人を幸せにする人になろう

日本書紀紀年

◆倉西の日本書紀紀年の理解を図示するとこうなる。
ダウンロード(pdf)

◆これしかし未完だ。ある偶然で倉西さんと連絡が取れ、自分の書いたものを送った。先日、SFにリライトせよと言われ、書記紀年について、自分なりに倉西の上げる論拠を整理し(鵜呑みにするわけではない)、論理を組み立て、説明できるようになりたいとメモを作ろうとしたわけだが、やはり完遂できない。
◆古事記崩年干支は基本的にいけると思っている。理屈は、5世紀後半以降、記紀でほぼ一致するが、微妙な差もある。引き写しでなく整合をとっていない、微妙な差がありつつ、おおよそ一致するのは、元データがあって(口承・記録なんであれ)、それぞれをもとに古事記は古事記で、日本書紀は日本書紀でまとめたから。で、日本書紀が允恭以前について水増ししているのは明らかで、小沢一雅さんはグラフ化しているが、通常の在位年推移グラフから、允恭以前は急激に乖離する。要するに、日本書紀については、そこから作為が加わっていることが明らかなわけだ。それに対して、古事記についても、同じように允恭以前は怪しいと考える必要はない。允恭以降が、日本書紀とのチェックで何らかの元データにもとづいて収録されていると考えられるように、その元データに基づき允恭以前についても書き込まれているのであって、古事記の崩年干支について前後に区別しなければならない特段の根拠はないと思う。
◆紀年のなかで、応神と仁徳・允恭には実際の紀年数に加算があるという倉西の指摘は確実であろう。問題は、応神を41年まで、仁徳を87年まで、允恭を42年まで引っぱる理由、それがなにか、そしてそれは何を意味するか、ということ。2王並立の片方を示すためと思うが・・・。
◆PDFも思考途中で、履中とか反正とかが難しい・・・。いまの感触でいえば、副系列は、ホムダワケ・イザホワケ・ミズハワケ・イチノベオシハワケとつながると思うので、応神没後の執政王はイザホワケで、神聖王は倉西はウジノワキイラツコとするが、これがオオササギではないかと考えている。応神の詔り分けでは、オオササギとウジノワキイラツコとなっているが、実際はイザホワケとオオササギではないかと・・・。
◆安康がマヨワ王に殺されるという設定は、ワカタケルがイチノベオシハワケを殺害したことを示すものと理解している。ワカタケルが現役の王を殺害して執政王に立ったことは伏せられ、しかし大王が殺害されたことは安康という人物を作り出して示し、イチノベは執政王であった事実はないとして、しかしワカタケルが殺害したことは明記された。
◆またまた中途半端に終わった。

この記事にコメントする

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

この記事へのトラックバック

この記事にトラックバックする:

プラグイン

カレンダー

08 2024/09 10
S M T W T F S
2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13
16 17 18 19 20
22 23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索