないものか、そこだけは注意が必要。
◆明日は、午後から天智陵なので、朝から11時くらいまでなんとかいて、南区の肩沿いの一定幅をぜんぶ削って検出してしまいたい。

庚午年籍と7世紀史

◆卒論試問と院入試、いやなかなかに疲れます。改新シンポの資料は3頁までいくが、中身を作るため、大阪の図面作業に切り替えいじっているが、確たる成果もなく時間は過ぎる。まあ、そこは土曜日にまわして、資料を完成させることにしよう。金曜日は天智陵なので、明日中に印刷しなければならない。
◆庚午年籍670は金字塔ではないだろうか。むろん、そればかりではないが、古墳時代の地域のあり様を考えたとき、1人1人を把握するのが、645からの25年で達成されたことは、われわれはよくよく認識すべきではないだろうか。王族や豪族層の利権が完全に払拭できないにしろ。それと7世紀史のキーワードが官僚制と公民制というのはわかるが、その手前もまた大事なことである。何のために官僚制ができるか、公民制ができるか、ということ。古墳時代側からすれば、列島にさまざまな権力体があり、それぞれの地域に盤踞している。しかしそれをくくる連合的枠組みを作り上げ維持してきたと。それを紀元前3世紀後葉の始皇帝が、封建制を一部残す意見を退け全国に郡県制を敷いたように、統合の枠組みを中央権力のコントロール下に分割支配する地方行政制度の導入こそがミソなのである。そのために部民を廃止して公民化をはかり、列島を運営するための官僚制が必要となる。根本は列島の統治形態の一新にあるわけだ。

2月16日、車塚 記事№2700

◆今日は17日、大学院入試です。昨日から学生達が現場に入り、埴輪の立っていた南区を1段下げて いっているようである。南辺となるだろう埴輪の続き、西辺となるだろう埴輪も確認されつつあるようです。机に座っているのがいやだが、改新シンポの資料を昨日から作り始めている。まあ、そんなんで、めでたく造出し上面が調査区におさまり、東西畦はそれを横断する位置になったことはめでたい。が、西辺の周濠へ落ち込んでいく肩は調査区外のようですね。もう少し外目だったか・・・。早めに拡張するか、畦沿いにトレンチ状にのばすか、まあ、一通り剥いてから。
◆写真は手前横方向が西辺で、縦方向が南辺です。
【追記】17日。昨日の続きで南区の残りのガリかけと北区のガリかけに少しかかったところで本日は終了しました。南区ハニワ列があるであろう所からハニワが出土しました。by山口。18日。前日に引き続き、北区のガリかけを行いました。しかし、何度か雨で作業を中断したため、あまり進んでいません。by京極。

6尺1歩

◆6尺1歩はブ。ホではない。

車塚2015年2月15日

◆日曜日の朝、宿舎に入れとくもの、洗濯機廻りのセットに行く。ついでに現地の写真を撮ってきたので出 しておきます。まあ行っただけで、早々に大学に(11:00)。明日から楽しみにしてください。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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