人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ヒストリア2月号も離脱し
◆前にも書いたかも知れませんが・・・。まあ、こんな調子です。『ヒストリア』は20日刊行、校了は10日、めんどうをみている企画関係の原稿は、だいたい月が変わってから入稿し、10日までに終わらせる。今回で言えば、裏表紙、陵墓(6頁)、ぴーす(5頁)、昨日入れ、今日校正をPDFでもらい、1回直して返し、念校が来て終わり。という調子です。陵墓ですが、西小山古墳を落とした図にさしかえました。Hさんありがとうございました。即、入りました。
◆通常の学会誌では考えられないことでしょうが、そこはもうそういうもんだと諦めさせている。企画委員がやっているいろんな社会的活動について、基本的に分担している院生とかに、できるだけタイムリーに、つまりあるイベントに参加したら、こういう集まりだったということを『ヒストリア』誌に短くとも出すことが有意義と考えれば、できるだけ直後の最新号に記事を書いてもらうようにしている。会誌の内容のバリエーション。そういう実績と、印刷所とのこれまでの関係のなかで、委員会的にも許してもらっているわけだ。陵墓だってそう、12月の見学会は2月号、2月の立入りは4月号、7月の陵墓懇談会は8月号(守れないときもある)、と決めてやっている。どこよりも早いですよ。へたすりゃ1年以上経過してから出ることも他ではある。むろん年6号出していることの、そこは強みもある。
◆いま事務局は関学の1年目で、2年交替で次は市大。なので、たぶん事務局長になるだろう。この時点で、12年間やってきた企画委員長も交代ということになる。が、後任がね~。それと、事務局長が終わった時、どうなるか。一度、足を洗ってもいいかとは思うのだが、3年先に考えるとしよう。ほんとは編集委員で残りたいんですけどね。
◆通常の学会誌では考えられないことでしょうが、そこはもうそういうもんだと諦めさせている。企画委員がやっているいろんな社会的活動について、基本的に分担している院生とかに、できるだけタイムリーに、つまりあるイベントに参加したら、こういう集まりだったということを『ヒストリア』誌に短くとも出すことが有意義と考えれば、できるだけ直後の最新号に記事を書いてもらうようにしている。会誌の内容のバリエーション。そういう実績と、印刷所とのこれまでの関係のなかで、委員会的にも許してもらっているわけだ。陵墓だってそう、12月の見学会は2月号、2月の立入りは4月号、7月の陵墓懇談会は8月号(守れないときもある)、と決めてやっている。どこよりも早いですよ。へたすりゃ1年以上経過してから出ることも他ではある。むろん年6号出していることの、そこは強みもある。
◆いま事務局は関学の1年目で、2年交替で次は市大。なので、たぶん事務局長になるだろう。この時点で、12年間やってきた企画委員長も交代ということになる。が、後任がね~。それと、事務局長が終わった時、どうなるか。一度、足を洗ってもいいかとは思うのだが、3年先に考えるとしよう。ほんとは編集委員で残りたいんですけどね。
かと思えば京大コウコケン
◆R大学W氏から、同窓会をHQ氏がやりたいと言っている、という話はこないだから聞いていた。で電話がかかってきて、来週、打ち合わせがあるのだという。修論試問の前でアチァーと思いつつ、「行きます!」と快く返事した(あかん歯医者の予約を変更せな)。HQ氏は1960年入学で都出先生と同期、市大では長山さんが同期になる。で、当時の宇治の教養キャンパスで、考古学研究会は産声を上げたわけである。4期下の昭和39年1964年入学が亡くなった鎌田元一氏である。
◆HQ氏、そして1983年に入学した時、OBで世話を焼いてくれていたのがT大学のI氏。甲陽学院閥みたいなもんがあり、高井悌三郎先生門下で、兵庫県下の寺院の発掘調査にサークルで参加することが多くなる。自分が入ったときは、もう終わっていて(前年が加西市の繁昌廃寺)、三ツ塚廃寺の窯跡の現状調査には行ったが発掘はなかった。われわれの時代は、1974年度からだったかに始まった、岩倉の窯跡の分布調査の時代であった。1回生の時に、皆越2号窯だったかを見つけ、脇のお宅の方から声がかかり、山道で切られた崖面に露出する灰原から採集されていた多量の須恵器片がどっさりやってきて、いまT大学のK氏が岩倉須恵器の編年案をその年の『トレンチ』第35号にまとめる。われわれが主力となる2回生(サークルは専門に上がる前の2回生まで)の時は、もう資料は十分で、現地測量を始めた。いまから考えれば国有地を含めて勝手にやってました・・・。『トレンチ』第36号はそれが中心。それでもって、前にも書いたかもしれないが、遺物を採集してきたOBら張本人は、われわれに『嵯峨野の古墳時代』に続く正式報告書を出せと。えらそうに・・・。まあ、それをやったわけですね。奈文研に入った年まで刊行はずれ込みましたが。
◆あかん、思い出話を書いている余裕はないはず。そんなんで、HQ氏を知っているくらいの範囲の中で(その下限がオレということか)、OB会をやることになりそうですね。
◆HQ氏、そして1983年に入学した時、OBで世話を焼いてくれていたのがT大学のI氏。甲陽学院閥みたいなもんがあり、高井悌三郎先生門下で、兵庫県下の寺院の発掘調査にサークルで参加することが多くなる。自分が入ったときは、もう終わっていて(前年が加西市の繁昌廃寺)、三ツ塚廃寺の窯跡の現状調査には行ったが発掘はなかった。われわれの時代は、1974年度からだったかに始まった、岩倉の窯跡の分布調査の時代であった。1回生の時に、皆越2号窯だったかを見つけ、脇のお宅の方から声がかかり、山道で切られた崖面に露出する灰原から採集されていた多量の須恵器片がどっさりやってきて、いまT大学のK氏が岩倉須恵器の編年案をその年の『トレンチ』第35号にまとめる。われわれが主力となる2回生(サークルは専門に上がる前の2回生まで)の時は、もう資料は十分で、現地測量を始めた。いまから考えれば国有地を含めて勝手にやってました・・・。『トレンチ』第36号はそれが中心。それでもって、前にも書いたかもしれないが、遺物を採集してきたOBら張本人は、われわれに『嵯峨野の古墳時代』に続く正式報告書を出せと。えらそうに・・・。まあ、それをやったわけですね。奈文研に入った年まで刊行はずれ込みましたが。
◆あかん、思い出話を書いている余裕はないはず。そんなんで、HQ氏を知っているくらいの範囲の中で(その下限がオレということか)、OB会をやることになりそうですね。
市大日本史の歴史
◆『市大日本史』の編集担当として、しばらく前から暖めてきた企画がある。できるだけ新制大学創設に近い頃の卒業生の側から見た、日本史研究室回顧録を、古いところから始めて下っていくというもの。そこで、直木先生に手紙を出し、だれそれに手紙を出し、これまで4名ほど当たってきて、1958年卒業生の方にほぼ決めた。58年3月卒業だとすれば、55年入学、昭和30年入学ということになる。昭和24年に市大ができ法文で出発し、分離して文学部ができたのが昭和28年、その3期生ということになる。まだ難波宮の調査が、法円坂の市営住宅建設にともないちょこちょこやりはじめたものの遺構が捕まえられていない時期ですね(第1次が昭和29年)。1955年8月に最初の掘立柱の柱穴が見つかる。卒業年の1958年春時点としても、内裏東面回廊をつかまえつつある時期だが、一気に進んでいくのは1959年だから、まだそれ以前になる。
◆手紙を見て、大学に電話いただいたのだが捕まらず(携帯の番号を書いておけばよかったですね。文面で反応が来ると思っていたもので)。今日、事務室に2回目の電話がかかってきたので(1回目の電話で連絡先を伝えていただいたのだが、折り返しかけなかった・・・)、まずいとただちに電話すると、とても気さくな方で、まだまだお元気そう。やはり一緒の卒業というのは運命共同体というのか、同窓会の集まりを2年ごとに大阪でやっているらしく、同期が4人いらっしゃるようだが、普段から連絡のあるもう一人と、『市大日本史』に書くことについて、いろいろ話もしていただいたみたいです。で、一度お会いしたいというので、日程調整に入っている。
◆まあ、こんなこともやっているのでR。
◆手紙を見て、大学に電話いただいたのだが捕まらず(携帯の番号を書いておけばよかったですね。文面で反応が来ると思っていたもので)。今日、事務室に2回目の電話がかかってきたので(1回目の電話で連絡先を伝えていただいたのだが、折り返しかけなかった・・・)、まずいとただちに電話すると、とても気さくな方で、まだまだお元気そう。やはり一緒の卒業というのは運命共同体というのか、同窓会の集まりを2年ごとに大阪でやっているらしく、同期が4人いらっしゃるようだが、普段から連絡のあるもう一人と、『市大日本史』に書くことについて、いろいろ話もしていただいたみたいです。で、一度お会いしたいというので、日程調整に入っている。
◆まあ、こんなこともやっているのでR。
ヒストリアの仕事で
◆今週はひたすら修論・卒論を読まねばならないのだが・・・。ひとつは修士課程院生の中間発表で、 毎日2人とむきあっている。それとヒストリア、陵墓、ぴーす、現地見学検討会、そしてさぼっていた兵庫城の話も舞い込む。これらをやっつけて、試験とレポートの採点をして、修論・卒論を早く読める環境を作り出さないといけないと、必死でやっているのだが、紀要の人文研究の原稿とか(ちょっとしたものです)、バックボーンとしては改新シンポとコウケンもあるし(だいたい行き帰りの時間でのイメージ作りに終始し作業をする余裕なし)、大阪城の本丸の測量の段取りとか、いろんなものが押し寄せてくる。来週には発掘器財を城陽に運ばないといけないし。
◆という次第。いかに無駄なく、優先順位を考え、仕事のバランスを取りながら、抜けなく、全体をうまくまわすために頭を使う日々です。
◆ひとつだけ。淡輪ニサンザイの宮内庁の調査の見学報告だが、若いモンに任せており、昨日、原稿が上がってきて、こっちで調整しているが、地図がいるやろと作り始め、作ってみました。西小山の位置がわからんが(そうか古い大阪府の報告書ならあるかも)。【追記】鹿児島方面から記入いただきました。ありがとうございます(下)。
◆もうひとこと。新聞にコメントが掲載された。原稿を見せられたとき、紀小弓の話は、また世間から非難される、と表現を変えてもらおうと思ったが、思い直してそのままとした。だって、そうかもしれないと思っているから。自分の気持ちにウソはつけない。ただし、なぜそう思うか。むろん一定の説明はできるが、自分としては和泉市史で、和泉の古墳時代中期をどう考えるか、そのなかで淡輪の評価は避け得ない、根使主をどう考えるか、そういうことをさんざん考えてきたことは、このブログにも書いてきたとおり。そういうバックボーンがあるわけだ。淡輪に葬るという記事は無視できない、がそれに相当するものは見あたらない、なんでやと。その上に、見学会で、くびれ部 の「方墳」を見て、もしかしてこれ?、と。
◆むろん、そういう思考を重ねてこようが、そこを強調したところで、間違っていたらそれまでのこと。訂正し、また考え直さなければならないが。またアイツはあんなこと言って、と批判があるだろうが、いろんなことを考えてきた上で、可能性としてアリではないかという意見なのである。別にわかってくれなくてもよい。孤独なもんだ。
◆もとい。陵墓の原稿も入稿、ぴーすの記事も書いて入稿。これから三田の見学会の広告文を書き上げて入稿、あとひとつちっちゃいのがあるが、ヒストリア2月号はこれで尾張。
◆という次第。いかに無駄なく、優先順位を考え、仕事のバランスを取りながら、抜けなく、全体をうまくまわすために頭を使う日々です。
◆ひとつだけ。淡輪ニサンザイの宮内庁の調査の見学報告だが、若いモンに任せており、昨日、原稿が上がってきて、こっちで調整しているが、地図がいるやろと作り始め、作ってみました。西小山の位置がわからんが(そうか古い大阪府の報告書ならあるかも)。【追記】鹿児島方面から記入いただきました。ありがとうございます(下)。
◆もうひとこと。新聞にコメントが掲載された。原稿を見せられたとき、紀小弓の話は、また世間から非難される、と表現を変えてもらおうと思ったが、思い直してそのままとした。だって、そうかもしれないと思っているから。自分の気持ちにウソはつけない。ただし、なぜそう思うか。むろん一定の説明はできるが、自分としては和泉市史で、和泉の古墳時代中期をどう考えるか、そのなかで淡輪の評価は避け得ない、根使主をどう考えるか、そういうことをさんざん考えてきたことは、このブログにも書いてきたとおり。そういうバックボーンがあるわけだ。淡輪に葬るという記事は無視できない、がそれに相当するものは見あたらない、なんでやと。その上に、見学会で、くびれ部 の「方墳」を見て、もしかしてこれ?、と。
◆むろん、そういう思考を重ねてこようが、そこを強調したところで、間違っていたらそれまでのこと。訂正し、また考え直さなければならないが。またアイツはあんなこと言って、と批判があるだろうが、いろんなことを考えてきた上で、可能性としてアリではないかという意見なのである。別にわかってくれなくてもよい。孤独なもんだ。
◆もとい。陵墓の原稿も入稿、ぴーすの記事も書いて入稿。これから三田の見学会の広告文を書き上げて入稿、あとひとつちっちゃいのがあるが、ヒストリア2月号はこれで尾張。
2月23日火曜日、博物館実習打ち上げ
◆まあ、寿司くらいあったらと思い、昼にネットで探しケータリング注文。15時に買い出し部隊と でかけるが、その前に学情1階のレストランがピザの宅配をしてくれるというので、これも注文。食い物はお菓子をちょこっと足すだけにして、酒を買い込みに。
◆16:20、蓋を開けると、文系の参加者がやや寂しかったが、そこそこ集まり、楽しく2時間程度、打ち上げをやった。理学部生との話で、文と同じく、実学みたいなもんが重視されるなか、何の役に立つねんとの攻撃に対し、文や理の学問の大切さをめぐって議論するなどした。植物とか動物とか、地質鉱物とか、1人は物理の院生もいたが、そういうことに早くから興味をもち、大学、そして多くは大学院まで進んで勉強している彼ら彼女らとの「近さ」を感じることができた。博物館・資料館でいえば歴史系よりやはり自然史系の博物館は限定されるのだろうが、大阪市立自然史博との関係は文より密のようで、学芸員の方をよく 知っており、やはり身近にそうした存在があることは大きいように思われ、そういう姿をモデルに、専門を活かした職をめざしてほしいものである。
◆散財したが、実に楽しく、飲み過ぎました。それと、この日があるので、提出されている文理の報告書、それに展示関係のこっちの資料を貼り付けて、加えて1人1人に書いてもらった感想文をくっつけて、74頁の2014年度博物館実習展報告書を、前日夜から作り始め、当日印刷し、参加者に渡した。これも青春の記録である。1年目から報告書にまとめてこそ事業の完結とやってきたが、提出されても、こっちの作業も多く、まとめの冊子を作り履修者に渡すことが理想とはいえ、これまでできなかったが、今回はじめて実現した。一度、モデルを作っておけば、次年度は、これを示し、こういうものを作成してゴールだからな、ということで、全体を彼らに任せるように段取りしよう。1年1年、こっちも進歩がある(退歩もあるが)。
◆16:20、蓋を開けると、文系の参加者がやや寂しかったが、そこそこ集まり、楽しく2時間程度、打ち上げをやった。理学部生との話で、文と同じく、実学みたいなもんが重視されるなか、何の役に立つねんとの攻撃に対し、文や理の学問の大切さをめぐって議論するなどした。植物とか動物とか、地質鉱物とか、1人は物理の院生もいたが、そういうことに早くから興味をもち、大学、そして多くは大学院まで進んで勉強している彼ら彼女らとの「近さ」を感じることができた。博物館・資料館でいえば歴史系よりやはり自然史系の博物館は限定されるのだろうが、大阪市立自然史博との関係は文より密のようで、学芸員の方をよく 知っており、やはり身近にそうした存在があることは大きいように思われ、そういう姿をモデルに、専門を活かした職をめざしてほしいものである。
◆散財したが、実に楽しく、飲み過ぎました。それと、この日があるので、提出されている文理の報告書、それに展示関係のこっちの資料を貼り付けて、加えて1人1人に書いてもらった感想文をくっつけて、74頁の2014年度博物館実習展報告書を、前日夜から作り始め、当日印刷し、参加者に渡した。これも青春の記録である。1年目から報告書にまとめてこそ事業の完結とやってきたが、提出されても、こっちの作業も多く、まとめの冊子を作り履修者に渡すことが理想とはいえ、これまでできなかったが、今回はじめて実現した。一度、モデルを作っておけば、次年度は、これを示し、こういうものを作成してゴールだからな、ということで、全体を彼らに任せるように段取りしよう。1年1年、こっちも進歩がある(退歩もあるが)。
イスラム国のこと
◆少し書いておこうと思ったのは、1週間前くらいか。もう忘れかかっているが、思い出して、と。
◆ヨルダンに捕まっている女性は、兄弟3人がイラク戦争で死んだとか。イラク戦争は、大量破壊兵器あるとの勝手な難癖をつけアメリカが攻め込んだもので、あとでなかったということになったもの。日本も賛同。サダムフセインのイラクがいろんな問題をもっていても、それは内政問題。スンニ派とシーア派の対立はなかったし、強権的ではあっても平和だった。それをいまの状態にしてしまったのはイラク戦争である。まずそれを押さえておかなければならない。
◆で、イラク戦争で兄弟が殺された、アメリカ憎し、当たり前である。むろんそれでアンマンの結婚式に突入することにより、多くの人名が失われ、憎悪が繰り返される。が、大国アメリカが憎くても、できることはそういうことであり、原因を作ったのはどっちなんだ、ということ。
◆これを繰り返す限り、憎悪の連鎖は断ち切れないだろう。空爆でイスラム国を叩いて、効果があったとしても、そして一時的に落ち着いたとしても、ぶりかえすに違いない。武力による決着がすべてではない。一方的優勢による休戦合意は、すぐに崩れるだろう。日本国憲法。国際紛争を解決する手段として、永遠に戦争を放棄する、しかないのである。20世紀初頭の勝手な国境の線引きで今に至る混乱を招いた西欧諸国のやるべきことは、休戦を導き、それを維持し、公正な当時者の話し合いを主催し、どこにも肩をもたず、彼らの合意による枠組みの再構築を成し遂げ、そこに民主的な手続きによりモノゴトを決めていく道筋を引き、最低50年くらい持続するまで、責任をもって社会を安定させ、人々の生活が成り立つよう援助することだと思う。
◆ヨルダンに捕まっている女性は、兄弟3人がイラク戦争で死んだとか。イラク戦争は、大量破壊兵器あるとの勝手な難癖をつけアメリカが攻め込んだもので、あとでなかったということになったもの。日本も賛同。サダムフセインのイラクがいろんな問題をもっていても、それは内政問題。スンニ派とシーア派の対立はなかったし、強権的ではあっても平和だった。それをいまの状態にしてしまったのはイラク戦争である。まずそれを押さえておかなければならない。
◆で、イラク戦争で兄弟が殺された、アメリカ憎し、当たり前である。むろんそれでアンマンの結婚式に突入することにより、多くの人名が失われ、憎悪が繰り返される。が、大国アメリカが憎くても、できることはそういうことであり、原因を作ったのはどっちなんだ、ということ。
◆これを繰り返す限り、憎悪の連鎖は断ち切れないだろう。空爆でイスラム国を叩いて、効果があったとしても、そして一時的に落ち着いたとしても、ぶりかえすに違いない。武力による決着がすべてではない。一方的優勢による休戦合意は、すぐに崩れるだろう。日本国憲法。国際紛争を解決する手段として、永遠に戦争を放棄する、しかないのである。20世紀初頭の勝手な国境の線引きで今に至る混乱を招いた西欧諸国のやるべきことは、休戦を導き、それを維持し、公正な当時者の話し合いを主催し、どこにも肩をもたず、彼らの合意による枠組みの再構築を成し遂げ、そこに民主的な手続きによりモノゴトを決めていく道筋を引き、最低50年くらい持続するまで、責任をもって社会を安定させ、人々の生活が成り立つよう援助することだと思う。
法隆寺に1500円出して入るだろうか
◆法隆寺の拝観者のグラフがあり、維持のため1000円から1500円に増額するんだって。門まで行って引き返す者が増えるだろう。いま、奈良や京都の著名なお寺の拝観料がどんなものか知らないが、800円くらいなら入るかな。学生だったら、まあ500円くらいでないと入らんのとちゃうやろか。
1月30日、水野先生の告別式
◆昭和ひとけたで、自分の親と同世代。森本六爾の『考古学研究』に感銘を受けて、この世界に入り、京大人文研で開催された日本考古学協会の大会で、高校生ながら発表に対して鋭い質問をして注目される。大阪学芸大学に進学し、鳥越憲三郎に接し、土井が浜の調査や、京大の調査に参加。松岳山古墳の報告書の石釧の図はすごいですよ。滋賀県教育委員会、大阪府教育委員会、どこかで奈文研にも在籍したはずだが、文化庁に行ったのはいつなのか、1979年の奈良大赴任までの生き様、滋賀県や大阪府に在籍した時はいつで、どんな調査をやり、どんな問題が起こった時期であったのか、なかなかわれわれにはわからない。ついに、ご本人としては書き残さず逝かれたのか、あまり流布しない形の冊子などがあるのか、それもわからない。
◆走り続け、振り返る機会もないまま、エンジンが停止してしまったのかもしれない。カミさんは「しゃべり続けて燃料が切れたのかな」と。亡くなる前の直前も、今城塚古代歴史館で1時間40分、講演されたとのこと。火曜日、朝食を取ったあと、心不全に襲われたのだという。
◆(1)日本の遺跡保護行政における開発前の原因者負担制度の確立、(2)700人という文化財業界でいま一線で仕事をしているみなさんを育てたこと、(3)膨大な講演を通して、考古学ファンを生み出し、考古学や遺跡保護の普及に大きな役割を果たしたこと、が挙げられる。人の2倍も3倍もの仕事をされた。そして楽しく掘り、学び、研究し、仕事をする姿勢、これもまた忘れることはできない。こうした水野イズムの、いくらかであれ継承していきたい。
◆高槻の会議のあと、JR線で大阪まで一緒だった機会が1回だけある。数々の講演のスケジュールで埋まっている話、「年いったらお腹がすかない、あんまり食事せんでもええ」といった話を聞いた。
◆もうひとつは、根来の問題。たしか、奈文研の庁舎とのお別れ会で、田辺さんから、「お前、やりすぎや。水野先生が、どれだけいろんなことを考えて、各方面に働きかけ、まとめようとしているか、ちゃんとわかっとけ」と怒られた。当の水野先生は、その時カバンにあった根来寺跡保存管理計画の図を出してきて、考えるところを説明してくださった。「いま保存管理計画の検討段階のものはもっていないから、いずれちゃんとあなたに説明する機会を作るから」、といったこともおっしゃられた。田辺さんが説明してくださったこともよくわかるし、水野先生に「すいません」と頭を下げた。でもその時も、もう忘れたが、「あなたたちの言っていることもわかる」とか、「そういうことを言うことも必要なんだ」というニュアンスの言い方をされたように思う。数々の保存問題に対処されてきた水野先生は、怒ってはいなかったと思う。すべて丸く収まることはありえないなかで、現実的なところをさぐり、考え方をちゃんと説明するからと、誠実に対応してくれようとしたのだと思う。
◆そういう水野先生を信頼しているし、最終的に折り合えない点があるにせよ、それぞれ遺跡に即して考えているという相互理解はあったと信じている。晩年、ようやく話をさせていただく機会ができたくらいで、それまではほとんど接点がなかったが、水野イズムの影響を受けていることは間違いない。
◆走り続け、振り返る機会もないまま、エンジンが停止してしまったのかもしれない。カミさんは「しゃべり続けて燃料が切れたのかな」と。亡くなる前の直前も、今城塚古代歴史館で1時間40分、講演されたとのこと。火曜日、朝食を取ったあと、心不全に襲われたのだという。
◆(1)日本の遺跡保護行政における開発前の原因者負担制度の確立、(2)700人という文化財業界でいま一線で仕事をしているみなさんを育てたこと、(3)膨大な講演を通して、考古学ファンを生み出し、考古学や遺跡保護の普及に大きな役割を果たしたこと、が挙げられる。人の2倍も3倍もの仕事をされた。そして楽しく掘り、学び、研究し、仕事をする姿勢、これもまた忘れることはできない。こうした水野イズムの、いくらかであれ継承していきたい。
◆高槻の会議のあと、JR線で大阪まで一緒だった機会が1回だけある。数々の講演のスケジュールで埋まっている話、「年いったらお腹がすかない、あんまり食事せんでもええ」といった話を聞いた。
◆もうひとつは、根来の問題。たしか、奈文研の庁舎とのお別れ会で、田辺さんから、「お前、やりすぎや。水野先生が、どれだけいろんなことを考えて、各方面に働きかけ、まとめようとしているか、ちゃんとわかっとけ」と怒られた。当の水野先生は、その時カバンにあった根来寺跡保存管理計画の図を出してきて、考えるところを説明してくださった。「いま保存管理計画の検討段階のものはもっていないから、いずれちゃんとあなたに説明する機会を作るから」、といったこともおっしゃられた。田辺さんが説明してくださったこともよくわかるし、水野先生に「すいません」と頭を下げた。でもその時も、もう忘れたが、「あなたたちの言っていることもわかる」とか、「そういうことを言うことも必要なんだ」というニュアンスの言い方をされたように思う。数々の保存問題に対処されてきた水野先生は、怒ってはいなかったと思う。すべて丸く収まることはありえないなかで、現実的なところをさぐり、考え方をちゃんと説明するからと、誠実に対応してくれようとしたのだと思う。
◆そういう水野先生を信頼しているし、最終的に折り合えない点があるにせよ、それぞれ遺跡に即して考えているという相互理解はあったと信じている。晩年、ようやく話をさせていただく機会ができたくらいで、それまではほとんど接点がなかったが、水野イズムの影響を受けていることは間違いない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。