人を幸せにする人になろう

2023年9月18日 旧美杉村3

◆以下、ウィキ。

 親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであった。幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡といった南伊勢は北畠家が掌握していた。また、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれた。
 南北朝合一後、明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22年(1415年)に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵した。一度は和睦したが、正長元年(1428年)7月に嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年(1429年)12月に安濃郡岩田川にて討ち死にした(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還された。
 嘉吉元年(1441年)、足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが、洛中の戦闘には参加していない。他方、敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。
 室町時代後期、教具・北畠政郷・北畠材親の三代に関しては、断続的に幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任した。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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