人を幸せにする人になろう

だから

◆倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地問題は既に決着しているのである。いまの日本考古学の課題は、倭国乱をへて、なぜに畿内に王権が生まれるのかというところに焦点が絞られてきている。弥生時代後期の畿内社会の評価が低いからだ。
◆王墓の未発達と鉄器の不在、これは攻められても仕方がない。だが、楯築と石塚はそんなに時期は変わらないのではないだろうか。2世紀後半。鉄器は、いまにざくざく出てくると思っているが、それはまあ、そんなことを言ってもしゃーないわな。だが、弥生時代後期の河内や大和が福岡平野ほど発掘が進んでいないことは確かだと思っている。
◆そして神武東征である。これは突かれると弱い。もともと弥生後期の畿内社会が倭王権の母体となっているなら、なぜに東征という構図を作らなければならないのか、と。王を神の子として正当化する必要があるから、天孫降臨は理解できる。それがなぜに日向で、そっから、カムヤマトイワレヒコは瀬戸内海を通って畿内に行き、一旦撃退されて、熊野にまわって北上する、そういう構図にしなければならないのか、という問題だ。
◆考古学でもまじめに議論されている、倭王権明治新政府論は成立するのか。倭王権の樹立は、なしがしか西方社会から、つまり九州勢力の東遷といった伝統的な考え方、考古学の人間に強い東部瀬戸内勢力の東遷、こうした考え方は根強い。倭王権成立前後での畿内社会のギャップが埋まらない、そして神武東征の構図がそれに結びつき、隠然たる見方を形成しているわけである。
◆金官伽耶は、扶余族の南下で成立したと申先生はおっしゃるし、百済も扶余族が建国したものとみられている。中国支配地に近く早く王権を生みだしていた民族の支配者層が、戦争などで追われ、未開地に流れていき、外から来て王となるといったことが考えられており、そういったことがないとは言えないだろう。百済建国以前の馬韓の状態は知らないが、少なくとも1・2世紀の畿内は、ひとつにまとまり、銅鐸を作って周辺地域に働きかける主体に成長しており、関東とは違う。そういうところに外来者が乗り込んでくるといった想定は可能なのか。
◆まあ、平行線ですな。深入りしても益はない。こっちはこっちで、1世紀2世紀の畿内社会を明らかにすることで、光を見いだしていくことだ。ただまあ、神武東征はネックである。【追記:塚口先生は神武東征とホムダワケのヤマト入りが近似した構図であり、日向出発で、河内日下が舞台になったのは、5世紀前半における日向から皇妃が出て日下宮家があった時期に作られたとみている】


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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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