人を幸せにする人になろう

2.11集会で高木さんの話を聞く

◆この日、今年は雪となりました。去年も書いたが、このところ、毎年、2.11集会へ行っている。谷町9丁目で地2c57cf2d.jpg上に上がると、たいへん寒かった。今年は高木博志さんの陵墓の話であった。鈴木良さんも来ておられた。220名と、昨年に比べると少ないが、これはきっと雪のせいであろう。
◆白石先生は、記紀と延喜式の陵墓に関する記載をそのまま信用することはできないとする。その理由は、百舌鳥に陵を造営したことになっているのが仁徳・履中・反正であり、それにふさわしいのがミサンザイ・大仙・ニサンザイだと。考古学的に判明する築造順序にしたがって、仁徳・履中・反正をあてることはできる。だが、古市古墳群を加えてみると、仲津山(古市)→ミサンザイ(百舌鳥)=仁徳誉田御廟山(古市)→大仙(百舌鳥)=履中→ニサンザイ(百舌鳥)=反正となる。応神→仁徳履中反正→允恭という王統譜からすると、御廟山にあてうる王はいないことになる。大王陵の築造順序はほぼ間違いないから、それからすると、百舌鳥および古市となっている、記紀や延喜式の陵名の記載に(帝記的な事項であるが)問題があると考えざるをえない、というもの。
◆これを紹介するのは、誉田御廟山は反正陵で大仙は允恭陵だと自分は主張しているわけだが、反正陵が百舌鳥とされ、允恭陵が古市とされていることと矛盾することについて、そうはいっても陵名が怪しいんだよ、だからありうるという傍証にしたいためである(ちなみに、『ヒストリア』には書かなかったかもしれないが、允恭が茅渟宮を造営し、しばしば日根野に猟遊したという記事から、允恭は和泉と関係が深いといえると思っている)。
◆白石先生は691年に陵墓守護の詔を持統が出すが、このときに陵墓の比定がなされたのであろうという。いずれにしても、白石先生の考証は、これはこれで説得的だと思う。
◆ただし白石先生は、最近では、須恵器の年代遡上で、御廟山が正しく応神陵でもいいんではと発言している。そうなると、仁徳=大仙、履中=ニサンザイ?、反正=?、允恭=市野山となり、反正陵にあてうるものがなくなるが、先の話で御廟山が浮いてしまうというようなことはない。これまた5世紀の年代観次第か・・・。
◆しかし、馬具の年代観その他から、中期のはじめが4世紀後半に大きく食い込むという見方については慎重であるべきだと考えている。そして、河内政権の始祖である応神の陵とみなしうるという御廟山の前に、津堂城山-仲津山-ミザンザイという3墳があることをどう説明するのか、困難だろうと思っている。塚口先生の4世紀末の内乱からしても、ホムダワケの活躍期は佐紀政権の時代であって、晩年にクーデタを起こすホムダワケ墓は津堂城山古墳の規模こそがふさわしいとも思う。
◆回り道をしたが、従来の年代観に立つ場合、紹介した白石の議論はなお有効である。百舌鳥3墳について、百舌鳥に陵を築いたという仁徳・履中・反正にそれぞれ再配列することはできるが、その間にくる古市の陵が浮いてしまう。基本的には帝記に陵名は伝えられていたと考えられるものの、5世紀前半のところの陵名については問題ありとせざるをえないという白石の主張は説得的だ。
◆ちなみに、オレの比定で陵名が怪しいということになるのは、仁徳(百舌鳥)=仲津山、そして反正(百舌鳥)=御廟山と允恭(古市)=大仙である。この3つはいじっていることになる。すべてを説明できないが、河内政権始祖の応神と、聖君仁徳の陵を、御廟山と大仙という巨大古墳にあてるという作為は、考え得るかもしれないと思っているわけである。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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