人を幸せにする人になろう

槇尾川沿いの水利

◆大学院演習でちょっとしゃべれということになり、これまで作ってきた図をがっちゃんこして、 理解しているところを説明。しかし、池田下・芦部・伯太、今年の肥子も含め、現地調査時の元図もあるとはいえ、記憶はあやしく、正確な現状認識がちゃんとできているかといえば、できていない。たとえば写真も撮ってきてはいるが、どこのポイントがどの写真ということを含め、正式な調査報告書にまとめ上げる、という作業をやっとかないといけない。その都度の合同調査時の時点でしっかりまとめておく、というのは大前提。ある時点からは『市大日本史』にまとめの図が掲載されるようになってはいるが、こちらが手を入れたものもあるが、担当班の図をそのまま載せている場合、線や面の網などの関係で実はよくわからなかったりする。自分の資料を取りだしても、歩いて確認した線なのか、絵図なのか、地籍図なのか、聞き取りなのか、よくわからなくなる。
◆近世の人に、村の絵図や水利争論の図があるかどうかは、もうひとつ次の時点で突き合わせるとして、まずは再度、現地をぜんぶ歩いて、池田の一ノ井からすべて系統的に踏破し、必要な写真を残し、やり直したいところである。おおよそはわかっているのだが、決定版の図を作ろうとすると、あいまいな部分、未確認の部分などが出てくる。完全とはいえないとしても、そして現代の付け替えはあるにしても、ともあれ現状はこうだ、という決定版までいかないと、認識のレベルがもうひとつアップしないと感じる。さて・・・、来年、前期にでも授業で・・・。
◆もひとついうと、こういう作業は、古墳時代後期、古代の理解にかかわっている。そして、ということはその後の歴史を通して、地域社会の骨格として決定的に必要なのだと思う。が、いずれ手遅れになるだろう。タンボが少なくなっても、1枚あるだけでも用水はなかなかつぶれない、という面もある。が、いつまでもそうではないし、見えなくなり、付け替えられ、なくなり、と。そして肥子でもそうだが、水利組合はもうなく、伝えられてきた水利関係資料はどこにいったかわからなくなっている。歴史地理のものを読んでいると、図が載っていたりするが、概して図が小さい。誰かが既に同じような作業をやっている地域もあるわけだが、元データがなにで、どこまでのことをやってできあがった図か、そこまではわからない。『和泉郡の条里』のレベルで(1/8000)、まとめあげ、のちのち参照してもらえるものを。河内の平野でもどこでも、これは文化財の仕事だと思うんですけどね。水利調査といえば、荘園調査が行われた特定地域しか、こうしたものは作成されにくい。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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