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応神陵と仁徳陵

◆『延喜式』で、応神陵の兆域が5町×5町で、古市古墳群のなかで誉田御廟山古墳にあてられていることは確かであろう。まったく同じく、仁徳陵の兆域が8町×8町で、百舌鳥古墳群のなかで大仙古墳にあてられていることは確かであろう。『日本書紀』編纂段階には、そうなっていた、そこまでは確かだろう。築造されてから250年は経っているが、歴代の王名に附属して、いわゆる帝記的記載事項は伝えられていったと思っているので、基本的には、実在が怪しまれている人物とか、安康など古墳かどうかわからんようなものを除いて、一定の信用を置いている。尊重すべきであると。
◆だが、白石さんも、百舌鳥・古市のなかでの調整で、割り振り直しができないという。つまり、百舌鳥か古市かについても必ずしも確かとは言えない、と。もっとも、倭国王墓は常に同時代最大規模墳か、という考え方にたってのことで、反正は反正陵みたいなもんでもイイ、ということになれば別だが。
◆いずれにしても、自分は、誉田御廟山が反正墓で、大仙は允恭墓という意見を表明してしまっており、『日本書紀』や『延喜式』の記述との関係をどう説明するのか、考える必要はある。仮に、王墓が正しく伝わらず、7世紀段階で比定作業をしなければならなかったとみるにせよ、そのときに、そうでないという立場に立つわたしが、御廟山を応神墓にあて、大仙を仁徳墓にあてることになった合理的な説明ができるかといわれると難しい。また、当時にあって、わからなくなっていたとしても、幕末のことではないし、まだ伝承や記憶やあるいは記録などもあったかもしれず、ある程度妥当な考証がなされたはずだ、とみるのも妥当だろうと思う。
◆まあ平行線だが。ただし、倭国最大の前方後円墳と第2位の前方後円墳を、どの王にあてるかという時には、一定の作為が働くことはないとはいえないような気がする。河内政権の王権簒奪は自明であって、7世紀の王統としても、崇神や垂仁というのではなく、直接的にはホムダワケを始祖とするといった意識などがあり、ホムダワケそしてオオササギの墓を、もっとも重視するといった配慮である。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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