人を幸せにする人になろう

博論口頭試問おわる

◆表題の通り。さまざまなご指摘をいただき、本の原稿に整える際に、いろいろと留意せねばならない。仕事とはいえ、時間を取って読んでいただいた審査の先生方に感謝したい。やはり古代史の側から、かなり批判的な意見を受ける。そう言われてもしゃーないことはむろんある。ひばすの佐紀寺間陵のこととか。が、相容れないな~と思うところも多多。
◆そのひとつ。例えば卑弥呼即位は201ではないか、と。そうは思っていても、そこは断定的にはいけないわけで、最初は註に書いていたことが、最後には本文に括弧で入れているとか、こっちも一定の節度が必要だ。がまあ、これはおまけみたいなもんで、別に話の根幹なわけではない。でもまあ、そういうことを書いてくることに対しては、やはり突っ込みが来るわけである。
(1)まず、考古学的に卑弥呼の即位が何年であろうが、2世紀末から3世紀はじめくらいで、考古学の事象を考える上ではでよく、実際の議論もそれくらいで2世紀と3世紀の変化をとらえていくということができるくらいで、別に影響はない。が、即位年は実際には歴史上は起こっているのであり、わかるもんなら知りたいのである。応神の即位年もわかるなら知りたいのである。これはこれで好太王碑との関係でいけば、もっとリアルに知りたいところ。まずは、そういう志向性が自分にはある。ない人にはまったく関係がない。
(2)で、神功39年条に景初3年の記事があるわけだ。神功40年条に正始元年のことが書いてある。神功43年条に正始4年のことが書いてある(それでよかったっけか)。で、神功66年条に倭女王が晋に朝貢したことが書いてある。言っときますが、日本書紀はあくまで神功紀は3世紀前半から半ば過ぎのこととして書いてあるというのがタテマエ。しかしそこには4世紀後半の事象も書いてあって、書いてあることは120年あとの4世紀後半のことですよ~という表明があって応神紀へとつながる。
(3)で、魏志倭人伝を知ってれば、正しい間隔で日本書紀紀年に上に配列することは可能であって、それはどこにでも入りうる(実際はそうではないが)。重要なのは、日本書紀紀年の神功39年とは、持統からず~と紀年通りにさかのぼっていけば、西暦239年になるという事実である。そこに景初3年の記事、すなわち西暦239年の事象が正しく配置されているわけだ。晋書に265の晋建国の翌年の266年にに倭国は使者を送ったわけだが、それを配列する神功66年は、日本書紀紀年でいえば266年になるということだ。
◆長くなるので、改める。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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