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2018年2月23日、陵墓(四条塚山古墳)立入り観察への参加(3)

◆昼ご飯を食べて、14時からの立入り観察に向かう。径16m、高さ3.5m程度の円丘に、八角の石 柵がめぐる。近世?文献には、石棺の角が見えているといった記載があるらしい。古墳でない、と否定することは難しいよう。
◆神武陵に関する論文などを読み直していないが、当日の説明で学んだこと。元禄期にはこの塚山が神武陵と考えられていたが、幕末に、ミサンザイ(ジブデン)、丸山とする見方が発表され、3か所が候補となり、谷森がミサンザイ説で、決められないので文久2年に孝明天皇がミサンザイに決めたのだとか。当時の様子としては、ミサンザイには小丘2つ、丸山は現状で古墳らしい様子はないらしい。7世紀の神武陵は「畝傍山東北陵」との名称で、それに該当するこの地域で探索が行われたわけである。
◆藤原京建設で削平された四条古墳群は5世紀代を中心とし、径70mの大円墳も削平されている。なんで塚山が残っているのか、という問題。それと石棺か、石室か石槨かわからないが、まあ5世紀代のイメージにはそぐわない。それと、元禄期に神武陵として整備された際に八角形の柵が設けられていることが気にかかる。八角の発想はどこから来るのか、ということ。残丘の円に対して、四角でなく切り詰めて八角にした、そういうことかもしれないが。
◆もっとも古墳らしいもので、径15m程度とはいえ、藤原京造営時に削平されずに残された。発想を逆転させれば、平らに京域街区を整備した時点で、そのなかに高まりが平然と存在していた、→天武・持統期の神武陵ちゃうんか、と。天武が壬申の乱の時に神武陵に戦勝祈願を行った記事があり、その時にはあった(だったらいつ作られたかというのにもいくつか説があるようだが)とみられているが、これはそのまま信じるわけにはいかないように思う(正当化)。前身があったかなかったか、それはわからんが、王統譜を整備し確定させ記紀をまとめる天武・持統期に、始祖墓を整備することは必然的にあったであろう。それちゃうんか、と。また、造るとすると八角墳だろう、と思う。元禄期に八角の柵を設ける必然性があったんではないか(これは憶測)。

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プロフィール

HN:
雲楽
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60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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