人を幸せにする人になろう

2011年2月1日、旧真田山陸軍墓地に行く

◆ここ数日、旧真田山陸軍墓地の原稿を書いていて、ようやく入稿した。そのあと、雄略陵の記事も書いた。いずIMG_4771.JPGれも『ヒストリア』用。で、それに使うために、今日、玉造に行き、陸軍墓地にはじめて足を踏み入れる。中身については、以前、このブログにも、挨拶文を掲載したので省略。
◆そういえば、考古学研究会から査読が帰ってきた。書き直したら載せてくれるらしい。ヒストリア2月号の目処がついたので、これからできれば書き直しにかかりたいが、どうなることやら。査読結果は真摯に受け止めます。いくつか異論はあるが。
◆生前造墓説となると、古墳の築造時期はあいまいになる。が、どうでも解釈できる余地を出すためにやっているのではなく、発想を提案しているつもり(むろん発想のみならずそうだと思っているわけだが)。寿墓の根拠は挙げなかったが、別に書いたものがあるので付け足そう。始皇帝は即位翌年から墳墓の築造に取りかかっている。武寧王陵だって生前に着手している。日本の横穴式石室もそうではないのか。そう考えると、年代がより厳密になってくるこの時期の石室について、すこし考え方を変えないといけない。石室のプロは、その問題はどう考えているのか。
◆学史か・・・。横穴式石室について、いつ造ったのか、そんな議論はあるんだろうか。よく知りません。そりゃもちろんだよね、それを議論する以上、先行研究のチェックは。果たして正面切って、それを問題にしたものがあるんだろうか。
◆蘇我馬子は55年間大臣だった。みなさん死んでから造ると考えているんでしょうか。それらな簡単。そうじゃないとすると、これは大きな問題。半世紀の差が生まれるんだから。で、どの時点かなんて決められっこないから、永遠にあいまい。より難しくなるが、事実はそうなのだから仕方ない。おっとこれは言い過ぎ。だが、寿墓かどうかは、問われなければならないのではないですか。逆に言えば、死んでから造った、なんて証明されているのか。生前造墓と同等にわかっていないと思う。
◆横穴式石室の型式学的研究は一定のところまでできあがっている、それをイジルわけではない。ただ、問題の丸山の石室について、ぜんぜん意見がかみあわないわけだ。オレは丸山=石舞台なんて言ってないんですけどね。少なくとも天王山だ、白石先生のように平林式まで上げることについては、もうすこし詰める必要がある。きっとあがるとは思うが、そこは石室自体からあみださにゃならんから、さらに検討しなきゃならん。石舞台とは全然違う、というのが言いたい(白石先生の見方とまったく同じ)。このブログでも掲げたあの図は、議論となっている袖石、羨道のこと、玄門幅など、実によく示されていると思う(再投稿用に加工したものを再び挙げておく)。

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雲楽
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男性
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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