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河内大塚山古墳はやっぱり後期なのか

◆河内大塚山古墳に入って、いきなり、流布している陵墓図がぜんぜん現状を正確にとらえていないことに驚ed9ace6b.jpgいた。一般に陵墓図は、当時の最先端測量技術をもちいた正確な図面に仕上がっていると思うが、なぜに河内大塚山はダメなのか、それはそれで考える必要がある。
◆保存状況の良い陵墓については、立ち入っても、図面通りの古墳でしたとしか言いようがないのだが、今回は、とにかく現状を観察し、それを目分量で位置を落とし、メモを書き込んでいくという、実質的な立ち入り観察となった。河内大塚山古墳については、今後の検討に際して、あの図面しか手がかりがなかったものが、今回の立ち入りにより認識した現状を基準に考えていく必要があり、その意味で、立ち入り観察による現状把握は大きな成果をもたらしたと思っている。
◆議論の中で、わたしは知らなかったが欽明のモガリが古市で行われ、大塚山を未完の欽明墓とみる意見があることを知った。やっぱり「ごぼ石」の存在が大きい(今回、第1段から仰ぎ見て、石の上半部が見えた)。4*3mの花崗岩は横穴式石室の石室材と考えるにふさわしいわな~。じゃあ列島5番目のあの墓はなんなのか。6世紀にそれにふさわしい被葬者はいるんだろうか。
◆今城塚も3段とみられるようだし、今回観察した3段築成の状況は、なんとなく今城塚に似ているような気がした。今城塚を土師ニサンザイと比較すると、後円部がかなり小さくなっているが、大塚山の内部で見た中段・上段のあり方は、現状の後円部汀の径に比してやや小さいかなという印象がある。むろん、後円部の現状を把握したといっても、新たに図面が作られたわけではないので、正確な段の状況は復元できないが、これを機会に、再度、墳丘からどこまで迫れるのか、追究してみる必要がある。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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