人を幸せにする人になろう

倭名抄の耕地面積

◆山城国、田8961町、大和国、田1万7905町、河内国、田1万1338町、和泉国、田4569町、摂津国、田1万2578町、計5万5351町。
◆伊勢国、田1万8130町、尾張国、田6820町、三河国、田6820町、美濃国、田1万4823町、計4万6593町。
◆備前国、田1万3185町、備中国、田1万0227町、備後国、田9301町、計3万2713町。
◆筑前国、田1万8500町
◆筑後国、田1万2800町
◆肥前国、田1万3900町
◆肥後国、田1万3500町
◆むろん、倭王権成立後の畿内の開発の進展度合いは考えなければならない。が、そこそこ第1次生産としては、2世紀においてもあったに違いない。で第Ⅴ様式土器圏を形成する。東海もけっこうなものである。尾張は意外に少なく、伊勢・美濃が大きい。吉備は、上東式の範囲は知らないけれどのちの備前・備中・備後すべてとして、そこそこはある。
◆で北部九州だ。それぞれすごいわな。筑前一国で大和国をやや越える。農耕をいち早く始めた筑前地域の開発は相当に進んでいたに違いない。そして、筑後も、肥前も、肥後も、1万町を越える。問題は2世紀段階における地域圏である。土器様式からすると、筑前は筑前だろう。筑後と肥前はどうなんだろう。吉野ヶ里が弥生後期まで存続していることからすると、生産力はトータルでは大きいが、大きな地域圏を形成していたといえるのだろうか。いずれあわせても2万6700町だ。肥後はまた別文化圏だろう。
◆むろん第1次産業が地域の力のすべてではないだろう。だが、現在のサービス産業が発達した時代ではない、第1次生産が地域力のベースであるには違いない。畿内圏は、やっぱりけっこうなものだったと思うのだが。そして、その鉄需要は大きい。安定的に鉄を手に入れることは重要であり、それをコントロールし、他地域とわたりあう権力が生まれたとすると、そこそこのもんだったんではないか。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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