人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
28日の土曜日、さて今日は
◆昨日27日、採点を切り上げ、午後、現場にむかう。で本日、土曜日、しゃかりきでやって採点を終える。今日はこのあと、ここ2週間分のできごとを整理し、雑用を徹底的に片付け、明日は丸1日開けて、コウケンの準備をやりたいものだが・・・。
【追記】いま20:30。エンエンと雑用をテキパキ片づけているが、終わりが見えません。やることがありすぎる。
【追記】いま20:30。エンエンと雑用をテキパキ片づけているが、終わりが見えません。やることがありすぎる。
疲労困憊
◆25日は現場終了後、大学へ向かうつもりではいたが、帰り、車を走らせていると疲労感でぐったり。ドカ掘りをしたからでなく、現場では元気なのだが、このところの疲労で、楽しい現場を離れるとぐったり。早々に家に帰り寝る。
◆が、なかなか疲労は回復せず、26日、入試の採点会場でもグッタリ。明日27日、なんとか2日目を切り抜け、土日はようやく何もないので、ここで回復させよう。なお、降雨のため、26日は車塚の発掘はなし、学生らは埴輪洗いをやりました。
【追記】どうも睡眠不足のよう。疲れていたのは確かで、現場やって早く家に帰り、酒を飲んで早くに寝るも、現場の高揚感か、このところ4時くらいに目が開いてしまうのを繰り返し、もっかい寝たらいいのだけど、ついつい、あそこはどう掘るといったことに頭がいってしまい、そのまま起きているので、そういうサイクルになっていることが原因のよう。
◆が、なかなか疲労は回復せず、26日、入試の採点会場でもグッタリ。明日27日、なんとか2日目を切り抜け、土日はようやく何もないので、ここで回復させよう。なお、降雨のため、26日は車塚の発掘はなし、学生らは埴輪洗いをやりました。
【追記】どうも睡眠不足のよう。疲れていたのは確かで、現場やって早く家に帰り、酒を飲んで早くに寝るも、現場の高揚感か、このところ4時くらいに目が開いてしまうのを繰り返し、もっかい寝たらいいのだけど、ついつい、あそこはどう掘るといったことに頭がいってしまい、そのまま起きているので、そういうサイクルになっていることが原因のよう。
2月25日車塚、黄色粘質土との戦い
◆国公立大学前期入試。なにも役回りがなく、この日は1日、現場。今日は重機で拡張。
◆北区では新しい現代溝を前日に掘り、下の様子がかなり判明する。どうやら墳丘側の東半分は大穴が開いていたらしく、洪水層が厚く堆積している。そこで、面的に削り、この凹部を平面で検出して掘っていくべきなのだが、現代溝の断ち割りで答はわかっているので、東半分に正丁を投入してドカ掘り。2スコ以上の厚みを掘っていき、かなりの土量を上げた。造り出し上面にあった家形埴輪の破片が凹部に落ち込んでおり、大きな礫もかなり入り込んでいる。
◆東の墳丘斜面側からの転落石もあるのかもしれないが、造り出し上面に大穴が開けられたのは、そんな早い時期でもないと思われ、墳丘斜面は腐葉土に覆われ安定し、上からごろごろ石が落ちてくる状況でないだろうし、埴輪とからみながらの石の出方からすると、今日凹部から掘り出した拳大からそれ以上の大きさの礫は、元はすべて造り出し上面の礫敷の石だろう。
◆江戸時代の洪水層は相当なものなので、周濠を埋め尽くし、長期間水没し、微粒の粘土がメートル単位で堆積したもの。なので、造り出し上面も水流で洗われたであろう。なので、今日もちまちまと埴輪列 を含め上面の仕上げを2人にやってもらい小礫を出しているが、それもまばらであることが示すように、本来はそういうものの上に握拳大やさらに大きい、凹部に落ち込んでいたような礫で敷き詰められていたにちがいない。
◆それと、そういう状況を考えると、南区の南斜面に小礫が上面から続くように出てきていることも、全体が洗われていることからすれば納得できる。座った埴輪は残ってはいるものの、それ以外は洗い流されて周囲に流出したのであろう。
◆北区では新しい現代溝を前日に掘り、下の様子がかなり判明する。どうやら墳丘側の東半分は大穴が開いていたらしく、洪水層が厚く堆積している。そこで、面的に削り、この凹部を平面で検出して掘っていくべきなのだが、現代溝の断ち割りで答はわかっているので、東半分に正丁を投入してドカ掘り。2スコ以上の厚みを掘っていき、かなりの土量を上げた。造り出し上面にあった家形埴輪の破片が凹部に落ち込んでおり、大きな礫もかなり入り込んでいる。
◆東の墳丘斜面側からの転落石もあるのかもしれないが、造り出し上面に大穴が開けられたのは、そんな早い時期でもないと思われ、墳丘斜面は腐葉土に覆われ安定し、上からごろごろ石が落ちてくる状況でないだろうし、埴輪とからみながらの石の出方からすると、今日凹部から掘り出した拳大からそれ以上の大きさの礫は、元はすべて造り出し上面の礫敷の石だろう。
◆江戸時代の洪水層は相当なものなので、周濠を埋め尽くし、長期間水没し、微粒の粘土がメートル単位で堆積したもの。なので、造り出し上面も水流で洗われたであろう。なので、今日もちまちまと埴輪列 を含め上面の仕上げを2人にやってもらい小礫を出しているが、それもまばらであることが示すように、本来はそういうものの上に握拳大やさらに大きい、凹部に落ち込んでいたような礫で敷き詰められていたにちがいない。
◆それと、そういう状況を考えると、南区の南斜面に小礫が上面から続くように出てきていることも、全体が洗われていることからすれば納得できる。座った埴輪は残ってはいるものの、それ以外は洗い流されて周囲に流出したのであろう。
2月24日車塚
◆この日の報告ももらっているので、枠取りをしておきます。あとで埋めます。
◆午前/昨日と同じく北区のガリかけ作業を継続、レベル移動と南区の東壁・西壁の分層作業/午後/午前の作業の続き。人が多いので一気に北区を片付ける作業。Kさんに造出南側斜面を出す作業をしてもらう。石がごろごろ出ている。南区の東壁・西壁の層位図は作成完了、写真撮影も行ったので、明日は重機を入れて拡張予定。北区の調査に移る。既に攪乱を受けていると思われる耕作溝を掘り下げて北区の土層を確認した。耕作溝を掘り下げた断面をみると、表面の汚れた層の下に洪水堆積層が20cm程度みられた。東から西にかけて洪水層は上がっていき、墳丘構築土の赤い土が主体となる。恐らく北区東側は大きく攪乱を受けており、そこに洪水層が溜まったと考えられる。西側に向かうにつれて、墳丘や埴輪が残っていると思われる。耕作溝の底からは拳大の石や埴輪片が確認された。
◆以上、ミッチーの報告でした。助かるわ~。
◆午前/昨日と同じく北区のガリかけ作業を継続、レベル移動と南区の東壁・西壁の分層作業/午後/午前の作業の続き。人が多いので一気に北区を片付ける作業。Kさんに造出南側斜面を出す作業をしてもらう。石がごろごろ出ている。南区の東壁・西壁の層位図は作成完了、写真撮影も行ったので、明日は重機を入れて拡張予定。北区の調査に移る。既に攪乱を受けていると思われる耕作溝を掘り下げて北区の土層を確認した。耕作溝を掘り下げた断面をみると、表面の汚れた層の下に洪水堆積層が20cm程度みられた。東から西にかけて洪水層は上がっていき、墳丘構築土の赤い土が主体となる。恐らく北区東側は大きく攪乱を受けており、そこに洪水層が溜まったと考えられる。西側に向かうにつれて、墳丘や埴輪が残っていると思われる。耕作溝の底からは拳大の石や埴輪片が確認された。
◆以上、ミッチーの報告でした。助かるわ~。
2月24日、兵庫城
◆神戸市教育委員会と協議し開催されることになった見学検討会。案内としては大阪歴史学会主催という形を取る。現場の対応やその後の検討会のキャパもあり、見てもらったらいいと思われる範囲へ連絡してもらう形となる。その点、申し訳ありません。
日時 2月24日(火)
見学会 10:00~13:00 現地
調査担当者による遺構の説明(約1時間)
その後自由見学(調査担当者が随時説明)
意見交換会 14:00~16:00 中央市場本場 会議室 神戸市職員10人以上参加
研究会 17:30-19:30 三宮勤労市民会館
◆8:21の準急でほぼ10時現地着、広大な区画は3区に分けて調査され、最後の今回の区画は残存す る城跡がそっくり入るように設定され、堀の石垣が丸ごと検出されている。総勢30人くらいか、関西圏の城郭屋にかなり来てもらえたようである。昼を取り、2時から2時間ばかり、市教委の方も大勢加わり、遺構についての意見交換会。
◆終了後、大歴主催で、三宮に場所を移し、そこまでの議論をふまえつつ、学会側でどう対応していくかを検討した。今度の土日に具体に考えよう。ヒストリア4月号で城の専門家に書いてもらい、わたしも見学会参加記とともに、書きておきたいこともある。が実際には、3月中にどこまで何をするのかの方が大事。店舗建設で杭位置で壊れるところはむろん発生するが、設計変更がなされ、石垣はほぼそっくり地中に残るようである。遺跡は消失すること なく、9割方残る。なによりこれが大事。よかった。あとは、近代の最初の兵庫県庁であったことを含め、遺跡のありようを買い物に来た神戸市民に伝えることができるような、活用に課題が移っている。
◆3部構成で、20時終了、神戸大I氏のおかげで、1部、2部、3部とも、イメージ通りの内容となり、とても有意義であった。見学会、意見交換会をセットいただいた神戸市教委に改めてお礼申し上げるとともに、I氏のご尽力に敬意を表したい。で、神戸大のもうお一方と3人で慰労会をやり、帰宅したら23時でした。
日時 2月24日(火)
見学会 10:00~13:00 現地
調査担当者による遺構の説明(約1時間)
その後自由見学(調査担当者が随時説明)
意見交換会 14:00~16:00 中央市場本場 会議室 神戸市職員10人以上参加
研究会 17:30-19:30 三宮勤労市民会館
◆8:21の準急でほぼ10時現地着、広大な区画は3区に分けて調査され、最後の今回の区画は残存す る城跡がそっくり入るように設定され、堀の石垣が丸ごと検出されている。総勢30人くらいか、関西圏の城郭屋にかなり来てもらえたようである。昼を取り、2時から2時間ばかり、市教委の方も大勢加わり、遺構についての意見交換会。
◆終了後、大歴主催で、三宮に場所を移し、そこまでの議論をふまえつつ、学会側でどう対応していくかを検討した。今度の土日に具体に考えよう。ヒストリア4月号で城の専門家に書いてもらい、わたしも見学会参加記とともに、書きておきたいこともある。が実際には、3月中にどこまで何をするのかの方が大事。店舗建設で杭位置で壊れるところはむろん発生するが、設計変更がなされ、石垣はほぼそっくり地中に残るようである。遺跡は消失すること なく、9割方残る。なによりこれが大事。よかった。あとは、近代の最初の兵庫県庁であったことを含め、遺跡のありようを買い物に来た神戸市民に伝えることができるような、活用に課題が移っている。
◆3部構成で、20時終了、神戸大I氏のおかげで、1部、2部、3部とも、イメージ通りの内容となり、とても有意義であった。見学会、意見交換会をセットいただいた神戸市教委に改めてお礼申し上げるとともに、I氏のご尽力に敬意を表したい。で、神戸大のもうお一方と3人で慰労会をやり、帰宅したら23時でした。
2月23日車塚
◆朝、4時に目覚める。8時過ぎに現場に立つ。大阪大谷からも今週から参加(多いのはこの週だけ だが)。前日の雨で少々シートに水が。水替えの指示をしてやらないと、バケツやひしゃくや雑巾やら、もって出ることはないが、次はやってくれよう。濡れたシートは広げて干し、通常の場合はたたむべし。先週まで南区の埴輪列まわりの掃除をやっていたが、こんなんは後でよろし。養生しておき、広大な手つかずの北区の展開させることにする。一列に並ばせ、畦から北行きで削らせていく。作業員さん1人だけは南区の造り出し斜面の、斜面出し。それで10時、大学へ向かう。
◆11時から会議、12:30まで。そのあと今晩の大歴委員会の資料を完成させ、コピーし、13:30に大学を出て(教授会はパス)、現場に向かう。
◆14:40には到着。結局、この日は、北区の半分くらいまで削る。こっちは、南区の斜面出し。斜面にも小ジャリが上面から続き、下方では握拳大の礫が密にあったりする。きっと飛ぶものだと確信しているが、礫が密に出てくると不安になる。ひとまず洪水層を除去し、小砂利の斜面に仕上げ、次を考えることに。
◆終了後、梅田に向かう。
◆11時から会議、12:30まで。そのあと今晩の大歴委員会の資料を完成させ、コピーし、13:30に大学を出て(教授会はパス)、現場に向かう。
◆14:40には到着。結局、この日は、北区の半分くらいまで削る。こっちは、南区の斜面出し。斜面にも小ジャリが上面から続き、下方では握拳大の礫が密にあったりする。きっと飛ぶものだと確信しているが、礫が密に出てくると不安になる。ひとまず洪水層を除去し、小砂利の斜面に仕上げ、次を考えることに。
◆終了後、梅田に向かう。
いや~みなさんのおかげです
◆難波宮と大化改新シンポⅡを無事、終えることがデキタ。実は資料はこっちで刷ると請け負 い、実際、刷ったのだけど、実は1人分の2頁が抜けていて、木曜日のどたばたのなかで、確認を怠り、これで準備OKと思っていたのですが・・・。そのあと城陽に行ったのだが、確認のために発表者にほかの発表者のものを含めた通しのPDFを送っておいたのだが、留守の間に抜けているという指摘があり、実は、ぜんぶ刷り直したのだそうです。すいません~。
◆日曜日、本番当日、11時頃までパワポを作成しようやく完了、会場に出向く。天気予報は雨、客足はと心配したが、おかげさまで日中はほぼ曇り、ぞくぞくと人が集まってきて300人くらいにはなったのでは。1人40分の2番目。昨年はマシンガンのようにしゃべり、なんとか時間内でほぼ収めたが、今年はパワポの枚数も少なめだし、比較的ゆっくり目でもいけると思ったのが大間違い。このへんの感覚は、まだまだ未熟です。時間の半分が経過したところで、こりゃあかんと、サト領域論はすっとばし、なんとかまとめの話を入れ、それでも5分オーバー、10分オーバー未満くらい、少し足が出たのだろう。タイムキーパーの人、すいませんでした。
◆討論がしたがって1時間はなく、50分程度になるが、S氏の捌きで、無事、進行した。後半の2人とコーディネートの議論を聞いていて、どうしてもしゃべりたいので、最後、発言をさせてもらう。ひとつは尺度論。難波宮条坊が900尺というのに前から違和感がある。土地は高麗尺の歩でしょう。125歩として考えないといけない。前期難波の建物が29.2㎝だか、やや短いという話で、それで条坊を割ろうとしていて、天武段階の条坊と違うような方向を考えているように聞こえたので、そりゃちゃうでと。天武段階も高麗尺だろうし、孝徳段階のものそのままとみる方がいい。
◆もうひとつは、中国の都城の話にからみ、ここ半年の持論である、なんで内裏前殿というのか大極殿と言いませんかという話と、そのまえに広大な朝庭をもうけることは中国の影響を読み取れるんだろうが、そこに16もの朝堂を配置することが日本的なんだ、と主張させてもらう。
◆書いていると中身の話にやはり行ってしまったが、終了後の打ち上げで、発表者のみならず、大阪市博物館協会の方々、市大の地域連携のみなさんらと、楽しく呑めたことも、またうれしい。とはいえ、いつものメンバー的な考古・古代史の人間がひとかたまりになり、あ~でもないこ~でもないという楽しい議論を勝手にやっていた観はあるが、最後の方では向こう側にも行き、話もできた。
◆こっちはこっちで、大阪市との連携協定のなかで企画を考え、言い出した以上は自分がやらねばならず、しんどいことだが、でも楽しくやっているのだが、それを実行するにも、実に多くの人の協力があって成り立っていることを実感する。連携協定での各関係者の協力関係として、どこかが多大な負担をすることなく、相互に協力しあって実現できた観があり、とてもよかったなと思う。だからこそ打ち上げも楽しい。
◆日曜日、本番当日、11時頃までパワポを作成しようやく完了、会場に出向く。天気予報は雨、客足はと心配したが、おかげさまで日中はほぼ曇り、ぞくぞくと人が集まってきて300人くらいにはなったのでは。1人40分の2番目。昨年はマシンガンのようにしゃべり、なんとか時間内でほぼ収めたが、今年はパワポの枚数も少なめだし、比較的ゆっくり目でもいけると思ったのが大間違い。このへんの感覚は、まだまだ未熟です。時間の半分が経過したところで、こりゃあかんと、サト領域論はすっとばし、なんとかまとめの話を入れ、それでも5分オーバー、10分オーバー未満くらい、少し足が出たのだろう。タイムキーパーの人、すいませんでした。
◆討論がしたがって1時間はなく、50分程度になるが、S氏の捌きで、無事、進行した。後半の2人とコーディネートの議論を聞いていて、どうしてもしゃべりたいので、最後、発言をさせてもらう。ひとつは尺度論。難波宮条坊が900尺というのに前から違和感がある。土地は高麗尺の歩でしょう。125歩として考えないといけない。前期難波の建物が29.2㎝だか、やや短いという話で、それで条坊を割ろうとしていて、天武段階の条坊と違うような方向を考えているように聞こえたので、そりゃちゃうでと。天武段階も高麗尺だろうし、孝徳段階のものそのままとみる方がいい。
◆もうひとつは、中国の都城の話にからみ、ここ半年の持論である、なんで内裏前殿というのか大極殿と言いませんかという話と、そのまえに広大な朝庭をもうけることは中国の影響を読み取れるんだろうが、そこに16もの朝堂を配置することが日本的なんだ、と主張させてもらう。
◆書いていると中身の話にやはり行ってしまったが、終了後の打ち上げで、発表者のみならず、大阪市博物館協会の方々、市大の地域連携のみなさんらと、楽しく呑めたことも、またうれしい。とはいえ、いつものメンバー的な考古・古代史の人間がひとかたまりになり、あ~でもないこ~でもないという楽しい議論を勝手にやっていた観はあるが、最後の方では向こう側にも行き、話もできた。
◆こっちはこっちで、大阪市との連携協定のなかで企画を考え、言い出した以上は自分がやらねばならず、しんどいことだが、でも楽しくやっているのだが、それを実行するにも、実に多くの人の協力があって成り立っていることを実感する。連携協定での各関係者の協力関係として、どこかが多大な負担をすることなく、相互に協力しあって実現できた観があり、とてもよかったなと思う。だからこそ打ち上げも楽しい。
あかん、できん
◆陵墓立入り観察後、打ち上げがあったが、シンポの準備というのも頭にむろんあったが、事後検討会の終盤になる と、疲労感に襲われ、しんどいので、ゴメンしてもらう。なので家にはかなり早く帰り着き、早めに寝る。
◆朝から、ようやくパワポ作りにかかる。14時から3時間ほど、F氏と摩湯山の報告書の打ち合わせ。そのあと、パワポ作りを続けるも、21:40現在、資料6枚分の4枚分まできたが、終わらず。まずいです。明日は12:30スタート、われわれの集合は11:30なので、8:30に行けば3時間あるとはいえ、ちとしんどい。あとは郷領域論と、まとめなのだが。
◆で、大阪の図をさっき作り直していて、いちおう明日画像で示すものができたので挙げておきます。
◆朝から、ようやくパワポ作りにかかる。14時から3時間ほど、F氏と摩湯山の報告書の打ち合わせ。そのあと、パワポ作りを続けるも、21:40現在、資料6枚分の4枚分まできたが、終わらず。まずいです。明日は12:30スタート、われわれの集合は11:30なので、8:30に行けば3時間あるとはいえ、ちとしんどい。あとは郷領域論と、まとめなのだが。
◆で、大阪の図をさっき作り直していて、いちおう明日画像で示すものができたので挙げておきます。
御廟野古墳見学記4
◆で、言い忘れたが、8角の斜面ですが、途中で段があるのかどうか、埋もれているのではという指摘も検討会であり、そうやな~決めつけはできないな~、とは思った。しかし、既に書いたようにけっこう露出する石の具合を含め、見かけ上は、8角斜面が2段構成になるとかいった様子はなく、ひとつづきの斜面ではないかと思われた。天武陵が多段構成を取ることは頭に入れないといけないが、段の塚の8角上段も、おそらくひと続きだろうし、低い下段に高い上段というのが基本で、天武陵が新機軸を打ち出しているのではと思う。これ、凝灰岩切石貼り付けになることと関係するのでは。
◆さてと、いままでは上8角下方の範囲、その下にもうひとつ方形段がある。ここには石がひとつもないことも含め、基壇的な最下段だと思う。等高線からすると、それは斜面下方の南側のみと見えるが、現地で見れば、東西両側とも段差は北までのびていく。そうすると、きっと北辺もあって、埋まってわからないだけだろう。3段というのは違和感があり(むろんそれを含めて墳丘であり、3段構成ではあるが)、辺70mに近い基壇上に、上8角下方の墳丘を載せている、と理解したい。
◆さてと、いままでは上8角下方の範囲、その下にもうひとつ方形段がある。ここには石がひとつもないことも含め、基壇的な最下段だと思う。等高線からすると、それは斜面下方の南側のみと見えるが、現地で見れば、東西両側とも段差は北までのびていく。そうすると、きっと北辺もあって、埋まってわからないだけだろう。3段というのは違和感があり(むろんそれを含めて墳丘であり、3段構成ではあるが)、辺70mに近い基壇上に、上8角下方の墳丘を載せている、と理解したい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。