人を幸せにする人になろう

台風一過

◆和泉市史を書いている。けっこう楽しく書いている。10年間合同調査をやってきた、ひとつのまとめだ。この間、遺跡のことはむしろあまり知らなかったが、報告書をどっさりもらって、そうした新たな材料も加え、池田谷の歴史を書いている(発掘調査の成果ってすごい雄弁です)。古代寺院の部分の分担はあるが、それはこの次。いまは冒頭の池田谷の耕地開発の歴史を、弥生時代から説き起こし、栄原先生の5・6世紀頃の和泉に関する研究に学び、6世紀以降は集落遺跡に群集墳をもとに、いかに池田谷に人が暮らすようになったかを書いている。あたっているかどうかはともかく、地域史を書いているという満足感がある。
◆そしてこの春に『市大日本史』に古代から中世にかけての水利開発と村落の成立のことをまとめたので、いま書いている7・8世紀が終われば、そのあと、これをつないでいく。だいたい中世後期までで、戦後までの農村社会のあり方はできあがっているので、あとは近世史の人間につなげばよい。
◆今書いているのは、和泉市史・地域叙述編3「池田谷の歴史」。編集会議で、槇尾川流域の水利と開発史を柱にすることになった。で、その冒頭の概説だ。各時代の叙述部分も、水利と開発史を意識的に書いて、この軸を通すということになっている。で詳しくは各時代の叙述部に任せるとして、オレは、冒頭で長いスパンでの全体像を提示することになっている。
◆これまで機会ごとにやってきたことがすべて材料となる。東阪本の調査を機に、坂本寺の瓦調査をやり、古代坂本臣氏のことを学んだ。黒石で和泉市でもっとも大きい横穴式石室の墳丘測量をやった。なんであんなところに畿内型の石室があるのか。国分寺では国分寺の瓦の調査、柱根の調査、仙人風呂での遺物採集などをやり、光明生誕伝承も知った。池上地域での成果で条里と郷の関係を考えるきっかけとなった。郷は明確な境界をもつ行政区分であると確信した。池田下町での調査では、坂本郷との境界が人為的な直線で、これが現代に至るまで境界として生き続けていることを学んだ。そして高橋家に残る中世文書を通じて、大学院生たちと池田谷の歴史を考えた。昨年の納花の調査で、槇尾川沿いの水利関係をまとめ、また陶邑谷山池地区について分布図を作り、生産の消長を学んだ。このように和泉をフィールドにしたうちの調査研究を機会に、地域の開発の歴史を考えてきた故に、まわってきたお鉢で、光栄に思っている。これまでに身につけたものを全力投入して書き上げてみたい。ああ、また博論が遠ざかる・・・。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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