人を幸せにする人になろう

2015年3月10日、車塚

◆今日は、寒く、大荒れの天気という予報。人も少ない、自分と作業員さん1人を入れて5人。攪乱 底面の仕上げ、現代溝両側の仕上げ、などなど、やれることをやった。自 分は、造り出しコーナー部の上面、機械掘削で斜面はほぼ掘り上がり人力で成形はしたが、上面はそのまま手つかずで残っているところの黄色粘質土を削り始める(第4Q)。
◆午前、途中で、ヒョウ?アラレ?が降り出し、指導委員会のために全面シートをめくっていた調査区が白くなる。雨でなく水が流れることもないだろうとそのままにしていたが、昼休みに入った頃に再び降り始め、西の空は暗く、まずいかと思い13時に考えることにしたが、だいたい上がりました。
◆で15時から指導委員会が始まり、教育委員会の会議室での概要説明のあと、みなさん現場に来ら れたのは15時半より遅く、16時前の時間帯で、終了は16:30前だった。わたしも委員ではあるが、現場で作業を続ける。
◆なので、フルオープンになっているので、3時休みに四周から写真を撮る。そのうちの1枚を出しておきます。
◆筋肉痛で太ももがパンパンです。それといつだったか、埴輪列の埴輪を出した日、1日しゃがんで(もちろんお尻を着いたりしてません)土に向かっていると、第3Qまでは作業ができるのだが、第4Qになるとそれができなくなる。年です・・・。

2015年3月9日、車塚

◆午後の天気は確実に雨というところ、16時までやれました。なにをしていたのか。1日過ぎると記  憶がもう怪しい。昨日の調査日誌は書いてくれているだろうか。思い出してみます。
◆まず天気が怪しいので、北区のみシートを開ける。(1)北区の畑じゃないかという上面の攪乱を4人くらいで北から完全に仕上げてもらった。(2)北区東側の深い攪乱は、北から仕上げていくと、下では矩形になり、調査区内で北辺が出て、畑側の西側との間は、一直線に南にのびていくことがわかる。で、作業員さんに掘りきらず底面を整えてもらうと、黄色粘質土中に累々と埴輪片溜まり風に出てきて、この風景を写真を撮るべく、攪乱壁、攪乱底面を整えながら南へと進む。(3)畦と現代溝の間の手つかず部分を、作業員さんに削ってもらう。だいたいそんなところ。
◆で、16時に降雨のため中止。院生らはシートがけを終え、テントの中で今日の作業の確認等のミーティング(毎日やってくれている)。そうそう、大阪大谷の中国人留学生のG君はかなり来てくれたが、本日が最終日となった。
◆雨なので、学生1人を送り、駅で1人おろし、泊まりの買い 物につきあい、宿舎まで送り、そうこうしていると普段よりも遅くなり、疲れているし、大学に行かず家に帰る。19時前に風呂に入る。
◆先週に作成した略図、アバウト、イラレでレイアウトして、ミッチーに土日にトレースしてもらっていたが、明日10日が指導委員会なので、この図を仕上げないといけないので、帰宅後、図を完成させるべく作業をする。も、果てる。本日10日朝、やっぱり4時くらいには目が覚め、すこしうだうだしていたが、起きて残りの作業をし、図面2枚を送信してから、朝飯となる。ということで、9日までの成果にもとづく略図を示しておきます。

レキハク共同研究の終了

◆3年間の共同研究の、今日が最後の研究会。最後なので、各自ホテルでなく宿泊所で合宿風に打ち上げをやりましょう ということになる。これに行かないわけにはいきません。メンバーのみなさんの報告それぞれに、たいへん学ばせてもらった。岡山・東北・鹿児島・群馬に行ったことも。R大学Sは1人ホテルに泊まっている(だからお前は・・・)。世代的に近いところが集まっていて(そのなかでは上の方になっちまっているが)、居心地はいい。
◆行きの新幹線では天智陵の原稿を書いていたが、これまた時間がかかる。22:30頃に京成佐倉に着き、合流。1時くらいまではやっていたか。記念写真でも撮っとくべきでしたね。えびの市の話には少々ショックを覚えた。ほかにはないものこそがウリになり、その意味でイイものをもっているのだが。
◆翌日、1本の研究報告があり、それでプログラム終了、あとは論文を書いてね、と。トホホ。共同研究そのものを延長!してほしいものだが、そうもいかない。終了後、レキハクI氏と、R大S氏と、新幹線で鏡の話を聞く。このネタの仕入れを消化するには、まとまった作業がいるが、もう時間もなくなりつつあり、資料作成にかからないといけないのだが、それ以前の勉強の段階がまだ・・・。
◆ということで、比較的早く帰り着く。なにかないと寂しいので、車塚の現場テント脇の梅の写真をどうぞ。

3月7日、条里制・古代都市研究会

◆午前、ちょっとだけでも雑務処理をしに大学へ行き、そこから西大寺に向かう。1日目は4本の報 告で、長原遺跡の最新の調査成果、静清平野の話(条里というよりは東海道の話)、文献史側の班田収授の話(忍者・・・)、歴史地理学の九州の話。
◆『条里制・古代都市研究』第30号をもらい、自分の論文を読む。あとの質疑でIさんが、何度も言及され、少し気恥ずかしいくらい。編集のM大学Oさんには、なにからなにまでお世話になりました。おかげさまで、『和泉市史紀要』の内容を統合の上、さらにバージョンアップし、最終章のまとめのところで、かなり明確な(大胆な)7世紀後半の姿を描くことができたのは、発表そして再び原稿を書く機会が与えられたことによるものだと思う。これで、かなり古代史家の目に付くことになるだろう。このケンカを買ってくれればいいのだけれど。誰かさんのように、条里は8世紀中頃を前提とする、というようなのでなく、こっち言及しているイチイチについて、正面から反論してほしいもの。
◆討論終了10分前には、会場を離れ佐倉に向かう。

2015年3月6日、車塚

◆9:00~10:00まで現場。大学へ向かう。
◆東拡張区の掘り上げ、南区の埴輪だし、1/20作成。北区の黄色粘質土の掘り下げ。攪乱の形状も かなり明瞭になってきた模様。写真は南区南東から。
◆教授会は、2月末から間がないので、すぐに終わるかと思ったが、そうでもなく、17時終了。奈良に向かうことはあきらめる。

なぜサケは生まれた川にまっすぐ帰るのか

◆ようやく発信器を取り付け、太平洋の北で回遊していることがわかってきたそうだが、産卵期になると、まっすぐ生まれた川の河口部に戻ってくるそうである。生物学者は、じゃあなぜそういうことが可能なのか、どういう仕組みで察知するのか、それを知りたいのである。実学者は「それで?」と言う。それがわかったら面白いかもしれないが、何か役に立つの?、と。そこでまず相容れないことになる。
◆朝鮮戦争の悲劇、悲惨は言うまでもない。朝鮮戦争が生じなかったら、日本の戦後のあり方もまた、やや異なった筋道になったに違いない。
◆いま予備校も、大教室でやってきたところは苦戦し、個別指導のところが生き残っているという。小中高も、大学も向かうべきは、少人数教育なんだろう。
◆県下の発掘報告書リポジトリの整備、第1位は長野県で、第2位が宮崎県なんだとか。宮崎県に行きY先生と話をするたびに力説される。発掘報告書がどれだけ整っているか(あるいは近場にそういう場所があるか)で研究が左右されるのでなく、どこに住もうが、みな同じ土俵で研究ができる環境を整える上で、発掘報告書のリポジトリの整備が大事なんだと。まったくだ。

あ~あ

◆明日6日(金)、ほぼ掘り上がりのメドをつける勝負をかけたいタイミングなのだが、教授会・・・。さてと、どうしたもんだべか。16時から条里制研の役員会も入っていた・・・。これ、出席すると返したが・・・。
◆阿武山の本をいただいたが、読んでる時間はありません。
◆もひとつ、堺市の宿院に千利休と与謝野晶子の顕彰館ができるという話は聞いていたが、3月20日オープンのポスターをコンビニで見ました。 

2015年3月5日、車塚

◆丸1日。北区はほっとき、全員、東拡張区に投入し、埴輪列の決着をつけさせる。東辺を完了し、 出ていないものもあった南辺も片づける。隅位置の1本がはっきりしない。 写真(右)は、造出南基部からみた埴輪列のコーナー部。
◆午後から1/20図の作成に2人、埴輪列は決着したので、東拡張区の埴輪外縁の造出上面の仕上げに2人。作業員さん1人は北区の黄色粘質土の除去。見ていると、洪水層底面は波打ち、盛土面の間に溝状にやや深くなった帯が平行しており、そこに黄色粘質土が堆積している。畑かな。
◆わたしは1人、途中でほっぽっていた南区の埴輪出し。最初に手をつけたところで、おそるおそるやっており、黄色土中の礫を基本的に残させて土をほじくり出してもらっていたが、作業途中で北区に展開して止めていたもの。現時点の状況からすればやや高い。礫敷状に見え(礫敷なのだが)るが、洪水で埴輪列の頭より浮いた形で黄色粘質土中に含まれているものを残している格好。全体としては、埴輪にあわせて残してきたものを上からはずし、より下位の埴輪まわりのレベルの礫を残して仕上げる必要がある。埴輪は新たに4個体くらい出した。写真(左)が西側コーナーから東向きに撮影した南辺のもの。左に見えるのが西辺で、ここでも角位置の埴輪で立っている状態のものは視認できない(写真の手前部)。
◆ようやく格好がついてきたので、全体像を示しておきます。3週間でよく掘ってきたもんだべ。
 

3月4日、車塚

◆前日に引き続き、東拡張区の調査を行い、南側埴輪列はかなりの本数が確認された。東列は昨日 見つかった2本に加え、もう1本確認できた。精査をすればもうすこし明瞭 になると思われるが、それらの埴輪片で構成されるラインで東側埴輪列はほぼ決まりだろう。
◆午後は東拡張区に数名を残し、北区攪乱の調査に展開する。黄色い洪水堆積土はかなりの量が乗っており、北区のほぼ全面に洪水堆積土が広がっており、攪乱は広範囲におよぶ。表面の大半がはがせたので、明日は精査を行い、洪水堆積土をすべて取り除き、墳丘構築土を出して行く。
◆北区埴輪列もまた攪乱を受け、残りは良くない。byミッチー

宮崎市埋文センター

◆平成21年に竣工したという埋文センターに行く。なかなか立派な施設である。展示空間を収蔵庫 に食い込ませて設置し、ガラス張りとし、パネルを下げ、展示室側にむけて遺物を展示してある。
◆1市4町が合併し、現在の専門職員は10人とのこと。それと生目の調査15年ということで、2014年に開催されたシンポの資料集もいただいた。M大学におられたY氏が赴任して測量したのが90年代半ば、倭国王墓との対比をやった『宮崎県史研究』の論文は、なかなか原本が出てこないが、ひとつの画期であった。そのY氏曰わく、よくぞここまで調査を続けてきたと。その昔、古墳の大きさからすべて中期にされていたものを前期としながら、確実なことはなにもわからない状態から、現在は、南北2群の複数系列の古墳群で、そのなかの築造順も配列できるようになり、また西都原でもそうであるが、地下式横穴が、それを前方後円墳の埋葬施設とするもののほか、周濠周囲に掘り込 んでいるなど、中身が相当にわかってきたわけだ。そして立派な埋文センターが古墳群脇にでき、史跡整備が進行中である。
◆で、夏に県の考古博物館で、生目・西都原・祇園原?だったか、90年代から調査を継続している3つの古墳群を取り上げる企画展をやるらしく、その期間中の講演会?シンポ?で話をせよとのこと。そういうことなら、喜んでやらしてもらいます。中期の動向がどのように考えられているか勉強しないといけないが、6世紀以降のムカデ塚もあるし、鬼の窟もあるし、7世紀前葉くらいまで、ほぼ古墳時代全体のなかで、地域の盛衰をどのように捉えるか、勉強するいい機会になるだろう。本決まりとなれば、自分なりの歴史像をつかんでみたいものである(8月1日)。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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