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邪馬台国問題と箸墓の年代

◆過日、表題のようなことで、九州説に立ち、古墳の成立は4世紀だという意見の方たちと話をする機会があった。
◆まず邪馬台国の所在地については、(1)文献、(2)銅鏡百枚、(3)3世紀前半の倭国の状況、という3つのアプローチがある。その総合判断が必要だ。
◆(1)文献のことはわからんが、中国人の地理観はどこまで確かか、なかなか判断は難しい。畿内説に不利な資料がある、一方、山尾先生の畿内説の論拠もあり、これも総合的に判断しなければならないだろう。0:100でも100:0でもないだろうが、20:80なのか30:70なのか、自説に有利な点のみに依拠するのでなく、反対説の根拠についても判断が示される必要がある。そうして「やっぱり九州に歩がある」というのならよいが、たぶんそうではない。
◆そしてそれは(1)のアプローチの問題。(2)や(3)もある。三角縁神獣鏡について、紀年銘は上限に過ぎず、実際には4世紀と、そんな簡単に片付けられてはたまらない、見識が問われると思う。福永さんの著書をしっかり読んで欲しい、三角縁神獣鏡に詳しくなくとも、論理は追えるはずである。それが全然だめだなんて、簡単に切り捨てられるとは思わない。
◆(3)3世紀前半という場合、まず土器型式ではいつかということが解決しなければならない(庄内式後半なのだろうが)。これは具体的に議論しなかったが、おそらく布留式などもっとあと、とするのだろう。しかし、福永さんが言っているように、三角縁と画文帯ではさむことによって、だいたいの年代は絞られる。そうした考古学の手続きにしたがって導かれる年代観をもとに、瀬戸内ベルト地帯の紐帯形成が論じられている。
◆歴博のC14年代については、発表の仕方はまずかったのだろう。グラフからはそうは読めないと。だが、説明はできないが、Jカルを導入し校正年代も是正されてきている。統計的な手法を導入し、幅のある数値を狭める方法もあるそうだ。いまや縄文が1万年前以前にさかのぼることに反対はなくなっている。古墳成立年代のC14についても、今後のデータの蓄積や手法の開発で、より信頼のおけるものになっていくに違いない。
◆いずれにしても、古墳は4世紀までしかさかのぼらないという考え方の基底に、安本美典の在位年代グラフが出てくることに驚く。天皇の平均在位年数から、第10第崇神がいつごろの人かを算出するのだそうだ。しかしである、家に戻ってから文献を確かめよくよく考えると、平均在位が1代10年って、斉明・皇極や、持統以後の生前譲位が始まって以後も、在位年でカウントしているようだが、それはおかしいだろう。古墳時代は終身大王です。やってみました。平均15年、崇神はちゃんと4世紀はじめに来る。そして、ひとつの方法ではあろうが、個々のばらつきもある(統計は統計として尊重すべきだが、一方で統計であって、実態を平均化した参考数値である)。卑弥呼は九州の人間というのであろうが、ほぼ半世紀王だったし、台与もそれくらいあっておかしくはない、高句麗長寿王は、ほぼ5世紀をカバーする78年の在位である。イレギュラーに長いものも実際にはある。あくまでも参考として考えておくべきだろう(欠史8代も存在し神武はコレコレと言われると・・・)。
◆われわれが考えている結論とまったく違う見方、倭人伝の記述を鋭く指摘されると、それそのものは反論しにくかったりする。だけど、それですべて決まるわけではあるまい、その指摘と同等に、畿内説の人間が挙げている根拠も吟味されるべきだろう。そして、安本の在位グラフについては、これをそのまま論拠に挙げることは止めた方がいい。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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