人を幸せにする人になろう

アンダルシアの旅(34)スペイン史(1)

◆以下、ウィキから。

◆古代 紀元前12世紀、フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設。イベリア人に数字やアルファベットを伝えた。紀元前1000年ごろ、ガリアのケルト人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もイベリア半島を訪れるようになる。
◆ローマ帝国時代 紀元前2世紀、ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。イベリア半島はお互いの陣営による激しい攻防戦が続けられたが、紀元前205年ローマ軍の手に落ち、その後ローマの支配を受ける。イベリア半島は、帝政を始めたアウグストゥスのもとで、三つの属州へと再編された。「パックス・ロマーナ」のもとで商品作物を栽培して繁栄したほか、帝国最大の版図を現出させたトラヤヌス帝のように多くの人材を輩出した。セビーリャやカルタヘナなどの都市部ではローマ化が進展した。また、紀元1世紀よりキリスト教がもたらされ、徐々に都市部から農村部へと浸透していった。
◆西ゴート王国の成立 415年に南下してきた西ゴート族によって西ゴート王国が建国され、南フランスのトロサ(現トゥールーズ)に都した。560年に西ゴート王国はトレドに遷都した。585年には西ゴート王国によって、現ガリシアにあったスエボス(スエビ)王国が併合された。
◆イスラーム勢力の盛衰 イスラーム勢力のウマイヤ朝は、北アフリカにまで勢力を伸張させると、さらに711年にベルベル人を率いたターリク・イブン・ズィヤードのもとでジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、西ゴート王国を滅ぼした。一時は北部の都市まで彼らによって征服され、イベリア半島の大部分がイスラーム勢力の支配下に入り、アル・アンダレスとして716年よりウマイヤ朝の属州となった。ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に戦いを挑むが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルに敗れたため撤退した。
◆ウマイヤ朝は750年に滅亡したが、756年にウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝が建てられた。この王朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世のもとで最盛期を迎え、自らカリフを称してアッバース朝、ファーティマ朝といった他のイスラーム勢力に対抗した。10世紀後半には混乱が続き、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡した。後ウマイヤ朝の都のコルドバは、トレドとならんで西方イスラーム文化の中心地となった。
◆後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国分立の時期を迎えた。代表的なものは、セビーリャ王国・トレド王国・サラゴサ王国・グラナダ王国・バレンシア王国などである。これらの諸王国が結束を欠く中、1085年に西方イスラーム文化の中心地の一つであったトレドが、キリスト教勢力のカスティーリャ王国に征服されるという事態が起こった。この状況を憂えた小王国は、マグリブのムラービト朝に援助を求めた。これに応えたユースフは、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破りアンダルシア地方などの支配を回復させるとともに、アル・アンダレスの小王国を統制下においた。
◆しかし、まもなくキリスト教勢力が巻き返しを図ったことに加え、イスラーム勢力の内部でもアフリカから来たムラービト朝と在地の小王国の対立が深まり、さらに北アフリカではムワッヒド朝が台頭していた。こうした中、13世紀にはムワッヒド朝によってムラービト朝は滅亡へと追い込まれ、再びイベリア半島は分権的な状況が生まれた。その後、ムワッヒド朝もイベリア半島へ進出して統一的な支配を行おうとするが、やはりアル・アンダレスの在地勢力との対立が深まったことや、1212年にカトリック連合軍とのナバス・デ・トロサの戦いで決定的な敗北を喫したことから、分裂期を招いた。徐々に台頭するキリスト教勢力と比べ、著しく結束を欠いたイスラーム小王国の多くは、レコンキスタ(再征服運動)に屈して支配下に入った。滅亡を免れたナスル朝グラナダ王国も、まもなくカスティーリャ王国への貢納を余儀なくされた。
◆レコンキスタ(国土回復運動) 当初はイスラーム勢力に圧倒されていたキリスト教諸勢力がイベリア半島北部より台頭し、「国土回復」の名のもとレコンキスタ(再征服運動)を展開した。その担い手となったのが、ポルトガル王国・カスティーリャ王国・アラゴン王国などであった。1479年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させた。
◆イベリア半島における文化交流 キリスト教勢力とイスラーム勢力はイベリア半島で衝突を繰り返したが、こうした両勢力の接触は一方で文化的な交流をもたらすことにもなった。11世紀後半、イスラーム世界における西方の文化的な中心都市トレドがキリスト教勢力によって奪われたことを契機として、この地でアラビア語からラテン語へ諸文献を翻訳することが盛んに行われた。こうして、イベリア半島は西ヨーロッパ世界に先進のイスラーム文化をもたらす窓口としての役割を果たし、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」を導いた。

アンダルシアの旅(33)セビーリヤ大学

◆セビリヤ大学。真四角な建物。そのキャンパスに入り込んで、中を抜けて近道とする。大学周辺には、大学生たb82303ef.JPGちが行き来している。セビリヤ大学について、以下、ウィキ。

公立の大学。2004年の時点で全キャンパスに合計73,350人の学生が在籍し、スペイン国内に現存する大学としては2番目に多い学生数を誇っている。セビリア大学は15世紀末に助祭長マエセ・ロドリゴ・フェルナンデス・デ・サンタエリャが設立したサンタ・マリア・デ・ヘスス学院を源流に持つ。1505年、セビリア大学においてユリウス2世の大勅書により神学、哲学、法学、薬学、人文科学の学位を授けることが認められた。1551年、セビリアの評議会によって総合学術機関の地位を認められ、正式に大学となった。セビリア大学の本館は、1950年代までタバコ工場として使用されていたことにちなんで「旧タバコ工場」と呼ばれている。この壮麗な建c9ef3bfc.JPG物はジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」で、カルメンが働いていたタバコ工場としても知られる。この建物には文学・言語史学研究科、地理・歴史学研究科、法学研究科が入っている。またセビリア市内にはほかの学部が点在しており、マカレナには健康科学研究科が、ネルビオンにはビジネス研究科が、カルトゥーハには工学研究科とコミュニケーション研究科が、レイナ・メルセデスには理学研究科がある。

◆だそうである。元タバコ工場か。ということは、1949年までの大学は別の場所だったということか。

アンダルシアの旅(32)公園を歩く

◆考古博の前には民俗博。過去300年くらいの道具たちがならんでいるのだというが、パス。天気よく、暑く、少し前のc78662d1.JPGに掲げたような次第で、公園の中で一杯やりました。食べ物を2種類頼んだのですが、921fc148.JPGひとつはほうれん草のなんたら、なんですが、まあグツグツに煮たもの。もうひとつは肉だった。
◆ここいら1929年の万博跡地の公園をアルカサルへ向かう。馬車がそこら中を走っている。最初は公園内だけかと思ったが、そうでではない。プレートが付いていて、道路も走っている。日本では考えられない風景ですな。街中の車のスピードがそもそも違う。横断歩道ではほぼ止まってくれるように、いつも止まれるくらいのスピードなわけだ。歩道は必ずある。むろん車も幅を利かせているのだが、限られた幅のある道路くらいで、街中はそもそも道幅が狭くて恐ろしくてスピードが出せないのだろうが、歩行者優先と言っていいかどうかは知らないが、まあそんなである。そこに自然と馬車が混じっているのである。

アンダルシアの旅(31)ローマはすごい

◆考古博。誰かが言いました。この手の施設の見学者、専門家と学校の社会見学だと。そうかもしれないが、そうでも7ab4f681.JPGない、とも思う。1.5ユーロ。まず2階、そこは先史、要するにローマ以前。石c49838f0.JPG刃があり、石鏃があり、土器があり、青銅器が来る。フクロウをあしらった石版が面白い。横穴式石室みたいなものすごい長いドルメンがある。
◆そこから1階に行くと、世界が変わるのだ。ローマ!。まずは数々の獅子像が出迎えてくれる。これらは、セビーリヤの近傍にあるイタリカから出土した遺物ということだ。イタリカは、けっこう重要なローマ都市であるらしい。以下、コトバンク


スペイン南部のセビリャ市の北西にある古代都市。現在名はサンティポンセSantiponce。第2次ポエニ戦争(別称ハンニバル戦争)の過程で,カルタゴ軍をイリパの戦(前206)で大破したローマ軍の司令官大スキピオが,負傷した部下を住まわせるために創設した。これによってローマ軍は今日のアンダルシア南部を制圧し,まもなくカルタゴ人最後の拠点ガディル(現,カディス)を下した。前1世紀後半,皇帝アウグストゥスの時代にバエティス川(現グアダルキビル川)の対岸にヒスパリス(現セビリャ)が建てられると,イタリカはこれと繁栄を競う形となった。・・・
19c08d8c.JPG
◆だそうです。まあ大理石の像(写真はアルテミス像)、建築fa613bff.JPG材だった柱頭、瓦、床のモザイク、それまでとまったく異なる鉄器たち。ローマというもの、ローマ都市というものがロンドンやアフリカにまで広がっていること、ローマ都市のありようを本でかじったことがあるとはいえ、実感として認識していなかったとも言える。まったくそれまでの地域的伝統などお構いなしに、圧倒的な古代都市が建設されていること、むろんローマ本体はすごいんでしょうが(行ったことはありません)、ほとんど同じような都市を地中海一帯に作り上げた、ロcf9cb97a.JPGーマというもののスゴサを知る。ほんとはイタリカに行くべきでしたね。バスで20~30分というからタクシーを飛ばしてとも思ったが、単独行動でないのであきらめる。
◆ローマはすごい。

アンダルシアの旅(30)考古博物館をめざす

◆駅を降りる。すぐスーパーがあったので立ち寄る。まあ、世界共通の生活1ba06a4e.JPG1360ce0e.JPG需財が、同じように配列される。むろん実際の品物やそのならべ方は異なるが。飲み物をぶら下げる発想は日本にはないものだろう。
◆ひととおりながめ、ひとつだけ、快晴で暑くノドが乾いているため、コーラを
買う。冷えていてうまい。
◆すこし行くとスペイン広場。1929年の
万博の時にできたものという。まずは、その横にある考古博物館に行くことにする。万博跡地一帯が公園になっている。
◆セビーリヤでは、けっこうプリウスがタクシーに使われている。ハイブリッドというのがウリになるんだろう。いくつかあるというのでなく、かなり大がかりに導入されている様子。
 

アンダルシアの旅(29)今日はセビーリヤ

◆タリファに行った日の夜、それはそれはすごい風でした。海辺近くの波の音のように、ず~と。しかし朝方になると、わa59a7183.JPGりと穏やかに収まっていました。写真は朝8:30.夜明けじゃないですか。サマ830d1f7f.JPGータイムとかどうよ。時間を変えたら、時計を変えなきゃいかん、営業時間の表示は変えないということか。ふだんは例えば日本的に言えば9:00~12:00が午前とすると、夏時間は8:00~11:00にする、というのと、どっちがいいか、ということだ。
◆発表が終わり、今日はカミさんと、もうひとり新潟大のなんとかさんの奥さんと(みな旧制の小林さんとよぶらしい)セビリヤに。セビリヤまでは約1.5時間ほどの電車。まあ、座席指定はまったく適当で、みんな切符もよく見ずに、来た車両の空いている席に座っfa8a660c.JPGている。観光客だからかどうかはわからん。で、その座席の本当の人が来ると動く。まあ、それでいいんですけど・・・。
◆セビリヤは大都会。大きな駅はあるのだが、カディス側から言えばひとつ手前で降りるのがよい。見どころに近いのはこっち。セビリヤには、この鉄道・バスだけでなく、地下鉄も路面電車もある。

アンダルシアの旅(28)1日目のおわり

◆そこからカディスの先端(北)をまわり、東海岸に回り、一周してバスタ08d68da0.JPGーミナルに戻る。大きな木が2本、これは何の木か。オリーブに似ているようにも・・・。あとよく見るのは松ですね。種類が違うんでしょうけど、マッシュルームのように、全体に丸い樹形になり、それがならび、特徴的な松林をなす。
◆あと面白いなと思ったのは道路。周囲の幹線道と、内部の街路とを直接的な交差点とせず、ここもロータリー的に、先に進んでから回っていくように取り付けてある。
◆バスターミナル19:30くらい。窓口でサンタマリアまで切符を買う。行きよりも高いのは何故。切符の種類
2f9acdae.JPGが違っているのだった。急行というのか、それは知らんが、とにかく座席指定。時間があるので、駅のカフェでコーヒーとサンドイッチ。20時過ぎに出て20:40頃に戻ってくる。
◆車内には最新のモニターがあり、停車駅が示され、次の駅はどこというアナウンスもある。21時頃にホテルに戻る。
◆たぶんそのあと、最初のブログをアップしたんだろう。部屋には無線ランが入っており、フロントで部屋のIDとパスワードを教えてもらえばOK。自分のノートPCの無線ランの調子が悪く(たぶんこないだの踏みつけられる事故以来)、カミさんのレッツノートで。

アンダルシアの旅(27)内部の利用

◆城跡内部の建物がいくつかあり、それぞれ展示スペースに使っていた。この城の絵図などを示したものだけではな8ec391e4.JPGく、現代アート展示、写真展などもあり、こっちは企画展のよう。ルーブル博物館に訪れ426abf5d.JPGた人たちの写真展などは、企画展というよりも、貸しギャラリーのような利用かもしれない。
◆城の説明の部分も、正確にいえばそういうものなのか不安(企画展風にも見える)。ほぼパネルのみ、ちっちゃいキャプションのみ。もうちょっと、この遺跡に即して、なにかをわかってもらう工夫はいるように感じた。
 

アンダルシアの旅(26)カディス城市

◆西海岸に出る。ごっつい波除ブロックがいまは積み上げているが、城壁が直接海に面してc431795b.JPGいた時もまた、その城壁を守るのに苦労したかもしれません。やや斜めだが、ま、北に1161a5f2.JPGのびる島として、大西洋の荒波を直接かぶるのが西岸である。カップル多数、ベタベタしている。
◆旧市街のある北端部の入り口には城壁と城門があり、けっこう立派に造ってある。あとはぐるりと海に面して城壁をまわす。西海岸に五稜郭風の、なんていうんだけっか、稜角式?城郭がある。角が三つ、海に張り出させている。
◆入るのは無料、入口に職員1人、観光客がぽつりぽつりと入っていく。内部の建物は、展示施設として利用してある。それはまた次で。展示物であったカディスの旧図を掲げて
46986f7f.JPGおく。イメージをもって0f94596c.JPGもらえるだろう。この地図の左上につきだした稜角式城郭のことである。
 

アンダルシアの旅(25)カディスの街を歩く

◆時間はメモしていないのでわからん。18時過ぎに着いたような記憶がある。バスを降り、街中にもぐりこむ。どことも26771809.JPG絵になる。石造りの壁を見ると、海岸の石なんだろう。多孔質でギザギザな石、とc7c3ffa3.JPGにかく硬い石を成形し積み上げ、間を塗りこめば壁になる。壁立ちの文化だ。それが何百年と継承されていく。日本の柱立ちであれば、どうせ木造で建て替えるから、都市計画で拡幅にしておき、長い時間をかけて道を広げるのだろうが、そうはできないわけだ。石造りの街の基本はできて以来、それこそ戦乱でぐちゃぐちゃにならない限り、都市内部を区画整理することはないだろう。道も広がらない。だから狭く、そこを車が走る。一戸建ての概念はないし、家に車庫を設けることもない。サd9e8aa70.JPGンタマリアでもけっこうPが目立ったが、考えてみればこれも外来者用ではなく街の住5c8daa87.JPG人用のものらしい。そして片側が車が通れるような幅があれば、基本は路駐ということになる。
◆キャシードラル。3ユーロで入ってみる。スペイン語ではカテドラル、なんて訳すんだろうか。大聖堂?。まあ、でかい。そして、儀式用に、いろんな装置が発達している様子がわかる。
◆そのあと、南海岸に出て、カディスの街を歩く。島の先端全体が城市で、城壁が取り囲んでいたわけだ。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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