人を幸せにする人になろう

2023年9月18日 旧美杉村6

◆北畠神社脇のめし屋で、そばを食べる。おばちゃん2人でやっていたが、客が3組来て、てんやわ んやの様子。ちゃんと調べて、多気の宿場町を歩くべきでした。多気をあとにしたあと、新しい道でなく伊勢本街道をできるだけだどりながら帰ることになるのだが、多気については道の駅に寄ったが、旧道沿いの宿場町を素通りしてしまった。
◆次は名松線の終点、奥津駅をめざす。以下、ウィキ。

 雲出川の渓流沿いを走るローカル線で、名張と松阪を結ぶ計画であったことから、両都市の頭文 字をとって名松線と名付けられた。2009年時点での年間の営業収入は約4,000万円、営業費用は約8億円となっている。
 赤字83線として廃止勧告対象となり、特定地方交通線第2次廃止対象線区にも選ばれていたが、岩泉線とともに代替道路未整備を理由に廃止対象から除外された。岩泉線廃止以後はJRが運営する唯一の特定地方交通線元対象線区である。現在は伊勢八知まで三重県道15号久居美杉線の道路改良が済んでおり、伊勢八知 - 伊勢奥津間も未改良ながら津市コミュニティバスが運行されている。
 2009年、台風18号により甚大な被害を受け、JR東海は部分廃止・バス転換を打ち出したが、沿線自治体の支援により2016年3月26日に運行が再開されたが、(以下、略)。

◆伊勢本街道に面し駅がある。いま隣が、地域のコミュニティーセンターとなり、その隣が観光案内所となっている。ここで「こけ玉」を買ったのだったか。以降、伊勢本街道をできるだけたどる。でも、ほんとは歩くべきですね。

2023年9月18日 旧美杉村5 榧

◆以下、ウィキ。

カヤ(榧) は、イチイ科カヤ属の常緑針葉樹である。材は最高級の碁盤、種子は食用油などの原料に利用される。
 果期は翌年の9 - 10月。種子は緑色の厚い仮種皮に包まれている。楕円形で、はじめは緑色であるが、花の咲いた翌年秋に熟すと種衣は褐色になり、縦に裂けて種子を落下させる。種子は堅く、淡赤褐色で両端が尖っている。

◆気になるのは実である。ウィキ。

 種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある。種皮をたたき 割って生で食べるか、炒って食べる。生の種子も支障なく食べられるが、炒ることで香ばしくなる。生の種子は松脂のような臭いがしてアクが強いので、数日間アク抜きしたのち煎るか、クルミのように土に埋めて果肉を腐らせて取り除いてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯で茹でるなどしてアク抜き後に乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実は油脂分が35%と多く含まれていて、食用油や灯火用に使われる。このほか将棋盤の製作過程で塗り込まれ、メンテナンスにも使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴に練り込み、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。(以下、略)

◆北畠神社に落ちていた榧の実は、ほんに、アーモンドみたいである。

2023年9月18日 旧美杉村4

◆ウィキによれば、「歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれた」 とある。あれ本拠地はまた別かと思ったが、「たぎ」、多気、やっぱりここなんですね。山城には登らなかったが。で、いまは北畠神社というのがあり、その場所が城館跡のようで、発掘調査も神社本殿等を避けた範囲で行われているようだ。16世紀前半の石垣とか、礎石建物とかが見つかっており、神社の境内地の何か所かに説明看板がある。90年代後半の発掘調査で盛り上がり、ふるさと館の建設まで進んだのだろう。が、おそら く館の本体は社殿と重なっており、全体の様相はわかっていないようだ。また、避けて入れた調査区で検出した遺構についても、神社地なので城館として整備できないようである。これはこれで、現存する神社に守られて地下に残っていくというのでよいのだろう。
◆ここの場合、庭園が残っている。細川高国が作ったのだとか。16世紀までの城館に附属する庭園として国指定名勝となっている。おそらく城館がなくなった時、庭園も庭園跡に変じたものの、池の景石や築山などがそのまま残り、パンフレットでは読み取れないが、それをどこかの時点で(神社ができた時?、もっと最近?)再興したのではないだろうか(300円)。

2023年9月18日 旧美杉村3

◆以下、ウィキ。

 親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであった。幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡といった南伊勢は北畠家が掌握していた。また、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれた。
 南北朝合一後、明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22年(1415年)に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵した。一度は和睦したが、正長元年(1428年)7月に嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年(1429年)12月に安濃郡岩田川にて討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還された。
 嘉吉元年(1441年)、足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが、洛中の戦闘には参加していない。他方、敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。
 室町時代後期、教具・北畠政郷・北畠材親の三代に関しては、断続的に幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任した。

2023年9月18日 旧美杉村2

◆美杉村をはじめて知ったのは、1987年の頃か。三角縁神獣鏡が1面出土していたので。で、江戸時 代の伊勢本街道、これは山間部ながら、大和から伊勢に出る中央構造線に沿った最短の東西ルートであり、そういうことと関係するのだろうと。いま東博にあるが、美杉村でも太郎生というところ出土と伝えられているのですね。そうすると本街道沿いでなく、名張の方へ至る国道422を進んだところのよう。
◆次いで北畠城館跡は、某役所にいる頃、発掘調査が進められていて、パンフレットなどをもらって知っていた。山奥というイメージしかもっておらず、美杉村にあるとちゃんとわかっていたわけではない。伊勢国司として240年間存続したとのことだが、伊勢平野のどまんなかでなく、山あいの地である。で、これが雲出(くもづ)川の上流部なのだ。
◆行きは、とにかく北畠城館跡に向かい、いまの国道を行き、昼前にはたどりつく。津市美杉ふるさと館という資料館をまず見学する。立派な展示施設である。

2023年9月18日 旧美杉村1

◆17日は出勤して、もろもろ雑用を済ませる。翌18日(祝)、三重県美杉村(いま津市三杉町) に出かける。榛原まで行き、そこから国道369号というので南東に向かう。御杖村までが奈良県。御杖の道の駅で休憩するが、ずいぶん賑わっている。農作物だけでなく、木製品がならぶ。和歌山の山間部より、人の暮らしがまだ成り立っているように感じる。
◆美杉村に入り、奥津というところで国道脇に鉄道が見えた。名松線(名前くらいは知っていたが)。北畠の城館は、その東、多気というところにあり、その間に飼坂(かいさか)峠というのがある。いまはトンネルを通した道が整備されているが、伊勢本街道では最大のアップダウンの難所だったらしい。
◆今回のテーマは伊勢本街道となる。これが東西に通り、明治中期まで伊勢参りの旅客で賑わい、宿場町が発達した。美杉村の範囲では、多気宿・(飼坂峠・)奥津宿がもっとも賑わったという。

2023年9月14・15・16日、和泉市黒鳥町合同調査

◆2019年の観音寺以来、コロナをはさみ、4年ぶりの開催。あいかわらず、外をほっつき歩き、水路 をたどっていました。書き込んだ成果を、記憶の新しいうちに第1次図化。写真の整理はやってられない。そうすると、画像は残っても、どこがどこだか。グーグルアースで確認するのも大変だが、今日はもうこれをやっている余裕なし。
◆赤がコウコズイ。オレンジが太田井。黄緑は溜池だが、これも7世紀後半のうちにはできているのでは。和泉平野部の、コウコウズイよりやや高い条里地割部を灌漑する。黒鳥のすごいのは中世文書があって、水色の溜池などが11世紀には存在していることがわかるところ。
◆16日の現地説明会はどうだったのだろう。
【追記】阪神タイガース、リーグ優勝。

2023年9月12日、久津川

◆11日月曜日。8日(金、教授会のため現場行かず)、23-2トレの壁オルソのマーカー測量で水準がおかしいというので、4トレンチ脇に打設した基準点測量をやり直すが、間違いはなかった。そうこうするうちに11時半くらいには降雨。午後も無理そうな予想のため、本日はそこまでとなる。13:30から史跡整備検討委員会の予定だったが、雨のため、現地はなくなり、城陽市役所にて会議。そのと職場に行って21時まで仕事。
◆で本日。1・2トレの平面図の実測が始まる。残る3トレンチの整形にかかる。深掘り部の北壁がオーバーハング状態で、土嚢を積んで養生。予定では南壁はそのまま土層をきれいにする予定であったが、こちらも土嚢を積んで壁が見えなくなる。トレンチの東西壁の土層の下部が見えないことになるが、それも致し方なし。午後、雲行きが怪しいが、もう1時間はできるかと思ったが、15時前に降雨となり、この日もこれで閉じることとなる。大雨。職場に向かう車のなかのラジオで、奈良市の大雨警報・洪水警報に続き、宇治市に大雨警報が出たことを知る。図面が終わるまで、また週末の現地説明会まで、なんとかもってほしいものです。
◆大阪公大は、木・金・土が和泉市合同調査になっており、土曜日の現地説明会を含めて、この3日間は参加できません。

造り出しが片側一方の事例

◆白石先生の大型古墳一覧の範囲で記入しました。

2023年9月10日、新居関

◆省略してと。豊橋2日目は、まず国史跡となっている馬越長火塚古墳(なかなか の横穴式石室)、 豊川へ向かい、豊川稲荷。三河国府、国分尼寺と横の資料館。そこから姫街道で三ケ日へ抜ける。浜名湖沿いに南下して新居関に。新居関は、浜名湖が切れて渡しとなっている西側に位置する。ここでも、近世の関所の建物が残っているのは、ここぐらいという説明だったか。発掘調査に基づく復元建物も1棟、そして資料館が併設されている。いまの1号線は海沿いで、通常は通り抜けてしまう。新居宿では、旅籠だった紀伊国屋が公開施設となっている。小松楼というところも見学。その向かいの「きんたろう」(元わらび餅屋)。
◆そこから旧東海道沿いに戻る。海沿いのヘリを進み、汐見坂というところで段丘に上がり、少し行くと白須賀宿に到達する。手前に資料館があったので寄る。白須賀宿を抜けたところで、伊能忠敬の第4次測量の際の原点が明らかになった記念碑があるというので、立ち寄る。豊橋に入ると、ほぼ国道1号線が旧東海道を踏襲しているところも多いようである。
◆16時前に車を返却し、新快速で名古屋に出て、ひのとりで帰ってくる。19:30くらいか。ばたんと寝る。明日11時から久津川は図面に入るということだったので、画板を用意して出しておきながら車に積むのを忘れていたが、マイラー含め、それは明日、早朝に取りに行くことにする。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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